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一、

涼しい風の吹き始める秋の庭先で、雲を詰めたような綿花が揺れている。ふわふわ、とした真白な綿は、その粗末な庭色を柔らかく彩った。 綿を揺らすのは、板葺きの屋根に土を塗り固めた壁の茅屋である。 家には傷みが見られるが、修復をした形跡は数年見られない。本来は自給自足のために造られたであろう庭先の畑も、一畳半程度の緑を除き草が踊るように茂っている。 そんなあばら屋の木戸が、ぎぎぎ、と立て付けの悪さを奏でながら横に開かれる。杖をつきながら表へ出たのは、この家の一人息子・ハチヤであった。 ハチヤは生まれつき左脚が弱く、ほとんどの感触を覚えられないでいた。症状は齢を重ねるほどに重くなり、十九を迎えたつい先ごろには、いよいよ左脚を伸ばして座るようになってしまった。 母は疾うに亡く、木こりの父親との侘しい二人暮らし。ハチヤの体では、嫁を娶ることも出来ない。 「あゝ、綿毛よ、綿毛……」 口の中でつぶやくように、ハチヤは歌う。 脚のせいで野良仕事もろくにできず、父の手伝いなどもってのほかである彼は、この季節になると綿を獲った。 杖(といっても、落ちた太い枝にやすりをかけて粗方なめらかにした棒)と動く右脚で交互に地面を踏み、揺れる綿に寄れば、丁寧に篭へ移していく。 「あゝ、ましろな綿毛よ……」 その動作を繰り返しながら、再び口ずさんでいると、がらがらと荷車を引く音が向こうの坂から聞こえ始める。ハチヤの父が仕事を終え、帰ってきたのだ。 「おっ父」 ハチヤが小さく呼びかけた頃、父はたいそう不機嫌な足音で現れた。失敗した、とハチヤは瞬時に顔を青ざめる。 「おい倅、こんなとこで何してやがる」 「あの……綿を……糸を作るために、取ろうと思って……」 「てめえ、俺が疲れて帰ってきたってのに、飯待たせる気か!?」 「ごめんなさい、すぐにします!」 やはり嵐のように怒鳴る。父の虫の居所は悪かった。こうなればハチヤはもう逆らうことができない。ここから更に機嫌を損なえば殴る蹴るは当然のこととして、ひどいときには……。 必死に家に戻るハチヤの背中に、父の怒声が飛ぶ。焦るハチヤは転びそうになるのを懸命に踏ん張りながら、額から汗を零して家へ戻った。  ◆ ◆ ◆ 「てめえはとことん出来の悪いやつだなぁ」 囲炉裏から綿のように白い湯気が上がる。とはいえさしたる食材もなく、ハチヤがなんとか畑で育てている豆を煮たものや葉を浮かべた汁、なけなしの金で交換した麦と米を混ぜて薄くした粥が日々の主な食事であった。 そんな食事でさえも、ハチヤが許されるのは父が終えてからである。脚の悪いハチヤを、母を亡くしてから男手一つで育てているのだから、それも当然だ。と、この父息子は疑わずに思っていた。 親子としての慈しみの思いではなく、ただ義務として彼らは在ったのだ。 「とりえっつったら顔がおっ母に似てるくらいじゃねえか」 囲炉裏の火が赤く照らすハチヤの頬は、家からさほど出られないため白く光っているように見える。生まれつき下がり気味の眉は、思わず手を貸してやりたくなる庇護の気配を誘った。これがまさに、これの母に似るところだった。 「年々似てきやがって、薄気味悪ぃ」 ごめんなさい。ハチヤがそう呟けば、辛気臭ぇんだよと壊れかけのかわらけが宙を飛ぶ。肩に命中したそれは床を転がると、幸か不幸かひびを一つ増やすだけであった。ハチヤの衣に酒のにおいが染みる。 「おい、酒戻せ」 「おっ父……今日の分は、もう……」 転がるかわらけを拾いながら、控え目に首を振る。 ハチヤの父はひたすらに酒に溺れる男だった。いやそれも母が存命の頃はどうだったかなどとは、ハチヤは知らない。 こうやって毎晩くだを巻きながら酒に乱れ、昼過ぎまで寝てから木こり仕事へ山へ行き、夕に戻る。そんな素行であるから、彼らの生活は一向に貧しいままである。 「なんだとぉ!」 弾かれるように父が立ち上がると、左脚を伸ばして座っていたハチヤは頬を殴られ、ぐらりと姿勢を崩される。そのまま馬乗りに体重をかけれ、右脚を封じられてしまうと一気に恐怖心が募った。いくら左脚を自由にされていても、動かないのであれば逃げようがないのだ。 「畜生! こんなもんすら付いてなければ遊郭に売るってのによ!」 「やっ、やめて、おっ父!」 股座にもぐる父の手が気持ちが悪かった。ごつごつと皮膚と手豆の固くなった太い指が、虫のようにハチヤの肌を這っていく。 こうなってしまうと、ハチヤの出来ることはただ一つ。ひたすらその怒りが収まるのを、実の親の体の下で待つことだけだった。  ◆ ◆ ◆ 肌寒いくらいの風が、ハチヤのこめかみを吹き抜ける。乱れて解けてしまった髪が、それにあわせて微かに揺れた。 父は襖を隔てた部屋で、ウシガエルのようないびきを立てて寝ている。 「……おっ母」 掠れた声がハチヤの喉元からしぼり出された。それは思慕か、哀惜か、怨毒か。 滲む視界を振り切り、だるい体をなんとか立たせると、脚を引きずりながら裏手の井戸へ向かった。 すっかり陽は落ちて、辺りを照らし出すのは真ん丸な月だけだ。手探りで桶を掴むと、水面に投げ落として水を拾う。井戸の水面にも、ゆらゆらと月は浮かんでいた。 「ううっ」 ハチヤは一気に、頭から水をかぶる。秋の宵に身を切るような冷たさが全身を包むが、それよりも酒臭い父のにおいを落としたかった。 そんなハチヤの姿を見る、一対の輝く目があった。月明かりを反射したそれは、闇夜にあやしく光っていた。 つづく

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