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第3話

 なにも、初めてホームレスと言葉を交わしたわけじゃない。まだ小学校にあがる前のこと、涼一は近所の跨線橋下にある公園でホームレスの男と出会った。  男はベンチで眠っていた。見るからに不潔で、靴は履いておらず、足裏は真っ黒だった。顔も赤黒く、男の周りにはカップ酒の空瓶がいくつも転がっていた。  宇宙人だ、と咄嗟に思った。男が涼一の知るどんな大人とも違いすぎていたからだ。  涼一がベンチの前で立ち竦んでいると、宇宙人はゆっくりと目を開け、涼一を見た。そして体を起こした。 「あー……」  宇宙人は呻くような鳴き声をあげた後、少しバツの悪そうな、照れたような笑みを浮かべ、白髪だらけの頭を掻いた。 「よっ」  喋った。  涼一の肩がビクっと震える。しかしめげることなく、今度は挨拶するように片手を軽く上げて言った。 「よっ」  黒ずんだ歯を見せてニカッと笑う。その瞬間、雷に打たれたような閃きで、涼一は目の前にいるのが宇宙人ではないと気づいた。  気づいた途端、なぜか照れくさくなった。妙にソワソワして、半ズボンの裾をぎゅっと握って目を泳がせた。  涼一の通う幼稚園でも、「よう」という挨拶が流行っている。男の子達はみんなそうやって挨拶していたが、涼一だけは、女の子達と同じように、頭を下げて「こんにちは」と挨拶していた。その方が先生に褒められるからだ。  しかしなぜかこのとき、涼一は男と同じようにしてみたいと思った。  意を決し、男の落ち窪んだ目を見上げながら、「よっ」と恐る恐る手を上げた。 「おおっ!」  男の目が輝いた。  男は「よっ!」と満面の笑みで手を上げる。涼一もはにかみながら、「よっ」ともう一度手を上げた。そのときだった。 「涼くん!!」  髪が乱れるのも気にせず、凉江が全速力で涼一のところまで駆けてきた。 「駄目じゃない! 勝手にいなくなっちゃ!」 「でもお家の電話が鳴って、先に行くって言ったら、お母さんが『うん』って……」 「いいから来なさい!」  凉江は男に軽く頭を下げ、涼一の手を引っ張って公園から連れ出した。  跨線橋からだいぶ離れてしまうと、凉江は涼一の正面にまわってしゃがみこんだ。 「涼くん。知らない人と話しちゃ駄目っていつも言ってるでしょ」 「挨拶しただけだよ。挨拶されたらちゃんと挨拶を返しなさいって、お母さんも先生もいつも言うよ」 「でもあの人は違うの。ああいう人は――涼くんも分かったでしょ? 普通じゃないの」  普通とはどういうことだろう。不思議に思いながらも、涼一は「うん」と返事した。 「涼くんにはまだ難しいかもしれないけど、世の中には悪い人がいっぱいいるの。だから悪い人に悪いことをされないように、自分でも気をつけないと駄目なの」 「あの人は悪い人? 普通じゃないから?」 「さっきの人がいい人か悪い人なのかはお母さんにも分からないけど、普通じゃない人は、お母さんや涼くんみたいな普通の人には考えられないような悪いことをすることがあるの」 「でも優しそうなおじさんだったよ」  凉江は困った顔をした後、言葉を選ぶように、ゆっくりと説明した。 「さっきの人は凄く汚い格好をしていたでしょ? ああいう人はホームレスっていうの」 「ホームレス?」 「お家がない人ってこと。ホームレスはお家がないからお風呂に入れないし、ご飯だってみんなが捨てるようなのを食べてるの。お仕事をしていないからお金がないのよ」 「働いてない大人がいるの?」  涼一が驚くと、凉江は初めて母親ではなく、一人の人間としての感情を見せた。 「だから普通じゃないの」  顔を歪めて吐き捨てるように言った。凉江は明らかにホームレスを嫌悪していた。 「病気で仕事ができないとか、働かなくても生活できる人ならそれでもいいのよ。だけどあの人達はそうじゃなくて、みんなで使う公園とかをお家の代わりにしているの。そんな生活をしなきゃいけなくなっても、皆みたいにまともに働かない悪い人なの。そういう変な人たちだから、涼くんと仲良くお話ししていても、突然酷いことをしてくるかもしれないでしょ? 涼くんは絶対に近づいたら駄目。あの人達は涼くんとは違うの」  その後、涼一は小学校にあがった。  小学三年生のとき、あの公園にはエッチな本が落ちていると有名になったことがあった。噂によれば、汚い格好をしたホームレスがいつもあのベンチの下にエッチな本を隠して行くのだそうだ。  中学一年生のとき、知的障害者の女性を度々レイプしていた男が逮捕された。全国ニュースでもかなり騒がれたその事件の犯人は、支援学校の近くを根城にするホームレスだったという噂を聞いた。  いずれも真偽のほどは分からない。  ただ涼一の頭には、あの日母が見せたホームレスへの嫌悪の表情だけが、いつまでも残っていた。

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