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第1話

 5月の声を聞くまではコートを手放すな、と言ったのは誰だったか……リチャードは子供の頃に、誰かから言われたそんな言葉をふいに思い出す。  オフィスの窓の外には眩しい青空が広がっていた。眼下に流れるテムズ川の水面は、きらきらと陽の光を反射している。だいぶ暖かくなってきたことだし、レイを誘って川べりの散歩をしながら、あの辺りのパブで一杯やるのも良さそうだな、などと思ってつい口元が緩む。  5月を過ぎるとようやく天候も安定してきて、暖かな日が増え、人々もアウトドアを楽しむシーズンがやって来る。同時にテムズ川沿いやハムステッドヒース、プリムローズヒルなどの人気スポットが混み出す時期でもある。  地元のロンドナーは、ピクニックハンパーと呼ばれる食べ物が入ったバスケットを片手に、こう言った場所に繰り出す。そして日がな一日、食べ物をつまみ、アルコールを飲みながら、家族や友人たちとのんびり芝生に横になって会話を楽しむのだ。  リチャードはパソコンに文字入力する手を止めて、しばし青い空を眺めて空想に耽る。 ――そういや、レイはあれっきりあの事について話題にしなくなったけど……  リチャードはレイが切ない表情で自分を抱きたくないのか、と尋ねて来た時の事を思い出していた。結局あの晩は、彼が許容範囲を超える量のアルコールを摂取してたのが原因で、酔っ払って訊いてきただけだったのだが。  だがしかし、あれも彼の本心の一つではあったのだろう、とは思う。レイが5年の間リチャードを想い、求め続けて来た事を考えたら、答えを焦る気持ちも分からないでもない。この次、チャンスがあるのなら、タイミングが合うなら、彼の気持ちに答えてあげたい、リチャードはそう思っていた。だが、何故かそれっきりレイは話題にしないし、態度にも表わさない。何事もなかったかのように、ただ淡々とあっさりした付き合いに終始するようになってしまった。 ――俺、飽きられたのかな……  ふとそう思って落ち込んでしまう。  そう言えば、あの時酔ったレイは「リチャードの事、諦めるよ?」と言っていたではないか。自分がはっきりした態度を取らないから、レイに愛想を尽かされたのかも、と突如不安になってしまう。

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