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第2話

「あれー? 涼一、昨日貰ってきたお菓子知らない?」 「知らなーい。そのうち出てくんじゃない?ってか、母さんどうせ食べないじゃん」  それでも凉江はリビングの棚の中を探していたが、途中で「まあいっか」と諦め、涼一の隣に座った。  ソファーに合わせた高さのテーブルには、凉江が仕事帰りに買ってきた惣菜が並ぶ。村瀬家の夕飯だ。革張りのソファーに並んで座り、親子は食事を始めた。  涼一の家は、凉江と涼一の母子家庭だ。離婚が成立したのは涼一が小学生のとき。詳しい話は未だに聞かされていないが、両親が親権で揉めなかったことだけは間違いない。  父親は家に帰ってこない人だった。ときどきふらっと立ち寄ることはあっても、一眠りするとまたすぐに出て行く。  ほとんど見たことがない父親の顔の代わりに涼一が鮮明に覚えているのは、父親が出て行く度に必ず見る、涙を堪える母の赤く染まった目元だけだった。  幸いなのは、涼一が自分の世界に閉じこもりがちな性格だったことだ。涼一は小さい頃から自分の好きなことを黙々と続けるタイプで、周りの目が全く気にならなかった。周りと比べることもなく、父親がいないことを当たり前に受け止めていた。大好きな母さえいてくれれば、他に何もいらなかった。  それに凉江は、女性向け下着のネット通販会社を経営する女社長だ。規模はそこまで大きくないという話だが、経営は安定しているらしく、金銭面で困ったこともない。母子家庭でも不自由なことは一つもなかった。 「涼くん、今日はもうお風呂に入ったんだ?」  箸を動かしながら凉江が聞いてきた。  涼一は普段食後に風呂に入るのだが、週に一度の外出日だけは、帰ってきてすぐに風呂に入る。息子のそういう性分を知っているから、不思議に思ったのだろう。今日は金曜日。涼一が外に出ないはずの日だ。 「冷房止めて昼寝したら凄い汗かいたから気持ち悪くって」 「大丈夫なの? 最近暑いし、熱中症とか気をつけなさいよ。でも来週は涼しくなるってね。月曜から雨みたい」 「ずっと?」 「来週いっぱいって言ってたかな。まだ梅雨でもないのに――ほら涼一! マナティー!」  わざとらしくはしゃぐ声に誘導され、涼一もテレビに目をやった。大きな画面の中で、平和な顔をしたマナティーが泳いでいる。 「……母さん好きだよね」 「だって可愛いじゃなーい。癒やされるわー」 「どこが。普通に不細工じゃん」  だいたいこの映像は、もう何十回とくり返し見たDVDの映像だ。さすがに見飽きてしまったし、凉江だって同じ事を思っているはずだ。ただ、涼一の前だからそれを見せない。無理にはしゃいで、少しでも空気を明るくしようとしているだけだ。  なんとなく憂鬱な気持ちになってきた。好物のクリームコロッケも、今は見ているだけで胃もたれしてしまいそうだ。  涼一は手を伸ばし、醤油を取ろうとする。凉江が手を伸ばしたのと同じタイミングだった。醤油差しの前で、二人の指先がぶつかる。 「っ……!」  涼一は凄い勢いで手を引いた。その瞬間――ほんの一瞬だが、凉江の表情が強張った。 「あ……ごめん……」  空気が凍り付く。しかし凉江は細い指で頬にかかる髪を耳にかけて微笑んだ。 「涼くんが先に使って」 「あ、うん……。ありがとう」  そそくさと醤油を取ってコロッケにかける。凉江の前に小瓶を置くと、凉江もコロッケに醤油をかけた。 「ごめんね。手が汚れちゃったから布巾取ってきてくれる?」 「……うん。待ってて」  立ち上がってキッチンに向かった。布巾を水で濡らし、こっそりと指先にハンドソープの泡を出す。  どうしてこんなふうになってしまったのだろう。  涼一は泡の付いた手を強く擦り合わせた。  いつも凉江は、頼んでもいないのに自分から物を取ってきてくれる。その凉江が、こういうときに限っては、何かを取ってきてくれと涼一に頼む。  理由は分かっていた。口実を作ってくれているのだ。  席を立ち、手を洗う。  たったそれだけのことが、凉江と手や体がぶつかったときだけ、どうしてもできなくなってしまう。  だが放っておけばどんどんそっちに気を取られ、他のことは何も手が付かなくなる。だから凉江は、涼一のために口実を作ってくれているのだ。  蛇口から勢いよく流れる水に手を当てると、真っ白い泡が排水口に押し流されていく。指先の違和感も一緒に押し流され、代わり、胸には罪悪感が積み重なる。  全て涼一が悪いのだ。涼一が普通ではないから、この家も普通にはなれない。  泡が全て流されても、涼一は透明な水の流れに指をさらし続けた。指が冷えていくのを感じながら、どういうわけか、あの男の体の熱さを思い出していた。

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