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第1話

 沢田高一朗は山の中ほどの山門でバスを降りた。  平日の昼間だというのにカメラを担いだ参拝客の姿がちらほらと見える。  十五年前は鄙びたという形容が似合いそうな素朴な山寺だったが、七、八年前あたりからアマチュアカメラマンたちに花や風景の撮影スポットとして人気が出て来たのだ。  そのおかげなのか、バスのロータリーは大きく整備され、土産物を売る小さな売店も出来た。ただ変わらないのは参道の脇に並ぶ太い幹の木々と、木立が落とす影だけ。  高一朗は足元で瞬く葉陰を踏みながら関所のような小屋に近づいた。 「こんにちは。墓参りです」 「ようこそお参りくださいました。どうぞお通りください」  白い作務衣を着た中年女性の言葉に会釈をして通り過ぎる。後ろに続いていた足音が止まった。 「拝観料は三百円です。写真撮影は他の方へのご配慮お願いいたします。こちらパンフレットさしあげますね」  女性の声を背中に聞きながら、高一朗は庭園へと続く橋を左に見ながら墓地へと向かった。  正面には数年前に建て替えられた白い納骨堂と金色の観音菩薩像が秋の陽に輝いている。墓地を仕舞い永代供養を選ぶ人が増えているらしい。右手の墓地へと折れると、所々にぽっかりと雑草だけが茂る区画がやけに目立っていた。墓石のある区画もしばらく誰も参っていない様子の所が多い。  彼岸のころに来ればそれでも手入れがされているのだろうが、高一朗がその時期に墓参することはない。祥月命日の翌日に、ひっそりと参るのが高一朗の習慣だった。  水場のあるお堂の前は素通りする。どうせ前日に故人の妻が綺麗に掃除をしているのだ。線香もロウソクも上げない。来た痕跡を残してはいけない。故人も、高一朗がこうして墓参することを望んではいなかったのだろうから。  ねえ、望月先生、そうでしょう?  十五年間変わらぬ問いが胸をよぎる。  もし、想いを打ち明けていれば……。もし、勇気を出して望月に会いに行っていれば……。なにか変わっていたのだろうか? 「うわあああああああああっ!」  横合いからいきなり大声が聞こえ高一朗は息を詰めた。飛び上がらなかった自分を褒めたい。お堂の方を見ると若い男が水場にうずくまっている。 「えっ? ちょっと! これマジ? なんなのー!」  勢いよくほとばしった水が水桶に跳ね返って青年をずぶ濡れにしている。彼はパニックになっているのか、水流を手で止めようとして余計に事態が悪化していた。  高一朗は詰めていた息を吐き出した。 「栓を締めて」 「えっ?」 「栓。締める」  振り返った彼に高一朗はジェスチャー付きで繰り返す。 「あ、はい!」  彼は高一朗を見、こくこくとうなずくと、水流を押さえていた手を離し水栓を絞った。 「あー……、助かったぁ」  しゃがんだ足の間に頭を落としてつぶやく彼の前髪から水が滴っている。高一朗はスーツのヒップポケットからハンカチを取り出した。 「どうぞ」  彼が顔を上げた。ばつが悪そうな表情は想像より若かった。すっきりした目元が印象的だ。濡れた前髪をかき上げ滴る雫に目を細めた。その視線に高一朗はハッとした。   「……すみません」    彼は小首を傾げるように肩を竦めハンカチを受け取った。照れた仕草に少年の名残が見える。  大学生、くらいかな?  高一朗が店長として勤めるカフェは近くに大学がある。そこの学生と似た雰囲気を感じた。  へへっと照れ笑いする彼を思わず見つめてしまったことに気づいた高一朗は、 「スーツ、クリーニングに出さないとダメですね」  と、取り繕った。 「え、ああ。しばらく着る予定はないので大丈夫かな」  彼はブラックスーツの上着を脱いだ。後ろを向いて、バサバサと振って水気を飛ばす。 「どうもありがとうございました。あっ。えーっと……どうしよう」  差し出そうとしたハンカチがぐっしょり濡れているのに気づいたらしい。 「使い古しの物なので、処分してくださって結構ですよ」 「でも」 「あと、その水栓はいつも調子が悪いので使うなら一番奥をおすすめします。それでは」  高一朗はさっさと会話を切り上げた。あまり他人と関わりを持ちたくない。偶然とは言え主義に反することをしてしまった。変わらない日々を送ること。高一朗にとってそれが一番大切なことだった。  望月の墓は草が引かれ、仏花も瑞々しい。いつも通りすっきりと整えられた墓前に佇む。そして高一朗は望月にかける言葉が今日もないことにほっとしていた。一番伝えたかった言葉は胸の底に沈んだまま。それでいい。 「あのっ」  寺の門を出たところで声をかけられた。振り返るとスーツの上着を腕にかけた青年が頭を下げていた。 「先ほどはありがとうございました」 「たいしたことではないので」 「もしお時間があったらお茶でもご一緒してくれませんか? せめてものお礼をしたいんです」  真っ直ぐ高一朗を見つめる瞳。覚えのある鋭さに高一朗は腕時計に目を落として逸らせた。 「急いでいるならいいんですけど」 「いえ。構いませんよ。お言葉に甘えましょう」  彼は高一朗の返事にほっとした笑みを浮かべた。その笑みに断らなくて良かったと思った。年若い彼にとって年上の高一朗に声をかけるのはなかなか勇気のいったことだろう。 「良かった。バスロータリーのところに喫茶店があるんですがそこにしますか? 駅まで戻られるならそっちでも」  先に立ってエスコートする彼は人懐こいタイプらしい。ほぼ常連客しか来ないカフェで働いている高一朗よりよほど人好きがする。 「そこのロータリーの店にしましょう」 「前に一度入ったことあるんですが、昔の喫茶店って感じで懐かしいですよね」 「そうなんですか。私はあまり外で飲み食いをしないので知りませんでした」 「俺、無理に誘ってしまったんですけどご迷惑でしたね」  山門からロータリーへ下りる石段を二段ほど先に下っていた彼が振り返る。わずかに見下す形になった彼の上目遣いにようやく年相応の未熟さが重なった。 「いえ。あまり出歩かないだけです。たまにはこういうのもいいですね。君は一人で行ったんですか?」 「母と祖母と三人で。ここってバスの時間が微妙じゃないですか。その時間つぶしで入ったんです」 「そうですか」  また石段を下りる背中に返事を返す。  母と祖母。いないのは父親と祖父だ。腕にかけたスーツの上着。黒いズボン。おそらくは亡くしたのはどちらか――。 「あ!」 「はいっ?」  またもやくるりと振り返られ身を引いた。 「もしかして、葬式とか思ってません?」 「……違うんですか?」 「祖父の墓参りなんですけど、スーツが黒いのは就活だからです」 「シューカツ?」  音から単語が結びつかずたどたどしい発音になった。彼もそう思ったのかクスリと笑うと、「就職活動です」と言い直してくれた。 「就職活動……そういえば、駅で黒いスーツを着た学生の集団を見かけるのはそういう訳だったんですね」  高一朗は街角で見かける奇妙な集団の謎が思いもかけず解明できて、うんうんと頷いた。 ぷっ、と彼が吹き出す。 「すみません」 「いえ、かまいませんよ」 「なんだかすごく浮世離れしてらっしゃるんで面白くなっちゃって」 「浮世離れ、ですか?」  たしかに高一朗は世間慣れしていない。就職活動なんてしていないし、そもそも義務教育以降、学校にも通っていない。だから友人もいない。家族とも疎遠だ。  一五歳で望月と出会いそれから五年、彼の絵のモデルとして過ごした。望月はその絵で賞を取り一躍時の人となった。  高一朗をモデルとしたそのシリーズは、押し殺した情念がにじみ出ると話題になり、画家とモデルの禁断の少年愛などと噂されたりもした。  二十歳のとき、望月が病を得て亡くなった。それ以降は彼の親友の箱守が高一朗の後見をしている。いまの勤め先のカフェも箱守がオーナーだ。 「たしかに、私はあまり世間を知らないかもしれませんね」 「そんな風に言えるのがすごいです」 「すごい?」  高一朗は首を傾げた。  すごいと言われることなどなにもない。ただ、望月が望んだころの姿でいたいと思っていただけだ。世間もなにも興味はない。 「年上の男の人って『なんでも知ってるぞ』って先輩風を吹かしたがるものでしょ?」 「そうなんですか?」  望月も箱守もそんなタイプではない。高一朗がよく知っている年上の男性は二人しかいないので参考にはならないようだ。 「たぶんそういうタイプが多いんじゃないかなあ。でも、あなたみたいな人もいるっていま知ったので、俺の世間も狭いんだと思います」  一緒ですね、と彼はくすくす笑った。よく笑う子だなと思って気づいた。彼は緊張しているのだ。  遠い昔。望月と初めて出会ったとき、黙って、と言われたのを思い出した。十五歳も年上の男の人にどう接すればいいのか分からず、手あたり次第に話題を探してしゃべる高一朗に望月はそう言った。あのとき、高一朗は緊張していた。黙って、そしてどうすればいいのか戸惑っていると、 「僕は青が好きなんだ。君はどんな青色が好き?」  好きな色なんて考えたこともなかった。だから青と言われて真っ先に思い浮かんだことを言った。 「……海の青」 「場所によっても色が違うぞ」 「……南の海?」  そうして望月と連想ゲームのようにぽつりぽつりと言葉を交わした。その間にスケッチされているなんて気にもしていなかったが、それが望月の代表作になったのだった。 「朱に交わらない白って感じですね」 「ん?」  青年の声に意識を引き戻された。 「純白って、あなた色に染まりますって花嫁の色じゃないですか」  望月のことを思い返していた高一朗は彼の言葉についていけないまま頷いた。 「でもあなたは何物にも染まらない純白ってイメージだ」  正面から真っ直ぐ見つめる目。何もかも写し取られるような独特の視線の強さ。  先生の瞳だ。この瞳は先生だ。  そう思ったらたまらなく、両手が伸びていた。手のひらの間に人肌の温みを感じる。柔らかい頬の弾力も。  あなたにこんな風に触れたことなどなかったのに――。 「……先生」  その手を押さえられてハッとした。  目の前の青年はとても戸惑った表情をしていた。 「すみません」  引こうとした手を握られる。それを振り切った。 「……用事があったのを失念していましたので、申し訳ありませんが失礼します」  彼の足先にそれだけ言うとロータリーに止まっていたタクシーに飛び乗った。

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