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3-9 千堂翔side
魚沼の体を濡らしたタオルで拭う。すっかり眠りはじめてしまった後輩は、小さく声を上げるも目覚める様子を見せない。ローションで汚れた下腹部を拭っても目覚める気配のない後輩は、どうやらひどく寝不足だったらしい。
無理もないなと独りごちる。マーサに体を乗っ取られているたび、魚沼は思い詰めた表情をしていたから。魚沼にとってはよくもなかっただろうが、思い詰めた結果がただのセックスで良かったと思う。少し……いや、かなり不愉快でこそあったが、死なれるよりはずっといい。時折そういう選択もしてしまいそうなほど、俺の目から見た魚沼は不安定に思えた。魚沼が幽霊に近い、と言うためだろうか。どうにも儚く見えて仕方ない。
人の気配を感じ、扉を見る。
「二度目まして、か」
気配の持ち主はマーサだった。俺の呼びかけに驚いた表情をしたマーサだったが、魚沼の体質を思い出してかあぁと納得する。「アキヒロもケーチから抜けた俺に気付いたしな」という呟きに、少しイラつく。
「……魚沼がお前を赦そうと、俺はお前を赦さない」
「……うん」
「魚沼は、お前が幽霊だから仕方ないって。そういうモノだからって、そう言った。でも、お前は諦めるべきだったんだ。ほんの一欠片だったとしても、魚沼に甘やかされた覚えがあるんだったら!」
「分かってるよ……」
くしゃりと自分の制服を抱きしめたマーサは、そのままふらりと座り込む。
「言い訳にもならないけどさ、」
顔をうつむけたままマーサは口を開く。泣いてるような、何かに耐えているような、そんな声だった。
「多分、ケーチは気付いてたんだ。俺、拗れた欲求を抱えたまま現世に留まりすぎたせいで悪霊化しかけてたみたいで。そんな自覚、全くなかったんだが、今はもやが晴れたみたいにすっきりしてて。なんでケーチを、友達を傷つけちゃったんだろうって、そればっかりでなんだけど。でも、やっぱりそういう風に動いたのも俺自身にかわりないから。だから、」
手で顔を覆い、息を吐いたマーサは、覆いを取って泣き出しそうな表情で俺に笑う。
「赦さないでくれて、ありがとう」
その言葉に、マーサの中で完全に決着がついたのだと理解する。ケーチ、というマーサの声に眠りこけていた魚沼が目を覚ます。行くのか。魚沼が言った。
「うん。生徒に迷惑かけてまで絡みつくなってアキヒロにもどやされたし」
「……、そっか」
そっか、ともう一度呟いた魚沼は、嬉しそうにからりと笑う。
「おめでとう。……またな」
「っ、うん! また!」
いつだったか、死後に会える保証はないと魚沼は言っていた。なんでも、NHKと地方のテレビ番組は局が違うからとかなんとか。よく分からないが、要は周波数の違いで幽霊同士にも見える見えないがあるということなのだと思う。
そんな魚沼が、再会を約束した。じゃあね、というマーサの言葉に微笑む魚沼の屈託なさに、これが彼なりの別れ方なのだと理解する。
光の粒子がマーサを中心にふわりと広がる。徐々に透けゆくマーサは、ふんわりと花の香りの漂いそうなほど幸せそうに笑った。
「ありがとう、ケーチ!」
ぱぁっと広がる粒子はまるで神の祝福にも見えて。美しいこの光景に、あぁなるほどと理解した。
こんなの、気になる子にやられたらひとたまりもないだろう。彼の初恋は無理もないことだったと思わず魚沼に同情する。俺だって、レディの消えた教室で一人夕陽に照らされ佇むこいつに見惚れたのだから。
マーサが消えた後の休憩室は、しんと不思議な静寂を落としていた。静かなのに、そこにあって。何かが満たされているような。
「お別れ、できた」
ぽつりと呟く魚沼は、満足げながらも寂しそうで。きちんと母親と別れることのできなかった後悔を今代わりに晴らせたのだと分かった。
「……独りになったみたいな顔すんな」
ぼんやりと扉を見る魚沼がやけに心細そうに見えて、思わず頭をかき混ぜる。一瞬呆けた顔をした魚沼は、くしゃりと下手くそな笑みを浮かべる。
「どこから目線ですか」
「恋人?」
「戯言を」
あながち冗談でもないと分かっている魚沼は困ったように口をしかめ、黙り込む。
「さよなら、マーサ」
愛してたよ。
魚沼はマーサの消えた空間に向かって呟く。ありがとうと、返事の聞こえた気がした。
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