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第1話の1
七月の雨が、陰間稼業の双蘭(そうらん)はいちばん好きだった。
まだおしろいや紅はつけていないし、湯浴みもまだの時間だったので、
傘もささずに店の裏手、井戸の脇に飛び出て、双蘭は十八歳の若者らしく、
思い切り両手を広げ、天を仰ぎ、雨のしずくを浴びてみた。
最近の粗末な普段着でさえ濡れれば親方にお小言をくらう陰間の暮らしだが、
そんなこと、もうどうだっていい気がしていた。
七月の箱館は、昼間は暑くても夜は涼しくて心地よい。
さらには、江戸や上方と違って夏もじめじめしていないのでしのぎやすいのだと、
その辺りからやってきた客に何度も聞かされていたが、
箱館育ちの双蘭にはいまひとつ実感が湧かない。
紅おしろいをつけ振袖を着た女のなりで、
男や女に色を売ることばかりのつとめを幼い頃からしてきたために、
双蘭の「世間」は狭い。
見目かたちに惹かれたという客に、
あるいは金剛と呼ばれる自分の付き人に、
店の長である親方に、いいように、
されるがままにやってきた、という感じだった。
そのうすぼんやりした世界の中に、
何かもやもやしたものを植えつけていった男は、今はもういない。
―…弾が当たって落馬して…
―首をかかれないようにって、
お付きの者があわてて陣地まで担ぎ込んだって話だべさ…
―でも、墓の場所もわからねって…
―…人斬り組やってた人だもの…くわばらくわばら…
店の下働きの者達のひそやかな噂話が双蘭には忘れられない。
その噂話より他に、あの男の消息を伝えてくれるものは双蘭には何もなかったのだ。
あんなにちやほやされた人だったのに。
陸軍奉行・土方歳三…
そして、その噂話を聞いた時の、胸をえぐるような痛みは、
ずっと双蘭をさいなみ続ける。
(あの人の、心に残れたわけじゃないのにな…)
そう自分に何度言い聞かせてみても、この胸の痛みは消えない。
惚れていた、とはこのことなのだ…思わず双蘭は、地べたにしゃがみ込んでいた。
と、その脇にすばやく走り寄り、肩を抱いて囁いてくれる者がいた。
陰間の弟分の母恋(ぼこい)だった。
「兄さん、どないしたのん? 大丈夫? 」
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