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第1話

千川龍之(せんかわたつゆき)は作家だ。だが、周囲の人々は未だにそうは見ない。マイナーな通俗誌にアダルト小説を書いたり、ゴーストライターとして原稿を代筆したりするのだけが彼の作家としての仕事だからだ。 彼の身内は、高名な文学賞を取ってマスコミに大々的に取り上げられでもしない限り作家とは呼べないと考えている。龍之が小説家になりたくて職を転々としながら投稿や持ち込みを続けていた間、父親は彼の顔を見るたび、遊びもいい加減にしてはやく腰を据えてまっとうな仕事に就け、と不機嫌に言ったものだった。 それでも龍之が書くのを止めずにいられたのは、三つ上の姉のみずほのおかげだった。みずほは龍之が諦めそうになるといつも、たっちゃんには才能があるのだから、と励ましてくれた。私たっちゃんの書いた物読むのが好きよ、と。 最初に出版社から来た仕事は――元AV女優が自分の赤裸々な体験を小説化すると言うふれこみで――要するに、その女優のゴーストライターだった。龍之が以前小説原稿を持ち込みしたのを覚えていてくれた編集者がおり、彼が持ちかけてくれたのだったが――はじめ龍之は、なにか侮辱されたような気になって断ろうとした。自分の名前も出ない仕事なのだ。だがみずほは、やってみたら、と薦めた。たとえ名前が出なくとも人々があなたの書いたものを読んでくれることに変わりは無いのだから、と姉は龍之を励ました。 そうして龍之はその仕事を受け、ややスキャンダラスな内容も手伝ってか本はそこそこに売れた。それがきっかけとなって、そののち、同じ出版社からポツポツと仕事がもらえるようになった。 その頃には龍之は、家を出て東京都内で一人暮らししていた。親には、下品な文章を書きちらして金をもらうなどそんな恥知らずな仕事があるかと言われて勘当されていたのだが、姉からはちょくちょく連絡が来た。そうして龍之の小説も――男性向けのものであっても――彼女はきちんと読んでくれていた。 そんな風に龍之が姉に支えられていた部分は大きかったのだが、その姉がある日突然――行方不明になってしまった。恋人と駆け落ちしたのだ。その恋人というのは両親によると、身元もはっきりせず身なりも奇妙で、全く胡散臭い男だったらしい。何を生業(なりわい)にしているのかさえわからなかった、と言う。 その男に会った事がなかった龍之は、あの自分より数十倍しっかりした姉が――そんな相手と駆け落ちする道理が無い、と信じられなかった。まさか犯罪に巻き込まれてやしないだろうか、そう考えて、両親に捜索願を出すべきだと訴えたのだが、書き置きがあったからととりあって貰えなかった。あれはもううちの娘じゃあない、放っておけば良い、と言う。龍之といいみずほといい、お前たちは二人してとんでもない親不孝者だ、と母は電話口で泣きながら龍之を罵った。 姉の行方はわからなかった。龍之はその後何年も、出来る範囲で探し続けたのだが、時間も費用も限界がある。どうにもならず、ただ気を揉み続けていたある晩――姉の夢を見た。 なぜだか妙に古びた――柄は美しいが色褪せた着物を着たみずほがこちらを向いて微笑んでいる。龍之は彼女に駆け寄ろうとしたのだが、その姿は蜃気楼のように近付けば近付いた分だけ遠ざかっていく―― 姉は微笑を浮かべたまま――ごめんね、たっちゃん、長いこと連絡できなくて、と言った。 最後にあなたの元気な姿が見られて良かった。私はもう行かなくちゃならない――あなたの小説、もう読めないのが残念だわ。がんばって。書くのは――止めないでね。 小さくなって消えてゆく姉の姿に龍之は手を伸ばし、姉さん、と叫んだところで目が覚めた。どうしても、ただの夢とは思えなかった。ああ、姉は死んでしまったのだ――きっともう――この世にはいない、とそう感じた―― 姉が連絡をくれなくなったせいなのかどうなのか――それから龍之は随分と女性に溺れるようになった。最初はあの、ゴーストライターを務めたAV女優を皮切りに、かなりな数の女性と関係を持った。そうして今はそのうちの一人と同棲している。龍之よりも二つ年上で、名前は桜子といった。だが桜子一人に縛られる気はさらさら無い。彼女は勤めが忙しくて残業や出張も多く、龍之がその気になればいくらでも浮気ができたので、一緒に住むのに都合が良かったというだけだ。住んでいるのは桜子名義のマンションで、彼女が家賃を自分一人で負担してくれているのも便利だった。最初龍之は、半分ぐらいは払うと一応申し出たのだが、彼が貧乏作家と知っているためか桜子は、いいのいいの、と笑って断り、龍之もそうか?とあっさり提案を引っ込めた。男のプライドなどあったものではない。だが龍之はこだわらなかった。実際桜子の稼ぎは龍之より数段良いのだから、ある方が負担するのが実際的と言うものだ。 ――みずほが聞いたら怒るだろうか?いや、俺がだらしがないのはよく知っているから、たっちゃんらしい、と呆れて笑うかもしれない。私がいなくなっても相変わらず女の人に甘えているのね、と。 執筆の合間、桜子のスキを見て若い女の子と浮気し、桜子がいる時は彼女と睦まじくする――龍之がそんな気ままな生活をしていたある日――予想もしていなかった相手が彼を訪ねてきた―― ―――――――――――― 「ちょ、桜、さくらちゃん!?ごめんよ、ホント、ゴメンってば!」 「いいから今すぐ出てって頂戴!」 龍之は必死に床に這いつくばって頭を下げたのだが、激昂した桜子に蹴りだされた。ちゃんと上げきれなかったデニムが足に絡まったまま、マンションの玄関から外の廊下に転がる。部屋へ連れ込んだ相手の女の子はとっくに逃げ出していた――思ったより胸大きかったのになあ、惜しいことした、と龍之は頭の隅っこで考えた。今日は桜子は残業のはずだったのに、なんでこんな早く帰ってきちまったんだ――その顔に脱いであったシャツが叩きつけられる。次いで靴が飛んできた。 「いて!オイ!」 「ここはアタシの家でしょうが!そこへ女引っ張り込むって――あなた一体どういう神経してんのよ!?出てけ!」 一旦中へ入った桜子は、恐ろしい事に今度は龍之の仕事道具のノートパソコンを投げつけてきた。書きかけの原稿データが入っているそれを、龍之は必死の形相で抱きとめる。 「な、なんてことしやがんだよ!壊れたらどうしてくれんだ!」 憤慨する龍之にフンと鼻を鳴らし、桜子は後またいくつか龍之の物を部屋の中から廊下へ放り出して扉を閉めた。興奮してるから何も聞きそうにない――どこかで時間を潰して、彼女が落ち着いた頃に戻ってくるしかしょうがないだろう――そう考えて辺りに散らばったものを拾い集めていると――それを手伝ってくれる手がある。華奢な――少年の腕だった。 「あ、悪いねえ、ありがとう」 かなりみっともない所を見せたにもかかわらず、龍之は悪びれずに礼を言った。 少年が拾ってくれた物を受け取りながらその顔を見て龍之は、この子はどこかで――見た事がある、と考えた。近所の子だったか?ふと気付くと、少年の後ろ――廊下の薄暗がりにもう一人誰かが唖然とした様子で立っていた。かなり背が高い長髪の青年で、190センチ以上はありそうだ。 見かけない連中だ――そう思っていると、 「千川龍之さんですか?」 目の前の少年にこう尋ねられて驚いた。 「……えっ?うん、そうだけど……君、なんで俺の名前……」 少年は暫し龍之の顔をじっと見つめた。そうして、 「僕――鳥斗(とりと)と言います。あの……みずほの、息子です」 と言った。 龍之は少年の顔をぽかんと見つめ返した。 「まさか……それはないだろ」 いわれてみれば――少年の顔にはみずほの面影がある。特に目が――。だが彼は少なくとも、16、7にはなっているように見える。姉が駆け落ちして家出したのは十年前だ。いくらなんでも、こんな大きな息子がいるはずは無い。 「だって君、いくつ?」 龍之にそう問いかけられて少年はなぜか戸惑ったような顔をした。するとその時、後ろにいた背の高い青年が口を開いた。 「いきなり信じてはもらえないでしょうけど――本当なんです。鳥斗坊ちゃんは、確かにみずほ奥様のご子息です」 ぼっちゃん?奥様?龍之はますますぽかんとした。一体こいつらなんなんだろう?見た目は特に――金持ちそうにも見えないが。着ている物だって――あちこちカギ裂きやほつれができて、かなり痛んでいる。 「どうか――助けて欲しいんです。こちらには……龍之様しか頼れる方がいなくて」 青年が必死に言う。なんだかかなり困ってるようだ。龍之は桜子に投げつけられたものを両手で抱えたまま、 「よくわかんないけど……ここで立ち話は近所迷惑だから、移動しようか……」 と二人に向かって言った。

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