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第14話

 屋敷に戻った俺を待っていたのは、直視できないほどに辛い現実だった。 「お帰りなさいませ、朱月様」  出迎えてくれた嵐雪の目に、以前のような親しみやすさは無い。俺は軽く頭を下げてから無言でその横を通り過ぎ、両手で箱をしっかりと抱きしめて自分の部屋へ向かった。 「……俺達、そんなに騒がれるようなことしてない」  ベッドに座って俯く俺の隣に、夕凪も腰を下ろした。 「だって俺達は、ただ祭に行っただけだ。自分の村の祭に行って何がいけないんだよ?」  夕凪が俺の頭を優しく撫でて言う。 「そのこと自体が問題なのではありません。お二人が、規則を破ったことが問題なのです」 「規則って……ここに来た時夜霧が言ってた、『七時以降は外出禁止』っていう?」 「ええ、それは朱月様が守らなければならない規則。夜霧様には『午後七時以降、頭首不在時に限り屋敷を出てはいけない』という規則があります。お二人共、元々はオヤジが決めたその規則を破ってしまわれたのです」 「………」 「声をかけて下されば、オヤジに許可を貰ってお供しましたのに」  俺は……特別な夜に、夜霧と二人でいたかっただけだ。 「オヤジの言い付けを破ったとなると、俺も嵐雪も……お二人を庇いきれません。貴方をお守りすると誓ったはずなのに……申し訳ございません、朱月様」 「夕凪は何も悪くない。俺の方こそ、ごめん……」  俺の頭を軽く叩いてから夕凪が部屋を出て行き、そのまま俺はベッドに体を伏せた。  あの後社務所へ行った夜霧がどうなったのかと思うと、その夜は一睡もできなかった。  翌朝はいつも通り夕凪が迎えに来て、いつも通り顔を洗い、歯を磨き、朝食をとりに食事の間へ向かった。 「……おはようございます」  いつもと同じ朝食の風景。目を閉じて腕組みをしている親父と、幼稚園の制服を着た斗箴。夜霧はまだ来ていないようだ。 「あかつき、おはよう!」  斗箴は昨夜の一件を知らされていないのだろう、にこやかな笑顔を俺に向けている。 「おはよう、斗箴」  だから俺も笑って挨拶をした。 「斗箴、幼稚園から帰ったら俺の部屋に来てよ。渡す物あるからさ」 「うん、分かっ……」 「その必要はない、斗箴」  親父が薄く目を開け、俺を睨みつけた。 「朱月。お前は当分の間、夜霧は無論、斗箴とも個人的に接することは禁止する」 「え? ど、どうして――」 「それがお前への罰だ」 「っ……」  予想もしていなかった罰――そこで初めて、俺は自分がしたことの重大さを思い知らされた。状況を把握していない斗箴だけが、困惑した様子で俺と親父を交互に見ている。  そしてひたすら無言の食事が始まった。右側の席に座るべき男は、結局最後まで現れることはなかった。 「嵐雪の話によると、夜霧様は自室に籠もられているみたいです。食事も自室でとってらっしゃると。家族はおろか、村の誰とも会うなとオヤジが命令したそうで……」  食事の後、そう夕凪が教えてくれて俺は安堵の息をついた。少なくとも酷いことはされていないみたいだ。取り敢えずは夜霧が無事ならそれでいい。  俺は仕方なく自分の部屋を出て、この屋敷で唯一気に入っている庭へ行くことにした。廊下を歩く俺の背後からはしっかりと夕凪がついて来ている。 「あ……」  向こうから嵐雪とお凛ちゃんがやって来るのが見えた。嵐雪の少し後ろを歩くお凛ちゃんの手には、夜霧の物と思わしき食事の盆が抱えられている。  思わず足を止め、俺は嵐雪に向かって頭を下げた。 「嵐雪。ごめんなさい、夜霧のこと――」 「朱月様のせいではありません」  嵐雪はこちらを見もせずに、俺と夕凪の横を通り過ぎて行く。素っ気ない返事には俺に対する明らかな拒絶が込められていた。お凛ちゃんは縋るような目で俺を見て、だけどすぐに視線を前に戻して行ってしまった。  胸の奥が抉られたかのように苦しくなる。二人の背中が、遠い……。 「気を落とさないで下さい。夜霧様の謹慎が解ければ嵐雪の機嫌も直るでしょう」 「………」  胸の痛みは日に日に強まってゆき、七月に入ってからというもの俺は夕凪以外の誰とも口を利くことがなくなっていた。斗箴だけは俺を見つける度に声をかけてくれたが、親父に何か言われたのだろう。やがて俺を見ても無言で通り過ぎるようになった。  嵐雪は相変わらず俺を見ようともしない。お凛ちゃんや他の女中達も、俺に軽く頭を下げた後は逃げるようにして去ってしまう。屋敷から出られないから村の人達とも会えない。村民と矢代家を結ぶ架け橋は、今となっては崩れかけてしまっている。  選挙の夏を迎えようとしている矢代家には、前以上に村長を始めとした村の重役達が出入りするようになっていた。そんな時はなるべく顔を合わせないようにしていたけれど、屋敷内を歩いているだけで嫌が応にも彼らの声が耳に入ってきてしまう。 「あの妾の子供のせいで、今まで平穏だった矢代家に悪い空気が流れ始めましたな」 「夜霧様を誑かすなど不届き千万。間違いが起こる前に、早めに手を打っておいた方が良いのでは」 「所詮は余所者の血が混じっているということだ」 「本家の不穏分子」「疫病神」  襖の向こうから聞こえてくる数々の言葉。言い返せないでいる自分が惨めだった。  夜霧に、会いたい――。  同じ屋敷に住んでいるのに、もうだいぶ夜霧の顔を見ていなかった。日中は夕凪が俺に付きっきりだし、夜は嵐雪が夜霧の部屋の前で一晩中監視している。どうあっても親父は俺と夜霧を会わせないつもりでいるらしかった。たった一度規則を破ったただけでここまで苦しい罰を受けなければならないなんて……俺は親父を甘く見過ぎていた。  夜霧に会いたい。会って話をしたい。駄目ならせめて一言でもいい。夜霧に謝りたい。  やり切れない想いを抱えながらベッドに潜り込んだその夜、俺の部屋に思いがけない来訪者が現れた。 「あかつき……」  控えめに俺を呼ぶ斗箴の声が聞こえて、俺はベッドから飛び起きた。時刻は深夜1時を過ぎている。 「斗箴っ? どうした、こんな時間に……」 「夜中じゃないと、あかつきに会えないから」  襖を開けて暗い廊下を見回し、誰もいないのを確認してから斗箴を部屋に入れる。斗箴はベッドに浅く腰かけて、不安そうな表情で俺を見つめた。 「あのな、春雷に今回のこと少し聞いたぞ。兄様がおれ達に会ってくれない理由とか、あかつきが元気無いこととか……」  俺は目を閉じて俯き、斗箴に謝罪した。 「……俺のせいで斗箴にも迷惑かけた。夜霧と会えなくて辛いよな、ごめん……」 「ううん。おれ、てっきり兄様とあかつきが喧嘩したのかと思ってたから。だから理由知って、少し安心したんだ」  斗箴の気遣いが心に沁みる。俺達はしばらく黙ったままで力無く笑い合った。 「そうだ斗箴、約束してたろ。本当は誕生日まで秘密にしとこうと思ったんだけど……」  ベッドの下に隠しておいたベルトの箱を取り出そうとした時、斗箴がぽつりと呟いた。 「兄様が頭首になるの、延期になったんだって……」 「えっ?」 「半年後か、一年後か、期間は分からないけど……。父様が今回のことで兄様にひどく怒ってるらしいんだ。嵐雪が言ってた。兄様にとって、これ以上の屈辱はないって」 「………」  何も考えられなかった。言葉を発することもできなかった。屋敷中の……村中の期待を背負っていた夜霧の未来がまさか、こうもあっさりと摘み取られてしまうなんて。  五代目頭首となる夜霧を心待ちにしていた村民の思いも、他の何よりもそれを重んじていた嵐雪や斗箴の思いも。そして夜霧自身の覚悟や勇気も、全てが親父の独断で「無かったこと」にされてしまうなんて……。 「それでな、あかつき」  言葉を失った俺を見て、斗箴が更に辛そうな面持ちで言った。 「……あかつきは近々、東京へ戻されるんだって……。頭首交代の儀の時だけ客人として呼ぶけど、これからはおれ達と離れて暮らさなきゃならないんだって。兄様が頭首になった後は、もう二度と会えないかもしれないって……」  泣き出した斗箴を前に、俺は強く唇を結んだ。 「おれ……春雷と一緒に、紫狼様にお願いしに行ったんだよ。朱月とずっと一緒に暮らしたいって。兄様が予定通り頭首になれますようにって……」 「そうか……」 「紫狼様、助けてって……何度もお願いしたんだ」  小さな手で涙を拭う弟を、そっと抱きしめる。 「斗箴が俺達のために必死で祈ったなら、絶対叶う」  それから俺は斗箴の頭を撫で、はっきりと言った。 「大丈夫。俺は東京に戻らないし、今年の夏が終われば夜霧は頭首になる」 「あかつき……」  斗箴が何度も頷いて俺にしがみ付いた。  どうして俺はこんな根拠の無いことを口にしたんだろう。分からないけど、どういう訳かその点に関しては絶対的な自信があった。 「だから斗箴。安心して、今日はもう寝た方がいい」  ベッドを下りた斗箴が、最後に俺を抱きしめて言った。 「あかつき、また明日……」 「うん、また明日」  斗箴が自室に戻ったのを見届けた後、俺は一度服を着替えてから部屋を出た。  言えるだろうか。親父に。  矢代家の血を半分受け継ぎながらも無力で無知で何も持たない俺が、夜霧をも黙らせてしまうあの親父に。絶対的存在である頭首の、矢代宵闇に。 「………」  斗箴のことで必死になっていた時の気持ちを思い出せ。何度も目にしていた夜霧の強さを思い出せ。今動けるのは俺だけだ。夜霧の為に俺が闘わないでどうするんだ。  絶対に負けない。自分に言い聞かせながら、握った拳を胸にあてる。かつてないほど高鳴っている心臓は今にも俺の胸を食い破って暴れ出しそうだ。少しでも気を抜けば途端に呼吸が荒くなり、その場に倒れ込んでしまいそうなほどに苦しくなってくる。

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