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第13話

 大時計の針は七時ちょうどを指している。  初めて口にする料理を腹一杯食べた斗箴は、風呂も入らずに寝てしまった。たった今春雷が部屋まで運んでベッドに寝かせてくれたところだ。その屈託の無い寝顔を見ていると、俺も自然と笑顔になってしまう。 「斗箴、ピザを見て凄い驚いてた。大きなお煎餅だって、俺も笑っちゃったよ」 「今までどんなに我慢させてきたかが分かった。俺が頭首になったら、屋敷の食事内容も考え直さないとならないな」 「今日が夏祭り前日で良かったよ。普通の日だったら、親父に台無しにされてただろうし」  斗箴のベッドに腰掛けていた夜霧が、ふいに立ち上がって襖を開く。 「あ……」  廊下の窓から小さな花火が見えた。色とりどりの豪華なものじゃなくて、単色の、素っ気ない花火だ。 「明日から予定通りに夏祭りが始まるという合図だ」 「夏祭りか。……俺も行っていいのかな」 「何なら、今から行くか」 「えっ?」 「祭中、俺も社務所に籠もらないとならないのでな。参加できるとしたら今日だけだ」 「でも、祭自体は明日からなんだろ?」 「今日のは村民だけが参加できる『前夜祭』だ。笹上町や他県の人間も参加できるのが、明日からの祭ということだな」  時計に目を向けた。午後七時十分。こんな時間から外出するなんて少なくとも俺は許されていない。だけど……  行ってみたい。夜霧と、二人で。  俺達は斗箴を起こさないようにそっと部屋を出て、音を立てずに階段を下り、騙し騙し玄関の扉を開けて屋敷の外へ出た。  六月といえども七時半近い。空はもう暗くなっていた。屋敷の近辺には街灯があるからまだ幾らか明るいが、少し敷地を離れれば途端に辺りは闇に包まれる。  薄闇の中、俺は息を弾ませながら夜霧の背中を追いかけた。 「夜霧っ、神社まで走ってどれくらい? 祭が終わる前には着けるかな?」 「走って行く訳がないだろう。今日からバスの本数が増えているはずだ、それに乗る」 「よ、良かった……」  空には星が輝いている。畦道の途中にぽつぽつと並んだ小さな紫狼様の像の前には、誰かが作った握り飯や蒸かし芋がいつもより多めに供えられていた。 「紫狼様にもお礼しなきゃな……」  宮若神社前で下車した俺達は、競い合うようにして石階段を上がった。階段の下にも屋台がぎっしりと並んでいる。見下ろすその景色も綺麗だった。だけど―― 「そこまででお願い致します。夜霧様、朱月様」  屋敷にいるはずの夕凪が、巨大な鳥居を背後に仁王立ちになっている。その光景に俺は思わず自分の目を疑った。 「ゆ、夕凪っ。どうしてここに……?」 「屋敷を出て行くお二人を見たとの情報を聞いて先回りさせて頂きました。オヤジに知れたら大変なことになります。オヤジの不在中は、夜霧様……貴方が屋敷を守るよう言われているはずです」 「………」  言葉を無くした俺と眉を潜める夕凪の間に、夜霧が割って入る。 「親父は社務所から出て来ない。今日だけだ、夕凪。ほんの一時間でいい」 「いいえ、お通しする訳にはいきません。こればかりは夜霧様の命令でも従えません」  夕凪の目は真剣だった。元々吊り上がった目が更に鋭く光っている。 「どうしてもか」 「嵐雪は夜霧様が消えたのは自分の不注意のせいだと、けじめをつけるつもりでいます。俺も、同じ気持ちです」 「………」  夜霧と夕凪の睨み合いが続く中、俺は境内に広がる祭の景色を眺めた。  前夜祭だというのに沢山の人達が集まっている。村の殆どの人がいるんじゃないだろうか。皆楽しそうに笑いながら、丑が原村の夏を楽しんでいる……。 「朱月様。祭に参加するのでしたら、日を改めて俺がお供致します。今日のところは――」  その時だった。  夕凪の背後で何かが破裂する鋭い音がして、俺達三人は同時にその方向へ顔を向けた。長年の習性で夕凪が咄嗟にスーツの懐へ手を入れる。無理もなかった。それは誰の耳にも明らかな火薬の破裂音だったからだ。 「っ……」  夕凪の注意が逸れた一瞬の隙をつき、俺は素早く夜霧の腕を掴んで走り出した。 「朱月様っ……!」 「こら、お前達! 神社でロケット花火なんてやったら紫狼様に怒られるぞ!」  二人組の少年が大人達に叱られている。俺は少年達に心の中で礼を言いながら、人々でごった返している境内に向かって夜霧と共に全力で走った。一度この人ごみに紛れてしまえば、いくら夕凪でも簡単には見つけられない。すぐに俺達を追って来る気配がしたけど、やがてそれも人々の間に掻き消えた。 「上手くやったな、朱月」 「あのタイミング、かなり絶妙だった!」 「紫狼様の導きだ」  色とりどりの提灯が頭上で仄かな明かりを灯らせ、夏の夜空を鮮やかに演出している。俺と夜霧はその下を子供みたいに走りながら屋台から屋台へ飛び回った。  あちこちで歓声が上がり、子供達は浴衣の裾を絡げて元気に走り回っている。金魚掬いやヨーヨー釣りに熱中する子供達。一つの綿飴に顔を寄せ合う恋人達。参拝する大人達に、紫狼様をバックに写真を撮る集団――誰も彼も、幸せそうに笑っている。 「そう言えば夕凪に聞いたけど。一昨年の夏祭りに来た他県の大学教授に、夜霧、酷いことしたらしいな」  買ってもらった林檎飴を舐めながら訊くと、夜霧がたこ焼きを頬張って思い出したかのように頷いた。 「確か、俺が正式に次期頭首になると決めた年だったか。堅苦しい儀式をやらされて、只でさえ気が立っていた。それに加えて撮影禁止の場でいきなり写真を撮られて、つい、な」 「結局その時は、どんな罰だったんだ?」 「俺は『森に埋めるぞ』と軽く脅しただけだ。それを本気に取った矢代会の若い衆が、本当に実行してしまった。それだけのことだ」  悪びれた様子もなく言う夜霧に、俺は引き攣った笑みを浮かべた。  村の夜は更に濃さを増して行く。  俺は紫狼様の石造前にしゃがみ、賑やかな境内を眺めた。傍らで夜霧も焼鳥の串を咥えながら、俺と同じ景色を眺めている。 「祭の時期に、村に来れて良かった……」 「東京の祭と比べたら、大したものではないだろう」 「そう言う割には夜霧、さっきから色んな物食べて楽しそうにしてるじゃん。夕飯あれだけ食べたのに」 「こういう食べ物は滅多に口にできないから、今のうちにと思ってな」  それに、と付け加えて夜霧が言った。 「子供の頃は祭に参加すること自体、親父に禁止されていた」 「………」  その頃の夜霧を想像して切なくなった。きっと祭の他にも抑制されていたことが山ほどあるんだろう。  産まれた時から「次期頭首」――その運命の苛酷さは、夜霧にしか分からない。 「……夜霧」  呟いたその時、突然夜霧が立ち上がって額に手を翳し、遠くの方に目を凝らした。 「どうしたの?」 「あの射的の屋台にある景品は、確か斗箴が好きな特撮ヒーローだ。……この際だから土産にでもするか?」  俺も腰を上げて目を凝らした。一等の景品は……デビルライダーの変身ベルトだ。すっかり忘れていた。斗箴の誕生日にあげる約束をしていたんだ。 「あ、あれ、絶対手に入れなきゃ。俺、殆ど金持ってないのに斗箴と約束しちゃったんだ、誕生日にベルト買ってやるって」 「……そういうことは早く言ってほしいものだ。獲られる前に行くぞ、朱月」  射的の屋台は子供達が群がっていて、なかなかの賑わいを見せていた。少年達も皆、狙っているのはあのベルトだ。 「さぁ、一回百円で三発撃てるよ! 外れても残念賞でキャラメル一箱!」  上段の一番端に置かれたベルトの箱は一等の景品なだけあって、見たところかなりしっかりと固定されている。次々と敗北してゆく子供達を見ていたら、何だか自信がなくなってきた。 「だ……大丈夫かな。今更だけど俺、射的なんてやったことないんだよ……」  だけど俺にとって、これは最初で最後のチャンスなのだ。絶対に失敗は許されない。 「それより朱月。お前、金を持っているのか?」 「確か百円くらいはあったと思うけど……」  ジーンズのポケットを探り、取り出した百円玉を夜霧に渡す。 「百円で三発だったな。六発撃てば、まぁいけるだろう」 「ほ、本当に? それ殆ど俺の全財産なんだけど……」 「大丈夫だ。朱月、俺に賭けろ」  俺達の番になり、夜霧にコルク弾三つが渡された。 「二回分、頼む」 「はいはい、って、矢代家のお坊ちゃん方じゃないですか! 頑張って下さいよ」  夜霧が銃を構える。その目はまるで獲物を狙う狼のようにギラギラと光っていた。 「………」  パン、と乾いた音が夜空に響いた。 「あ、当たった……けど、倒れないと駄目だ、夜霧っ」 「分かっている」  続けて二発、間髪入れずに三発。四発、五発――夜霧は正確に的の端へ連射を決めてゆき、撃たれる度に少しずつ箱が後退してゆく。その光景はもう遊びの域を超えていた。  俺は息をするのも忘れてその行方を見守っていた。屋台の店主も、周りで見ている子供達も同じだ。全員固唾を飲んで的を凝視している。 「そろそろか……」 「よ、夜霧様、もうご勘弁……」  最後の一発が当たった瞬間、足場を無くした長方形の箱がとうとう耐え切れずに後ろへ傾き、落ちた。 「あ……」  茫然とする俺の周りで子供達が驚きと喜びの声をあげ、興奮状態で飛び跳ねながら目を輝かせて夜霧を見上げている。夜霧は店主に向かって勝ち誇った笑みを浮かべ、それから俺に向き直って小さく拳を掲げてみせた。  店主ががっくりと肩を落とし、夜霧が獲得した変身ベルトの箱を俺に持たせてくれた。 「いや、参った参った。全く、次期頭首様は何をやらせても天才的なんだもんなぁ」  俺は胸の高鳴りと頬が紅潮するのを止めることができず、箱を抱えてその余韻を噛みしめた。 「夜霧ありがとう。結局俺、また夜霧の世話になってしまった」  神社の裏手にある森の入口でベンチに腰かけ、二人して瓶のラムネを飲みながら遠くで聞える祭の喧騒に耳を傾ける。俺が言うと、夜霧が瓶を呷って笑った。 「二人の兄からのプレゼントにすればいい。お前も半額出したことだし」 「さっきの夜霧の姿、斗箴にも見せたかったなぁ……」  ホッとした思いで夜空に向かって溜息をつく。まだ頬は熱を帯びていた。  祭囃子の音と、笑い声。背後では虫の鳴き声。  頭上には星空、隣には夜霧。これ以上ないほどに満たされた夏の夜。 「夜霧……さっきの話の続きだけど」 「ん。何の話だ」 「俺の気持ち……有り難く受け取ってくれるんだろ」  俺は肩を震わせながらぎゅっと目を閉じ、覚悟を決めて言った。 「だったら、もっと……伝えたい。俺の気持ちを、出来れば直接……」  顔から火が出そうなほど恥ずかしい。だけどそんな俺の隣で、夜霧はクックと笑っている。 「なんだ、今日は随分と積極的だな?」 「そ、そういう訳じゃないけど」  困ったように溜息をついて、夜霧が俺の後頭部に手を添えた。俺も膝の上で握った拳が震えるのを感じながら夜霧の方へ顔を向ける。  近すぎる唇が、更に距離を縮めてゆく。こうなったらもう止まらない―― 「………」  重なった唇はラムネの味がして冷たかった。前はキスをされる度に身体中が緊張したけれど、今はもう、何も怖くない。 「ん、う……」  それどころか、もっともっと欲しくなる。夜霧の唇、舌、吐息……。その全てが欲しくて、俺は伸ばした両腕で思い切り夜霧にしがみついた。 「朱月」 「な、なに……?」 「こんな場所で、か?」 「………」  夜霧と一緒なら、どこでも――。 「夜霧様、朱月様っ!」 「わぁっ!」  突然拝殿の向こう側から夕凪が現れ、俺も夜霧も慌てて互いの口元から顔を背けた。汗だくになって駆けてきた夕凪が、両膝に手を付いて呼吸を荒くしている。その尋常でない慌てぶりに嫌な予感がした。 「こ……こんな所にいたんですか……探しましたよ……」 「夕凪……」 「オヤジに知られたみたいです。すぐ本家に戻ります!」 「えっ――」  何も言わずに立ち上がった夜霧が夕凪の後に続いて歩き出す。俺も急いでベルトの箱を抱えて二人を追った。  親父にバレた? どうして? 同じ神社内とはいえ、親父はここから離れた社務所にいるはずなのに。 「偶然お二人を見かけた村の者が密告したみたいです」  人ごみを掻い潜り、石階段を目指して走りながら夕凪が顔を顰めている。 「とにかくオヤジより早く屋敷に帰れば或いは、しらを切り通せるかもしれません。お二人共、車まで全力でお願いします!」  その時ふと、夜霧が足を止めた。 「夜霧っ……?」 「夕凪、朱月を頼むぞ」 「夜霧様っ!」 「逃げるのは性に合わない。……俺は社務所に行って、親父と話をしてくる」 「なっ、何言ってるんだよ夜霧っ」  踵を返した夜霧が社務所の方へ走り出した。その背中を追おうとした俺の腕を、夕凪が強く引っ掴む。  俺は半ば引きずられるようにして走りながら、遠ざかって行く背中に叫んだ。 「夜霧っ――!」  視界に広がる色とりどりの提灯。立派な櫓に、沢山の屋台。村の人達、夜霧の背中……。  全てが、淡くぼやけていた。

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