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第1話
その公園は住宅街の中にある。
危険と見なされる遊具が撤去されて滑り台と鉄棒しか残されていない寂しい遊び場に、広い敷地のほとんどを占める、ケヤキやハナミズキなどの林に囲まれた遊歩道。
平日の昼時では散歩する人さえいない遊歩道の途中で、村瀬涼一は足を止めた。
道の端に置かれた、ちょうど大きな木の木陰に入るベンチ。そこから少し離れたところには、古びた公衆トイレと水道がある。
ベンチの横に立った涼一は顔を上げ、林の奥に目をこらした。
……あった。
木々の間から見える、人工的な青。ブルーシート。
間違いない。この場所だ。
涼一は帽子のつばを掴んで俯き、まだ新品同然のスニーカーの靴先を見下ろした。
そのまま、五分以上はそこに突っ立っていたと思う。
ようやく意を決し、柔らかい土の上に足を踏み出した。
事の発端は昨日のことだ。
昨日はとても五月とは思えない暑い日だった。そもそも連休中からずっと各地で二十五度を越す夏日を記録していたそうだが、週に一度しか外出しない涼一には関係のない話だった。
しかし昨日は、まさにその外出日。いつも通りに昼過ぎの時間帯に外出すると、そこは地獄だった。
頭上からはジリジリと肌を焼く太陽の日差し。アスファルトの地面からは照り返しの熱。空気さえも湿気を含んだ熱を持っているようで、吸い込む息までが苦しく感じた。
普段日差しを浴びない引きこもりの体には、さすがにきつい。けれども引き返すことができない涼一は、風通しの悪い野球帽とセルフレームの眼鏡で顔を隠しながら、無心で足を動かし続けた。
外を歩くときは、少し先の地面に視線を集中させ、俯いて歩く。人が前から近づいてきそうなときは、帽子のつばを掴むふりをして顔を隠す。涼一が決めたルールだ。
毎週木曜日には商店街の小さな本屋に行き、週刊のゲーム雑誌を買う。家には午後三時までには絶対に帰る。外にいる間は、度の入っていないパソコン用の眼鏡を絶対に外さない。
ルール、ルール、ルール。
しかしそのルールがあるからこそ、涼一はかろうじて世間と繋がっていられる。自分はまだ大丈夫なのだと思っていられる。このルールは、自分を守るための最後の砦だった。
マンションを出てから三十分ほど歩き、ようやく商店街の本屋にたどり着いた。いつ来ても客のいない店内には、今どき珍しいことに、冷房が設置されていない。あるのは扇風機が二台だけで、その一台も、レジカウンターの中で老店主が独占している。
涼一は店に入ってから一分もかからずに会計を済ませて外に出た。これで今週のミッションも完了だ。後は家に帰るだけ。改めて気を引き締め、来た道を引き返した。
商店街を抜けて少し歩くと、広い公園に差し掛かる。
中に入ったことはない。今のマンションに引っ越してきたときにはもう引きこもりだったため、わざわざ公園の中を散歩しようとは思ったこともなかった。
それに、母親から聞いて知っている。この公園はホームレスの根城になっているのだ。
――惨めだな。
この公園のそばを通る度、涼一は必ず思う。
林とフェンスに囲まれ、公園の中を見ることはできない。そこに住むというホームレスの姿を見たこともない。けれども必ず、思う。
――ホームレスなんかになるくらいなら、死んだ方がマシじゃん。
路上で生活し、薄汚い格好をして、ゴミを漁ってその日の食料を得る。想像しただけで吐き気がしそうだ。
――そんなになってまで、なんで生きてんだよ。
心の中で吐き出したことは、そのまま自分に跳ね返ってきた。
額から垂れる汗が、いつの間にか目に届いていた。睫毛の上で溜まった小さな汗の粒が、瞬きの拍子に弾け、目の中に入ってきた。
「っ……!」
瞳がジクンと痛み、慌てて手の甲で拭う。
最悪だ。だから夏は嫌いなんだ。汗は邪魔だし、ベタベタして気持ち悪い。
一刻も早く家に帰り、汗を洗い流そう。そう思っていたとき、前方から甲高い笑い声が聞こえてきた。
若い声。咄嗟に顔を上げる。
こっちに向かってくる、近くの高校の制服を着た男女。
ドクン、と心臓が大きな音を立てた。
すぐに下を向く。帽子のつばを掴み、鼓動の早くなった心臓をなんとか落ち着かせようと深呼吸した。
平日と言っても、必ずしも安全とは限らない。定期試験の日は午前で授業が終わる学校は少なくないし、何かイベント毎で午後の授業が休みになることもある。
これまでだって制服姿の学生を何度も見かけてきたが、その度に問題なく通り過ぎてきたはずだ。大丈夫。問題ない。
冷静でいようと自分に言い聞かせるが、心臓は嫌な鼓動を続けている。この暑さと強い日差しが邪魔をするのだ。なぜか気持ちが急き立てられ、不気味な不安が胸を襲ってくる。
男女の楽しげな笑い声は少しずつ近くなってきた。いっそガードレールを越え、車道を突っ切って反対側の歩道に逃げようか。幸い、今は車もほとんど走っていない。
しかしそんなことを考えている間にも、声はすぐ傍まで迫ってきた。きっともうすぐすれ違う。
――大丈夫。大丈夫。大丈夫。大丈夫。
つばをギュッと掴み、ついにすれ違う。
示し合わせたように二人の笑い声がピタリと止んだ。そして涼一の横を通り過ぎて二秒ほどで、弾けるように笑い声があがる。
その瞬間、全身から異常な量の汗が噴き出した。
気持ち悪い。
何が、とは言えない。この世に存在する何もかもが気持ち悪い。
腹の奥がカッと熱くなった。胃の辺りから、何かがものすごい勢いで迫り上がってくる。
「っ……!!」
咄嗟に口元を抑えた。しかしそれではせき止められなかった。
「おえぇっ……!」
ビチャビチャっと吐瀉物が地面に叩きつけられる。
汚い音。汚い物。
涼一の手も汚した吐瀉物には、まだ昼に食べた野菜炒めが小さく形を残していた。
汚い――。
ぞわっと鳥肌が立った。
また胃の中から内容物が逆流してくる。吐き気は治まらなかった。
「おえっ……! はっ……、ぐっ……」
いくら吐いても喉が焼け、何かが引っかかっているような不快感が残る。
脚がガクガクと震え、立っていられなかった。涼一は吐瀉物の上に崩れ落ち、必死で咳き込んだ。
「う、うぅ……」
なんでこんなに汚いんだ。
なんでこんなに惨めなんだ。
悔しくて涙が溢れてきた。それが眼鏡の上にポタポタと落ち、視界を曇らせていく。
そのときだった。
「おい! どうした!?」
道路の向こうから叫ぶような声。
涼一は吐瀉物を見下ろしたまま、汚物にまみれた手を握りしめた。
――うるさい。見るなよ。
しかしアスファルトを蹴ってこっちに駆けてくる足音が聞こえてくる。
大きな影が日差しを遮った。
「おい。大丈夫か?」
低い男の声。
穴の開いたボロボロのスニーカーが涼一の吐瀉物を踏みつけ、影が揺れた。大柄な男が、涼一の隣にしゃがみこんだ。
「なんか変なもんでも食ったのか? 救急車呼ぶか?」
のろのろと首を横に振る。その拍子に帽子が頭から滑り落ち、吐瀉物の上に落下する。べちゃっと嫌な音がしたが、涼一はそんなことにも気づかなかった。
頭がクラッとして、男の方に倒れ込んだ。
「おい……!」
がっしりとした硬い腕で抱き留められた。男からは汗を何日も放置したような臭いと、濃い石鹸の匂いがした。
「……大丈夫か? しっかりしろ」
だらしなく開いた口から必死で息を吸い込み、涼一は顔を上げて男を見た。
ハーフかと疑うくらい彫りの深い顔だ。
歳は三十歳前後だろうか。眉は濃く、瞼は窪み、目はくっきりとした二重。鼻筋が通っていて、とても高い。唇は少し厚めで、だらしなく伸びた髭が口の周りを覆っていた。
「まさか熱中症じゃないよな?」
男は涼一の肩を抱いたまま、反対の手で額に触れてきた。
「熱はないな。……くそっ、分かるかよ」
口汚く吐き捨てると、辺りをキョロキョロと見回す。誰かいたのか、「おい! 助けてくれ!」と叫んだ。しかし逃げられたのか、小さく舌打ちした。
「仕方ねぇな」
何かで乱暴に口を拭われた。次の瞬間、涼一の体はふわりと宙に浮いた。
「ちょっと待てよ。すぐ日陰に運んでやるから」
その声もボヤッとしたもやの向こうから聞こえてきたような気がする。男は鼻から深く息を吐いた。
体が揺れる。抱き上げられ、運ばれているのだと分かった。
強い――とても強い力だ。涼一を抱く腕はとても太く、力強かった。
服越しに体温が伝わってくる。太陽に焼かれた空気よりも更に熱い。高い他人の体温。
普段なら気持ち悪いと突き放していたはずだ。それなのに、今は凍える場所でようやく触れた温かいもののように、とても心地好い。
完全に無意識だった。涼一は重たい腕を持ち上げ、男の服の胸元を握りしめた。まるで小さな子供が置いていかないでと縋るように、ぎゅっと、強い力で。
「……すぐだからな。待ってろ」
男は軽く涼一抱き直した。さっきまでより強く涼一を抱きしめ、力強い足取りで涼一を運んで行った。
林の奥に向かって進むと、少しずつブルーシートが近づいてくる。近づけば近づくほど、ブルーシートはハッキリとした形を持つ。テントの形だ。
二つ見えるうち、手前のテントまであと数歩といったところで、テントの影からのそっと人が姿を現した。灰色のボサボサな頭を小さな野球帽で押さえつけている老人だった。
「なんか用か」
老人は不審者でも見るような目で涼一を睨み付けてくる。その手には錆びた鎌があった。
「す……、すみま、せん……」
「なんか用かって聞いてんだ」
老人の滑舌は悪く、「な」が「にゃ」と聞こえたが、笑う気にはなれなかった。
「ひと、を……」
「人ぉ!?」
言葉の途中で怒鳴るように聞き返され、涼一は肩を縮こまらせた。
帽子のつばをつかんで俯く。やっぱりこんなところに来なければ良かった。
しかし、家からずっと大切に持ってきたお菓子の紙袋が見え、背中を押された。俯いたまま言葉を絞り出した。
「人を、探してます」
「……なんでぇ?」
「昨日、道で倒れたのを助けてもらって……。あの、たぶんこちらの方だと思うんですけど、三十歳くらいの髪の長い人で……」
「そりゃあマサだな。うん」
老人の口調がコロッと変わった。つばを掴んだ手で顔を隠しながら恐る恐る前を見ると、老人は鎌を持った手で灰色の髭を撫でていた。
「ここで若いやつって言やぁ、あのガキくれぇなもんよ。ついてきな。案内してやるよ」
「え……? あ、ありがとうございます」
「いいっていいって」
さっきまでとは打って変わり、老人は皺だらけの目尻を下げてニコニコと笑っていた。そうして見ると、少しみすぼらしいだけの、ただの好々爺だ。
老人は涼一に背を向けて歩き出す。涼一もその後を追った。
「マサの小屋は一番奥にあんだよ。アイツは若ぇくせに働かねぇからなぁ。今日も家でゴロゴロしてっぞ」
林の中にはテントがいくつも建っていた。離れたところから見ている分には木や他のテントの影になって見えなかったが、少なくとも五軒は建っている。
木と木の間に張ったロープや段ボールで土台を組み、そこにブルーシートをかけて作っているのだろう。盆栽が大量に飾られたテント、開閉可能な窓やドアが付いたテント、ラティスで囲まれたテント……基本的な作りは同じでも、それぞれ少しずつ違っている。
一軒一軒が適度な距離を置いて建てられ、空き缶の入った袋や台車などの荷物は自分の家の周りにしか置かれていない。
少し開けた場所には共用とみられるガーデニングテーブルと椅子も置かれていて、気のせいか、ここには彼らなりの秩序があるように感じられた。
彼ら……公園に棲みつくホームレスの老人は、振り返ってニヤリと笑った。
「坊主。そんなに物珍しいか?」
突然のことに狼狽え、涼一は返事ができなかった。だが老人は気にしたふうもなく、一軒のテントを顎で示した。
「ここだ」
老人の言ったとおり、他から少し離れ、一番奥にあるテントだった。
周辺に物はなく、ロープと洗濯ばさみを使って皺だらけの下着が雑に干されているだけで、他には何も置かれていない。テント自身の外観も特別凝ったところがないせいで、少し寂しい。そんなテントからは、ノイズ混じりの落語が小さく漏れ聞こえてくる。
「おーい、マサ。ちょっと出てこれるか?」
老人が外から声をかけると、テントの中から「今いきます」とズッシリした声が聞こえてきた。聞き覚えのある声だ。
「なんですか?」
何重かに重なったシートが捲れ、大柄な男が窮屈そうに背中を丸めて顔を出した。
――間違いない。昨日の男だ。
涼一はすぐに頭を下げた。男も涼一に気づき、驚いた顔をする。
「お前……」
「この坊主がお前に用事があんだとよ」
老人が涼一に向かって顎をしゃくる。涼一が再度頭を下げると、老人は満足そうに頷いて、「じゃあな」と去って行った。
二人きりになった。涼一は男を見て、目を逸らし、また男を見る。
「ちょっと待ってろ」
男は言った。一度家に戻る。漏れてくる落語が止み、再び入り口が捲られた。
男が出てきた。今度は靴を履き、しっかりと外に出てきてくれる。
昨日は気づかなかったが、男はかなりの大柄だ。涼一よりも頭一つ身長が高い。百八十センチ半ばはあるはずだ。おかげで、俯かなくとも帽子のつばが二人の視線の間に入ってくれた。
「今日はどうした?」
「昨日ご迷惑をおかけしてしまったので」
男の太い首元を見つめたまま、紙袋を差し出した。男は遠慮することなく受け取った。
「蒲生屋か。……で、この軽さなら煎餅か?」
「ご存じなんですか?」
「有名だからな。年寄り相手の手土産なら手堅いところだ」
涼一は聞いたこともない店だ。中身が何かも分からない。家にあったものをそのまま持ってきただけだった。
「わざわざ気を遣わなくてもいいと言いたいところだが、せっかくだから貰っとく。確かに昨日は迷惑かけられたからな。ゲロ塗れにされた上に、あらぬ誤解も受けたわけだし」
「すみません……」
非憎げな男の物言いに、涼一は素直に頭を下げた。
昨日、男に助けられた後のことだ。途中で意識を失ったのか、目を覚ましたとき、涼一はホームレスのテント近くにあるあのベンチに寝かされていた。
すぐ傍には男の顔があった。男は汗だくになりながら、団扇でパタパタと涼一を仰いでくれていた。
「お、気づいたな」
男は優しく笑った。涼一は状況を理解できないながらもなんとか体を起こし、固まった。
涼一の着ていたシャツはボタンが全て外され、ズボンも前が寛げられていた。。
「大丈夫か、お前。名前言えるか?」
男は涼一の額に手を伸ばした。その手を、咄嗟に叩き落とした。
「触るな!!」
涼一はシャツの前を押さえ、脱兎の如く逃げ出した。礼すら言わなかった。ほんの一瞬だが、男が呆然とした顔をしていたことだけは覚えている。
家に帰って落ち着くと、すぐに猛省した。冷静になって考えれば、男は吐瀉物まみれの涼一を介抱してくれただけの親切な人間だ。
だがあのとき、涼一は混乱していたのだ。
涼一に触れようとした手。すぐ傍から覗き込んでくる男の顔。……涼一は帽子を被っていなかったのだ。
しかも男は、一目で普通でないと分かる格好をしていた。
髪は油で黒々と光り、伸びきって首の辺りにまで届いていた。髭は一日かそこら放置しただけではそうはならないだろうという程に伸び、服は皺だらけで毛羽立ち、全身から漂う嫌な臭いがつんと鼻をつく。ホームレスが住み着く公園で出会ったことを考えれば、その正体は明らかだった。
どうやら男は、涼一に逃げられた理由を勘違いしているらしい。それならそれで都合がいい。訂正せずに話を合わせておいた。
「……介抱までしていただいたのに、あのときはすみませんでした」
「別にいいけど、お前を脱がせたのは救命処置だからな」
「分かってます。あのときは混乱していたので。あの……それでこれも」
涼一は鞄から取り出した封筒を男に渡した。男は中を見て、すぐに突き返してきた。
「三万も入ってるじゃないか。こんなの受け取れるか」
「でも服を汚したと思うので」
「汚れて困る服なんか持ってねえよ。親に返してこい」
「お年玉だから大丈夫です」
「だからってガキから金取れるか」
「でも――」
「用は済んだろ。こっちも暇じゃないんだ
男は強引に話を切り上げ、テントの中に戻っていった。しかし入り口が閉まった直後、再びシートを捲り上げて顔を覗かせた。
「……これ、悪いな」
紙袋を軽く掲げてみせる。そして今度こそ、
入り口は完全に閉まった。
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