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ものいう花

「ふう……」 文机の上、ようやく書き終えた書面から、高坂昌信はそのかんばせを上げ、流麗な仕草で筆を置いた。ここ数日は筆仕事が多く、夜間までかかりきりのことも多々あったため、その血色はあまりよくはなかった。 それでも、誰が言い始めたかは分からないが、『傾国の美男』などと渾名された昌信の、そんな表情ですら雰囲気がある。――傾国の美男。逃げ弾正とはまた違う方向からの厭味であろうが、昌信はそれを寧ろ気に入っていた。 国を傾ける? そう呼ばれていようが、己の主――つい先日、出家し名を武田信玄と改めた彼が治める甲斐は安泰だ。つまり主は、そのつまらない『傾国』にのめり込むような男ではないということ。言い始めた者の見る目が甘いのだ。 昌信は顔の横で編み上げた長髪を整える。ちなみに、これは信玄には注連縄と呼ばれ、よく玩ばれていた。 書き上げた書面をさらりと読み終えると、ふと庭先へ目を移した。そういえば、しばらく見ていないうちに花が整えられている。牡丹と芍薬が、咲き誇っていた。軽く気分転換によいだろうと、庭先へ下りていく。 「……なんて美しいのでしょう。大振りでいて、生命力に溢れ、みずみずしい……」 そっと花を指先で包み込むように、撫で愛でる。 「よく、手入れが行き届いているようですね。これでお屋形様の心も慰められるでしょう」 花々に微笑んで部屋へ戻ろうとした瞬間、昌信にある思考がめぐった。 「ああ……なるほど、つまり……?」 人指し指を下唇に軽くあて、思案をする。そしてはたと何者かに憑かれたような勢いで、再び文机の前に座すと、書きなぐりにも近い勢いで筆を動かした。 どんな花であれ、土と手入れが行き届かねば、咲き誇ることはできないのだ。そう、わたくしもこの牡丹と芍薬のように、優れたお屋形様に咲かせていただいた身なのだ。……そんな走り書きを終えると、 「お屋形様……!」 いますぐ、この気持ちを主に伝えたい。昌信は、思わず部屋を飛び出していた。 「あ、あのー……高坂殿、いらっしゃいますか?」 それと行き違うように、幼げな風体の内藤昌豊が、ひょっこりと顔を覗かせた。昌豊は信玄の側近のうちでも中堅に入るのだが、年齢と釣り合わぬあどけない容貌と、常に困惑に似た表情をしているせいか軟弱だと思われがちだ。だが、戦へ出ると人が変わったようになるらしい、ということは、今は置いておくとする。 「兵糧の件でお伺いしたかったんですが……外れちゃいましたねぇ」 まさかお屋形様のところでしょうか。と一人ごちて、ハの字の眉毛を更に垂らして去ろうとしたとき、風が吹き抜け、文机の上がかさりと鳴った。振り返れば、幾枚か散らばっていく様が目の端に見えた。 「あああ~……もう、散らかっ……」 人のものではあるが、一応整えておこうと、手にする。 『どんな花であれ、……』 「……。どうしてでしょうか……あまり、こう、見てはいけないというか……」 深く考えちゃいけない気がする。そんなことを内心で思うと、一先ず書を重ねまとめ、文鎮で改めて押さえた。 「はあ、高坂殿もこれさえなければそれなりに常識人のはずなのになあ」 今度は包み隠さずことだまにすると、昌豊はあきれて部屋をあとにした。 躑躅ヶ崎の館は音が絶えない。がしゃがしゃと、戦のない平時には似つかわしくない、物々しい音が廊下を足早に駆ける。 「昌信っ? いるかっ? いないか? ま、いっか!」 走り抜けた廊下に面した襖をすすーっと一枚閉め、具足で身を包んだ青年はその陰で、隠れるように身を縮めた。 「おいっ、昌景! 出てこんかぁっ!」 そのあとを追うように、上品ながらも怒気を含んだ足音が響く。 「まったく、儂と山本殿の甘味を一人で平らげおって! 食べたいのなら誘ってやると言うておるではないか!」 「えっ、本当に?」 昌景、と探されていた彼は単純に顔を出した。この山県昌景という男は、昌信とは近習時代にほば同期として、互いに切磋琢磨して成長をした。赤色を好み、具足を収集するのを趣味としている。武功は立つのだが、直情直結型であまり深く考えないところがあり、そこが玉に瑕であった。 そして彼を探し追いかけていた馬場信春は、古くから武田家に仕え、昌信ら四天王のまとめ役のような存在だ。しかしそこはやはり、まとめ役というだけに厳しい。予定だけでなく、装束でも調度でも、なにもかもを整えることを好み、少しでも乱れることを嫌う。その表れか、彼の髪もひげも、ぴっちりと整え固められている。 そんな昌景と信春は、当然といったところか反りがあわず、言い争いなどが絶えないが、喧嘩するほど仲がよいというものなのか、共に行動していることは多いのである。 「見ーつけたぞ! 昌景!」 「あっ……!」 「こやつめ、いっぺん叩いてやらんと気が済まんわっ」 今回の言い争いの種は、茶請けを勝手に食べられたということだ。これは何度もあった。そう、何度も何度も。まさに、食べ物の恨み。 信春は腰から刀……ではなく扇を引き抜くと、その額に向けて振り下ろすが、簡単に受けてやる昌景ではない。一度白刃取りの受け身をとると、そのまま扇を振り払った。きれいに宙へ弧を描いた扇は、文机の上に着地した。 「……はあ、もうよいわ……」 「ほい、信春じい」 文机から扇を拾い上げると、昌景は信春にそれを渡す。 「……ところでなんだ昌信は。書を放り出して不用心な」 「いやいやいや信春じい、文面からして。これさぁ」 青ざめる昌景に反して、 「……ほう、なんとも素晴らしい」 きっちりと整えられたひげを撫でながら、信春は感嘆の声をもらした。 「えっ! これが……?」 「うむ。豊かな国造りに繋がる発想ではないか。昌信もよいことを考えるものだ」 そう笑うと、お裾分けをしてやろう、と、文鎮とはまた反対の方向を、懐に隠し持っていた饅頭で押さえる。 「さ、いくぞ昌景」 「……お、おう……」 先ほどとは打って変わり上機嫌で立ち去っていく信春の背中と、書面とを見比べて、昌景は首を傾げた。 「そんなにすごいのか……この、お屋形様宛の恋文」 「おい、昌信……いるか?」 出家して以来、ひとつに下ろし結った癖毛が、風にふわふわとなぜられる。武田家当主、信玄は眉根を寄せた。目付きが悪いとは常日頃から言われるが、それは生来のものと、時折訪れる頭痛を紛らわすためである。頭に痛みが走る度に、彼が険しい顔をするのは癖のようなものだった。それを知っているのは、側近の中でも限られており、更にその変化を察せられるのは奥方と、その他数名らしい。 「……不在、か」 ふと、文鎮と饅頭に支えられ、むき出しの文面に気付く。 「ん、なるほど……な」 覗きこんで目を走らせれば、聞きなれた足音が近付いた。 「昌信」 「ああ! お屋形様、まさかわたくしの部屋へいらしていたとは……お探ししましたよ。危うく甲斐全土を探し回ってしまうところでした」 さらりとおかしなことを言う昌信に、信玄は救われるように笑った。 「ははっ。お前はいつもいつも」 「お屋形様?」 「……いいや。俺の物言う花は少々癖が強くて、頭が痛いと思ってな」 「はっ、頭痛でございますか? ……いえ、失礼を」 頭が痛いという発言に、昌信は大げさな程に驚き、信玄の肩に触れる。しかしそこで、彼のしかめっ面が生まれつきのものだと気付いて、その手を戻した。 「まあ、ある意味その通りというか……丁度いい。庭の花を眺めながら、休むとしよう」 ふわふわした髪をほどくと、床へごろりと寝転んだ。 「膝を貸せ、……虎綱」 「御意に」 昌信が座り、信玄は遠慮なくその膝を枕とする。 甲斐の虎の目からは険しさが消え、その花を愛でる視線は、とても柔らかだった。 了

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