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第19話
同日、午後十一時。
頭首交代前夜とあって屋敷にはいつも以上の数の人間がいる。同じ顔ぶれは勿論のこと、笹上町の町内会長や役員達、商店街の店主達までがこの広間に集められていた。
進み出た夜霧が親父の前に正座し、滑らかな動作で頭を下げる。俺もその隣に膝を付いて、できるだけ心を落ち着かせながら頭を垂れた。いよいよ始まったのだ。
畳に手を付いたままの格好で夜霧が切り出した。
「親父。話しておきたいことがあります」
夜霧は少しも緊張なんてしていない様子だった。俺は広間に入る前から汗が止まらないというのに。
「隣にいる朱月のこと。――明日の儀式で、朱月を紫狼様に捧げる訳には行かなくなったことを報告致します」
瞬時に広間内がざわめいた。何も知らない笹上町の人達だけが、きょとんとした顔で丑が原の重役達を見ている。
親父が静かに口を開いた。
「どういうことだ。説明しろ」
「勿論です」
「話の内容によっては、お前にもけじめを付けてもらうぞ……夜霧」
そこで初めて夜霧の眉がヒクリと反応した。だけどそれは恐怖や絶望によるものなんかじゃない。むしろ上等だというような、どこまでも強気な目付きになっている。
「朱月は――」
「………」
「朱月は、……先日入れられた座敷牢の中で、俺と契った」
「何を言うのです、夜霧様っ!」
激昂したのは飯田村長だった。
「この餓鬼にまた何か吹き込まれたのですかっ?」
「違う。俺の意志で、俺から手を出した」
涼しい顔でそれに答える夜霧。俺は息を飲んで夜霧の顔を見ていた。
四方八方からゾっとするような鋭い視線が全身に突き刺さってくる。中でも正面から真っ直ぐ向けられている親父の視線には、俺に対する強烈な憎悪が含まれていた。
「今の話は本当か、朱月」
「……本当です」
その瞬間、広間中に火が点いたかのような勢いで村長他重役達が怒鳴り始めた。
「この餓鬼がっ! どれだけ矢代家を侮辱するつもりだ!」
「お前のような俗悪な存在は夜霧様と同じ空気を吸う資格すら無い!」
「もう我慢できん――八つ裂きにしてくれる!」
俺への辛辣な言葉が幾重にもなって渦を巻く。その光景は、前に一人でここへ乗り込んだ時よりもずっと激しさを増していた。
「恩知らずの雑種がっ!」
俺は畳に視線を落としたまま動じなかった。夜霧も同じだ。親父以外の誰に何を言われても無視すると、俺と夜霧の間で予め決めてある。
「静かに!」
親父が声を張り上げると、怒りに任せて怒鳴っていた連中の声がぴたりと止まった。笹上の人達は訳が分からず、顔を見合わせて首を傾げている。
「――夜霧。お前が矢代家頭首となる儀式において、朱月がどれほど重要な役割を担っていたか分かるな」
「分かっている。だからこそ俺は、……それを止めさせたかった」
「その理由は何だ。そして何故、今更になってそれを話す気になった」
本当なら「生贄」の話は極秘事項であるはずなのに、親父は笹上の人達がいるにもかかわらずその場で夜霧に説明を要求した。それほど緊急事態ということなんだろう。
夜霧の視線が、ちらりと俺に向けられた。
「俺にとって、朱月が特別な存在となったからです」
「っ……」
重役達が声を荒げそうになるのをすんでのところで堪えている。
「初めは朱月が弟だろうと生贄だろうとどうでも良かった。親父も知っての通り、俺は自分のことしか考えていなかった。朱月が村長や重役達の間でどんな扱いを受けているかも知っていたが、どうでも良かったから放っておいた」
夜霧の発する言葉が静寂の広間に響き渡る。俺はその声に心地好ささえ覚えながら、他の連中とは違う意味で黙ってそれを聞いていた。
「だけど朱月の内に秘められていた強さを目にするうち――いつの間にかどうでも良くなくなっていた。俺や斗箴の為に一人で闘ってくれた朱月を、今度は俺が守るべきだと思った」
そこまでを一気に言って、夜霧は親父の反応を伺うように沈黙した。
「………」
腕組みをして目を閉じていた親父の目が、薄らと開いて夜霧と俺を同時に捕らえる。
「朱月を守るということは、自分を犠牲にするということか。他人の為にけじめを取るなど、夜霧。お前らしくない考え方だな」
「家族や兄弟間における互助の精神。その大切さは、朱月から教わりました」
「下らない情に流され、そのために紫狼様に背くと言うか」
「紫狼様は生贄を望んでなんかいない。今日まで朱月を守ってきたのは他でもない紫狼様です。朱月の身体を捧げるなど、それこそ紫狼様に背くことかと」
「随分と自信があるようだな。直接啓示を受けたのか」
「俺が何の為に、毎日紫狼様との対話をしているとお思いですか」
「………」
沈黙が続く。夜霧が本当に啓示を受けたかどうかは分からないけれど、その言葉は親父達を黙らせるに充分な効果があったようだ。
「そこで、親父に頼みたいことがある」
夜霧が顔を上げて言った。親父の表情は動かない。
「親父が言ったように、今回の件については俺が然るべきけじめを取ります。頭首となった後は、必ず親父の期待に応えて見せます。だから親父も……朱月の存在を認めて欲しい」
「けじめって、夜霧一人のせいじゃ……」
言いかけた俺を、夜霧が伸ばした腕で制した。
「俺には朱月が必要です。だからどうか……」
「……駄目だ。こうなった以上、朱月を屋敷に置いておく義理はない。明日の朝一番で夕凪に東京へ戻させる。お前の処罰は今夜のうちに考えよう。以上だ、二人とも部屋へ――」
「朱月を東京へ戻すのなら、親父にもけじめをつけて頂きます」
「何だと?」
「夜霧っ……」
不敵に笑う夜霧の横顔とその発言に、俺の心臓が凍り付く。
「朱月の母親を気まぐれに弄んだこと、産まれた朱月をこれまで放置していたこと、騙して屋敷に連れて来たこと、今また気まぐれに放り出そうとしていること――これらのけじめをつけて頂きたい」
「よ、夜霧様……。それはいくら何でも……」
狼狽しだした重役達が、夜霧に向かって懇願するような目を向けた。
「ご自分の父上にそのような……」
「自分は良くてそれ以外は駄目だなんて許されるはずがない。そんな考えを持つような男に、丑が原の全村民は守れない。……そうでしょう、親父」
「………」
息子にここまで言われても、親父は黙ったまま座っているだけだ。
「……それとも親父は、矢代家四代目頭首としての自覚が足りなかったのでしょうか」
「夜霧、貴様――」
そこで初めてギロリと目を剥いた親父の眼光に、俺は自分の体が竦み上がるのを感じた。まるで金縛りにでも遭ったかのように、膝の上に置いた手も、指一本すら痺れて動かない。
「親父」
夜霧はまだ余裕の笑みを浮かべている。が、その横顔が微かに汗をかいているのを俺は見逃さなかった。
「俺は自分でけじめをつけると言っている。その上で頭首の座も引き継ぐ。それでも朱月を認められないのか?」
「……けじめという言葉を簡単に使っているが、夜霧。ではお前は今回の件に対して、自分でどのようなけじめをつけるつもりなのだ?」
「何だって構わない。指でも腕でも、差し出すつもりだ」
他人事のように言う夜霧に、俺はぎょっとして顔を向けた。それを聞いた村の連中も慌てている。まさか、いくら親父でもそこまでする訳は――
「……では夜霧」
「………」
喉の動きで、夜霧が唾を飲み下したのが分かる。
「朱月との不貞を許す。そして今後、朱月を屋敷に置くことも許す。……この二つのけじめとして、お前の左目と左耳を差し出してもらうとしよう」
「なっ、何言って……」
瞬時に金縛りが解けて腰を上げかけた俺を、夜霧の言葉が遮った。
「分かった。すぐにでも準備してほしい」
「夜霧っ、そんなことする必要なんか……!」
「これは俺のけじめだ。黙っていろ、朱月」
自分でも気付かないうちに、俺は夜霧の胸倉を掴んでいた。
「夜霧がそんなことされるって聞いて、黙ってられる訳がない! ――だったら親父、俺も夜霧と同じけじめをつける」
「黙っていろと言ったはずだ、朱月」
「絶対に嫌だっ!」
「朱月!」
恐ろしく殺気立ったその目に至近距離で睨まれ、夜霧のシャツを掴んだ手が震えた。それでも俺の決意は揺るがない。夜霧のためなら、目や耳の一つや二つくれてやる――。
その時だった。
「俺達も絶対に嫌です、夜霧様」
「えっ……?」
突然聞こえたその声に、俺と夜霧は同時に襖の方へ顔を向けた。親父も重役達も、その場にいた全員がそうした。
広間の入口の襖が開いている。そこには夕凪と嵐雪が立っていた。
「ゆ、夕凪……」
いつになく真剣な顔の夕凪と嵐雪が広間に入って来る。突然すぎて何も言えないでいる俺達の前で膝を折った二人が、親父に向かって深々と頭を下げた。
「オヤジ――いえ、矢代家四代目頭首、宵闇様。今回のことは夜霧様の世話役である、この嵐雪にも責任があります。どうかお二人だけの罪ではないことをご理解下さいますよう」
「そもそも座敷牢に入れられた朱月様を救って頂けないかと、夜霧様にお願いしたのは自分でございます。どうかこの夕凪にもけじめを取る場を与えて頂きたく」
「………」
俺も夜霧も口を開けたまま、茫然と二人の背中を見ていた。
「……嵐雪、夕凪……。お前達には失望した。矢代会での仕事ぶりを評価して息子達を任せたというのに、これほどの裏切りは無い。恥を知れ、この馬鹿者がっ!」
冷たく言い放った親父の目は、先ほどよりほんの少し鋭さが失われている。やはり心からの信頼を寄せていた二人の態度に、多少なりともショックを受けているんだろう。
「これを裏切りと仰いますか、宵闇様。朱月様を生贄にするおつもりだったことこそ、貴方を信じていた俺への裏切りかと存じますが……」
夕凪の肩は微かに震えていた。相当頭に来ているらしいことが、その背中からはっきりと伝わってくる。
「黙れ! お前達の代わりなど幾らでもいる、二度とこの村に足を踏み入れるな!」
「俺達二人の代わりがいることなど初めから承知しております。ですがオヤジ、数十人分の代わりは早々見つからないかと」
嵐雪が意味ありげに笑って、襖の方へ顔を向けた。
「……夕凪様と嵐雪様が裏切り者でしたらば、私も同罪でございます」
透き通るような、だけど決意に満ちた高い声。俺は目を丸くさせて、現れたお凛ちゃんが夕凪の隣に正座するのを見ていた。
「矢代家の女中を代表して申し上げます。夜霧様に座敷牢の鍵を渡したのはこの私でございますし、牢内にいた朱月様の食事を用意したのも私共でございます」
それから、と加えてお凛ちゃんが手に持っていた何枚もの紙を畳の上へ滑らせた。
「こちらは女中以外の使用人達と、朱月様が懇意にされている村民の皆様からの嘆願書でございます。朱月様をこの村から追放されるなら、私共も、村民の皆様方も、丑が原村を出る覚悟はできているつもりです」
「ゆ、夕凪。お凛ちゃんは関係ないだろ、どうして……!」
やっとの思いで言葉を発した俺を振り返った夕凪が、唇の端を弛めて笑う。
「お二人から話を聞いたその日のうちに、お凛達女中に声をかけさせて頂きました。勝手な真似をして申し訳ありません」
嵐雪もそれに続いて俺を振り返り、笑った。
「それに、お凛達だけじゃありません。朱月様……貴方はご自分が思ってる以上に色んな方から愛されてらっしゃるのですよ」
「何言って……」
「あかつき!」
小さな影が飛び出して来たのを見た瞬間、俺は危うく呼吸が止まりかけた。夜霧も全く予想していなかったらしく、目を見開いて茫然としている。
「と、斗箴……お前、何しに……」
「斗箴様、俺を置いてさっさと行かないで下さいよ、全く……」
斗箴の後を追いかけてきた春雷が、頭をかきながら嵐雪の隣に腰を下ろす。
俺と夜霧の間に割って入った斗箴が、俺達の腕を強く掴んで親父をキッと睨みつけた。
「父様、おれもあかつきと離れるのは嫌です! 兄様が酷い目に遭うのも絶対に嫌です! 兄様や夕凪達がけじめをつけるなら、おれも同じけじめをつけます!」
「と、斗箴様……いけません!」
斗箴を自分の孫のように可愛がっている飯田村長が、泣きそうな顔で首を振る。
「貴方は六代目頭首となるお方なのですよ。そのようなこと、嘘でも申してはなりません!」
「梅吉じいちゃん……おれは前に、あかつきに助けてもらったんだ。だから、怖くても……今度はおれが、あかつきを助けなきゃならないんだ!」
夜霧が斗箴の頭を力任せに撫で回す。それでこそ俺の弟――夜霧の目はそう言っていた。
斗箴の意志が固いのを悟った村長が、縋るような視線を親父に向ける。
「宵闇様、このままでは収集がつきません。この場は一旦終わらせて、また後日にでも……」
「………」
苦しそうに顔を顰める親父が頷きかけたところで、今まで黙ってこのやり取りを見ていた笹上の町内会長がおずおずと手をあげた。
「あの、矢代の旦那様……これは一体どういうことなんです? けじめとか、せっかく引き取った朱月さんを東京に戻すとか……。それに、儀式の生贄がどうとか……我々にはさっぱり事情が分かりませんや」
祭の射的で会った屋台の店主が、笹上の人達を見回して言った。
「事情はどうあれ我々も夜霧坊ちゃんや朱月さん側に付かせてもらいますよ。さっきから見てると、どうやら彼らの方が正しそうだからね。そうだろ、みんな?」
「おう!」「当然だ!」
次々と笹上の町内会の人達が声をあげる。それに誘引されるような形で、村の重役達が怒声を発した。
「お前ら、矢代会の恩を忘れたのか!」「誰が守ってやってると思ってる!」
笹上の人達も負けじと声を張り上げる。
「その矢代会で世話になった夕凪が困ってんだ、助けるのは当然だろうが!」「生贄ってのはどういうことだ、ちゃんと説明しろ!」
村の重役達と町会の役員達が、今にも取っ組み合いを始めそうな勢いで怒鳴り合う。実際暴力に発展しないのは、村の重役と比べて圧倒的に笹上町側の人数が多いからだ。
それはつまり、俺達の味方の方が多いということをはっきりと示していた。
「……親父」
双方の言い合いが続く中、夜霧が両手を畳について深く頭を下げた。
「心の中ではもう決まっているはずです。どうか、それを言葉にして頂きたい」
「………」
俺も姿勢を正してから夜霧と同じように頭を下げた。今までどんな仕打ちを受けてきたにしても、これからどんな扱いをされる予定だったかにしても――親父を傷付けた俺の罪は、変わらない。
「……朱月」
背後で喧騒が続く中、うっかりしていたら聞き逃してしまいそうなほどの小さな声で親父が俺に言った。
「朱月というお前の名前は、お前が産まれた時に……俺とお前の母親とで決めたものだった」
「え……?」
「俺は子供の名は朱色月のままで良いとお前の母親に言った。しかしあれは本家に迷惑がかかるといけないからと、後にお前に緋色月の名を与えたのだ」
「………」
知らなかった。「朱月」こそが俺の本当の名前だったなんて……。
俺と夜霧、そして斗箴の顔を順に見てから、親父が目を閉じてゆっくりと言った。
「宵が過ぎ、霧が出てきて帳が下り、そして……空は暁を待つ」
「………」
図らずも俺の頬を涙が伝っていた。
「朱月を儀式の贄として引き取ったのは、どういう形であれ成長したお前を見たかったからなのかもしれん。いや……本家の息子達にでさえ情をかけることのなかった俺だ、本当のところは、自分でも分からんがな」
そう言って、親父が音も無く立ち上がった。
「親父――」
「朱月、斗箴……お前達はもう休め。お凛も、こんな時間まで帰らなかったら家族が心配するだろう。春雷、送って行ってやれ」
「承知致しました」
「ありがとうございます……」
襖に向かう親父の後を、慌てて村の重役達が追いかける。
「嵐雪、夕凪。……これからも息子達を頼む」
「当然でございます」
襖が閉まる直前、親父が夜霧を真っ直ぐに見た。
「……後は任せたぞ」
それは、矢代家の頭首であり村の頂点に鎮座し続けていた親父が、夜霧に全てを託した瞬間だった。
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