2 / 3

第2話

「こんな時間に珍しいですね」 「ご挨拶だな、コウ」 「だって箱守さんがこんな昼間に来るなんてホント珍しいですから」 「まあ、そうだな」  箱守はそう言ってカウンターに腰を下ろした。  昼間と言っても地下にあるカフェはいつでも夜の雰囲気だ。重厚なアンティーク家具。ウォールライト。深く暗い夜の帳に沈んでいる 望月は夜の闇と見紛うほどの重い青を好んだ。この店の内装はそれに通じるものがある。 「私がちゃんと仕事をしているか確認にでも来られましたか?」 「似合わない憎まれ口はやめなさい」  箱守は保護者然とした言い方をする。これは出会ったときから変わらない。年の差を考えればおかしくはないが、望月に対しても同じような態度で、同じ年なのに二人はそうは見えなかった。 「今日はコウに渡すものがあってね」 「渡すもの?」 「これだよ」  スケッチブックより一回り大きい平たい箱を渡された。 「開けていいんですか?」 「もちろん」  どうぞ、と目で促される。曲がりなりにも画家の側で暮らしていたのだ。これが絵画だというのは分かる。でもわざわざ箱守が持ってくる意図が理解できない。 「これは……」  箱を開けると中には額装されたラフ画が入っていた。 「望月の未発表の習作」  窓辺に佇んでいる高一朗の横顔はギリギリ見えない。耳下からわずかに見えるあごのラインとひねった首筋。艶かしい筆致は間違いなく望月の手だ。懐かしい……でも――。 「……こんな構図……知りません」 「だろうねえ。これは望月の頭の中の君だ」 「頭の中?」 「あいつは病床でこれを描いた。アトリエから道具一式を病室に持ち込んだんだよ。さすがに仕上げるまでは体がもたなかったけどな」  箱守は言葉を切り、空を見つめた。 「望月の病室はコウがいないことを除けばあいつのアトリエそのままだったよ」  望月のアトリエ。あそこは望月と高一朗の二人きりの空間だった。訪れる人間は箱守だけ。望月は妻を一切創作には関わらせなかった。 「それって……」 「そう。彼女は病室に入ったことはない。あいつに締め出されたのは君だけじゃないってことさ」  望月の最期を看取ったのは箱守だった。男としての望月に望まれたのは妻だったのかもしれない。画家としての望月に望まれたのは高一朗だ。けれど一人の人間としての望月の側にいたのは箱守だ。   「いまさらそれを知ってどうしろと言うんですか?」     十五年前なら慰めになったかもしれない。 でもどんなに頑張っても人は変わる。感情も機微も二十歳のままではいられない。  本当にいまさらだ。 「コウは相変わらず分かりやすいね」  箱守は口元をほころばせると額装されたラフ画を眺めた。 「見てごらん。二十歳のときの君にも見えるし、いまの君の様でもある」 「そうでしょうか」 「君が望月の側にいたいと願った結果なのか、それとも望月が十五年後の君のことを寸分たがわぬほど理解できていたのか。どちらにせよ君たちの想いは時間が証明してくれたようなものだ」  箱守の言いたいことが分からなくて高一朗は首を傾げた。昼間にやって来ることも、望月の遺作を贈られることも、なにもかも不可解だった。 「コウが望月の望んだ通りのままでいてくれて嬉しいってことだ。そのことを今日は教えてあげようと思ってね」 「それで、これを?」 「ああ、そうだ。だからもうあいつの墓参りに行くのは止めなさい」 「え、どうして……?」  箱守はラフ画を取り上げた。 「コウはこれをどこに飾りたい?」 「箱守さん、望月先生のお墓参りを止めろってどういうことですか?」 「カウンターから見えやすいところがいいかな」  箱守は立ち上がるとくるりと店内を見回す。 「正面のあの壁。あそこがいいな」 「待ってください。箱守さん。理由を教えてください」  高一朗はカウンターから出ると箱守の背中を追いかけた。  箱守の趣味で作られた店内はカウンターのある面を除いて、すべての壁にピクチャーレールが取り付けられている。 「箱守さん、どうしてなんですか?」  絵の位置を調整する箱守はなにも答えてくれない。 「いい感じかな」  飾りつけに納得したらしい箱守が振り返った。 「どうかな。ここならカウンターからよく見えるだろう?」 「箱守さん……」  高一朗を見て箱守は小さく鼻息を漏らした。わがままな子供をどう諭そうかと思案する親のようだ。 「コウ、そこに座りなさい」  手近なテーブル席を示す。高一朗は素直に従った。その向かいに箱守も腰を下ろす。 「あいつの習作を君に渡すかどうかは悩んだんだよ」  箱守は飾ったばかりの絵を見つめながら言った。  望月の側で暮らしている間、創作途中を目にすることはあった。だが、基本的に望月は完成作品以外を人目にさらすのを好まなかった。それを箱守には見せたのだ。ふとそんなことを思った。  経年を感じさせない純白の紙。黒い線だけで描かれた色の乗っていない絵は新鮮だった。 「いつかはコウに渡すべきだとは思っていたけどね」  箱守は高一朗を見、ゆったりと背中を椅子に預けた。 「今日これを渡したのは、君は、君自身こそが望月との絆だと知った方がいいと思ったんだ」 「私自身が?」  ふふっと箱守は笑った。 「だってそうじゃないか。想像だけで君の未来を描いた望月と、その想像通りになってみせた君。これが絆じゃなければなんと言うんだ」 「箱守さんには、あの絵の私がいまの私に見えるんですね……」 「おや、コウには分からないのかな」 「だって背中しか描かれてないんですよ」 「……そういう顔をすると二十歳のころのままだな」 「止めてください。もうあれから十五年も経っているんですよ。同じなままじゃない」  変わりたくない。望月に望まれたままでいたい。でも時は残酷だ。  どうして望月は高一朗の顔を描かなかったのだろう。  高一朗は顔を両手に埋めた。 「望月の一番側にいて、一番理解している僕の言葉が信じられない?」  信じたい。けれど頷いてしまったら、一番認めたくないことを認めることになる。  先生の一番側にいたのは私でなかった――。 「望月の闘病生活は半年ほどだったね。若かったから。短かったけど、その間に描いた絵がそれだけだと思うかい?」 「……まだ他に?」  顔を上げた高一朗に箱守は目を細めた。 「僕は君が望月の想像通りの年を重ねているのを知っている。だから墓参りなんかの世間的な些事に関わるのはもう止めなさい。そんなことをして余計な色をつけることはない」 「余計な色……?」 「君こそが望月の作品だと僕は思っている。君もそう思っているんじゃないか? 僕は望月の作品を髪の毛一筋も損なうことなく守りたい。それが役目だからね」 「私が、先生の作品?」 「おや、気づいていなかったのかい。身も心もそんなに望月にがんじがらめになっているのに」  箱守は肩を竦めた。 「で、でも、いままでも先生のお墓参りには行っていました。どうして――」  ふうっと息を吐き出すと箱守は腕を組んだ。 「昨日、望月の墓でおまえを探しているという男に会った」 「私を?」 「そう。心当たりはないかい? ハンカチがどうとか言っていたな」 「あ」  高一朗を純白だと言った青年。瞳が望月によく似ていて怖くなって逃げだした。 「心当たりがあるようだな」 「先月、先生のお墓でハンカチをあげたんです。一番手前の蛇口を使って水浸しになっていたので」  それだけで箱守は状況が分かったらしい。 「それで目をつけられたわけだ」 「目をつけられたって、そんなんじゃありません。律儀そうな子だったからじゃないでしょうか」  首を振る高一朗に箱守はダメだと念を押した。 「ともかく僕は君にこのままでいて欲しいんだ。きっと望月もそれを望んでいる。だから墓参りには行ってはダメだ。いいね」  そのとき、店のドアが開いた。 「オーナー、お話し中すみません。ちょっとご相談が」  一階でテイクアウトの店を任されている副店長だった。副とついていても実質は彼が一階のテイクアウトの店もこの地階のカフェも切り盛りしているようなものだ。 「ああ、分かった」  箱守は立ち上がった。高一朗も一緒に腰を上げる。 「コウはここで望月を弔ってくれればいいから。いいね。分かったかい?」  それだけ言うと箱守は出て行った。  もしかして、と高一朗は思う。  もしかすると、箱守も彼の瞳に望月を感じたのではないだろうか。だから会わせたくないと思ったのかもしれない。  振り返って飾られたばかりの望月の絵を見る。沈んだ青を多用する望月らしくない純白の絵。  朱に交わらない白。  高一朗はあの青年の言葉を思い出していた。

ともだちにシェアしよう!