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誰の空にも虹は

1 平日の夜に、走り始めた。会社から帰った後、家の近所のあまり車の通らない道を選んで、三十分だけ走る。 週二回は必ず走ると決めて、一か月続けてから英司に言うと、よく眠れるようになったかと聞かれた。 -かえって目が冴えて眠れなかったりする -そういうこともあるな。 -明け方、夢みるのは少なくなった気がする -うん、それいいね。走るって精神的にも良い薬になるよ。 走ることに時間とエネルギーを注ぐと、体はきつくても気持ちが楽になった。その間は、暗い内側を忘れていられる。 一人で走っている時に、「死ぬまで生きる練習」という言葉が時々頭をよぎるようになった。 長い間、セックスを「精神的にも良い薬」のように使ってきた。僕の性的な妄想は、子供の頃から、男の人の腕に抱かれている自分で、受け身で男と寝ている間は、心が軽くなった。ただ、自分も相手も目的を果たして、空っぽになった後の虚しい気持ちは年々募って、だんだん耐え難くなった。英司と別れて何人かと寝た後で、相手を探すことはやめてしまった。 一か月続いたからあと一か月、もう一か月、と自分を励まして、走ることを習慣にした。 夢を憶えていることは少なくなった。でも、夜のランニングを週三回に増やした直後に、あのカフェの夢をみた。 駅から歩いて、辿り着いた円筒形のビルの二階は美容室だった。洋服屋じゃなかったっけ、と思いながら、一階のカフェに入った。 プラスチック製の色とりどりのテーブルと椅子がある。席につき、前にこの店に来た時、誰かに会ったことを思い出した。 誰だったか。嬉しかったのに悲しかったのは、何故だったか。 あのケーキ、佐倉さんと分けて食べたんだ! ああ、今さらそんなことを思いつくのか? 想像にすぎないのに、僕はそれを確信するというのか? 寝てないって? それでも、彼女が羨ましかった。 あそこには、芝田がいた。本当にあったことだろうか。 僕は誰が来るのを待っているのだろう。 芝田を睨んだ後で、僕を見たあの目を、いつ忘れるのだろう。 キシさん。(今は会いたくない。会うのは怖い。) 僕がここで会ったのはキシだ。でも、彼がケーキを運んでいたのは、別のカフェ。 このテーブルに小さな箱をおいた時、キシは嬉しそうだった。僕の夢の中だったから。 カフェの席に一人で座っている僕は、今もあの箱を開けたいと願っていた。 その切望に体が震え、胸が痛んで涙が溢れてくる。 あの箱には、キシが僕を特別に思っていたという証拠が入っていたかもしれないから。その全てが夢だとしても、だ。 ゆっくり目を開けると、まぶたの裏に溜まっていた涙が両頬に流れ落ち、耳を伝って枕に染み込んだ。カーテンの向こうはもう明るくなっている。 ケーキか。考えたことすらなかった。 芝田といたカフェで偶然会った時に、キシのトレイの上にあったやつだ。どんなケーキだったかも覚えていない。 で、あの女が羨ましかったって?気は確かか? 僕は笑おうとして、しゃくりあげた。天井を向いて涙が溢れるままにしていると、首筋が濡れてひんやりとした。 キシのことは、普段の生活では思い出さない。 それなのに、夢が扉を開けると、あの時の傷はまだ僕を泣かせるほど痛い。 2 六月に入ってすぐ、職場に電話がかかってくる。配属になったばかりの新卒のスタッフがぎこちなく対応して、お待ちくださいと言った後、考え込んでからようやく保留ボタンを押した。 「あの、キシさんから、お電話です」 と僕の方を見て言う。 「僕ですか?」 「はい」 「わかりました。取り継ぐ時、何番にかかってきたか、一応言ってください」 「すみません!…三番です」 どのキシさんだろう、まさかあのキシさんじゃないよな、と思いながら、習慣ですぐに受話器を取って、三番の保留を解除した。 「はい、お電話代わりました、上野です」 「岸です」 キシの声だった。 「えっ!キシさん?」 「うん。上野くん?」 「うわ。本当にキシさん?」 大声になった。新卒の子が驚いたように見ていた。 「ほんとだよ」 キシの声は笑っている。 「日本にいるの?」 「日本にいる」 驚きや戸惑いよりも、声と話し方が懐かしかった。 「あのさ、上野の、会社のメールアドレスって前と変わった?」 「えっと、多分変わった、ドメイン変わったから」 「新しいドメインは知ってる。アットマークの前を教えて」 「うん、いい?」 名前と苗字を記号で奇妙に結びつけたのを言うと、 「ありがとう。メールする」 とキシは言う。 「あ、わかった」 「仕事中に失礼しました。またね」 電話は切れて、僕は受話器を置いた。新卒の子が様子をうかがっている。 でも、普通に話せたじゃないか。キシに伝えながら書類の端に書いた自分のメアドを、しばらくじっと見つめていた。 その日、会社にいる間にメールは届かなかった。 夜のランニングの後、シャワーを浴びてから髪が乾くまでの間に、スマホを手に取った。少し考え、思いきって会社のメールをチェックする。 件名は、「岸です」だった。 本文は「空いてる時間があれば、教えて。」。 ランドマークにあるコーヒーショップの名前と、三つの日付と時間が書いてあった。 スマホを置き、ペットボトルから水を飲んだ。ボトルを置いて、すぐにもう一度スマホを手に取った。 「なんだよ…」 立ち上がり、部屋を歩き回り、次にベッドに座った時は、英司に電話をかけていた。 「今話せる?」 -少しなら。 「誰かいる?」 -うん。 「じゃあ、いい」 -早く言えよ。 「…キシが帰ってきた」 -誰だっけ? 「…あの」 -わかってる、あのキシね。…連絡あったのか。 物音で、英司が部屋を移動するのがわかった。 「ん」 -会うの? 「…どうしよう」 ドアを閉める音がした。 -何で?あんなに会いたがってたのに。 「会いたがってはないよ」 -それはまあ、物は言いようだな。 「…」 -キシならいいのに、って思ったことあるだろう。 「うん?」 -俺が。似てたんでしょう。 「…」 -会ってきなさいよ。 謝りたかったし、言い訳したかったし、奥さんとよりを戻したのかどうかも尋ねたかったが、 「変な電話してごめん、切る」 と僕は言った。 -いいよ。おやすみ。 英司は顔を合わせても滅多に笑わないのに、電話で話すと、いつも微笑んでいる人のような声だった。 3 キシと会う日は、朝から雨が降っていた。土曜日だったので、洗濯機を回して、部屋の掃除をした。 僕の部屋は、ファミリー向けの分譲マンションの三階にある。プライバシーが守れて人目に立たない、都合のいい部屋を探しているうちに、駅から離れた中古マンションの一室が賃貸に出たのに当たった。 掃除に時間がかかるのが難点だ。昔住んでいた古いアパートは、ベッドしか置けないほど狭かったが、掃除する場所もほとんどなかった。 キシのワンルームの部屋は、いつも掃除が行き届いて、整理整頓されていた。 僕が行く日はキシが決めていたから、その日は掃除をしておいた、ということか。 いや、初めて部屋に行った夜も、同じようにきれいだった。ベッドも最初からきちんとしていた。 キシのベッドには、大きな白い羽根枕と光沢のある白いクッションがあった。白いカバーの羽毛ふとん(全く重さを感じない)をめくると、糊をきかせた白いシーツが、ホテルのベッドのように皺一つない状態で敷かれていた。いつ行ってもそうだった。 今思えば、変わった人だ。 いろんな人といろんな場所で寝たけど、床やふとんやソファーの上に、タオルか何かを敷きたがる人は割といる。 でも、もしあの頃キシに、ベッドに何か敷く?と聞いたら、 「どうせ洗うのに?洗濯物増えるだけじゃん」 と答えたに違いない。続けて、 「それとも何、なんかすごいことでもしてくれんの?」 と言う笑顔と、僕が帰った後、シーツもカバーもひっぱがして、洗濯機に放り込んでいる姿まで想像できた。 あの高価そうな枕も、平気でいろんなことに使ったっけ。クッションはいつも床に落ちてた。 掃除機のスイッチを切り、僕は現実に戻る。 妄想の中のキシの部屋には太陽の光が差し込んでいたが、窓の外は薄暗い。雨粒がベランダの手すりに当たる音が、リズムを刻んで耳に届いた。 待ち合わせたのは午後二時で、エレベーターを降りた時は五分過ぎていた。 やはり会わずに帰ろうか、とふと思う。緊張はしていなかったが、本屋に併設されているカフェのレジが目に入ると、歩くスピードが遅くなり、雑誌の棚の前で立ち止まった。 キシに会うことにしたのは、二人で会う方がいいと思ったからだ。 同期は今でも仲が良く、十人以上会社に残っていて、辞めた連中も同期会には顔を出す。キシが帰国したら、必ず同期の集まりがある。 九年ぶりに顔を合わせる時、大勢の中の一人として会うのは神経が耐えられそうにない。 キシも多分同じだろう。 会うのは怖かった。あの頃はもう遠い昔だ。 それでも、キシが僕に会おうとしているなら、どんな形であれ、いつかは会うことになる。 それなら、心の準備ができるタイミングで会った方がまだいい。 手に取って開かなかった雑誌を平積みの山に戻して、カフェのテーブルが並んでいるあたりに目をやった。 キシは見当たらない。急に胸がざわざわと波打った。奥へ進んでいくと、別のレジカウンターの向こうにも席がある。 窓際の小さなテーブルに、キシがいた。 4 キシは、もう僕を見つけていて、目が合うと、軽く手を挙げた。僕は歩いていった。 キシは立ち上がり、僕は、彼を見上げる。 「久しぶり」 「…キシさんだ」 心の中で言ったつもりだったが、僕は呟いていた。キシは微笑んだ。 眼鏡の奥の目は、白い光を躍らせて僕を見つめ、キシは笑顔で右手を差し出した。その手を取ると、キシはぎゅっと力を込めて握手した。 すぐに手は離れて、キシは、 「何飲む?コーヒーでいい?」 と言った。 「あ、うん」 「座ってて」 僕は、キシが座っていなかった方の椅子に座り、ショルダーバッグを前に回した。傘をテーブルに立てかける。手が震えているような気がした。 隣のテーブルは離れていたが、手を見て確かめる仕草をする気にはなれない。 会っても何も感じないかも、と少し思っていた。九年の間に僕は変わった、と。でも、そうではなかったのか。 丸い小さなテーブルに置かれたマグカップに、コーヒーが少しだけ残っている。 戻ってきたキシは、カップを二つ載せたトレイをテーブルに置いて、向かい側に座ってから、 「思い込みでホットにしたけど、アイスっていう選択肢もあったよな」 と言った。 「ホットでいい」 「雨だったね、今日。すみません」 キシはカップを一つ僕の方に押しやった。視線がその手を追ってしまいそうなので、無理に外して、顔を見た。 「待った?」 「ちょっと早く着いた。本屋見ようと思ったけど、人が多くて」 キシは、えんじ色の薄手のセーターを着ている。少し痩せていたが、髪も眼鏡も基本的に変わらず、あの笑顔と眼差しが昔のままだった。 「めちゃくちゃ懐かしいなあ」 「うん、ほんとに」 少し見つめ合っていた。 「上野、全然変わらないな」 「キシさんこそ」 「俺はなー、年取った自覚あるよ」 キシはマグカップを手に取り、コーヒーをそっと一口飲んだ。 熱そうに顔をしかめて。 視線をそらして、僕もコーヒーに口をつけた。温かかったが、味はよくわからない。 「あ、砂糖とか持ってきてないけど」 「要らない」 「ブラックだったと思って」 顔を上げると、また目が合う。あの機械で淹れた美味しくないコーヒーのことを思い出している。 キシは何を忘れただろう。僕は、全部憶えているだろうか。 コーヒーのことは気づかなかったふりをした。 「…キシさん、一時帰国?それとも帰ってきた?」 「ん、アナタ、やっぱりFacebookとかやってない」 「うん」 「そうか。SNSとか全くやらない?」 「やらない」 「なんで?」 僕は肩をすくめた。 「さあ」 キシはそれ以上聞くか迷って、諦めたようだった。 「…それでも、連絡が取れてよかったよ」 「…」 「会社辞めずにいてくれて」 九年前、玄関で靴を履いている時、お前、会社辞めんなよ、とキシが奥から声を掛けてきた。 それを忘れたわけではないが、僕はキシに言われたから、会社を辞めなかったのだろうか? 今、キシの言葉を聞くまで、そうとは考えていなかった。 キシが、微笑みながら、 「どした?」 と聞いた。 「いや、何でもない」 「なんだよ」 「いや、いい」 すると、キシは、 「あれは、そういう意味だよ」 と言って、椅子にもたれた。 「会社辞めたら、上野は消えると思ったからさ、連絡取れなくなると」 一瞬どんな顔をするべきか迷い、どうにも取り繕うことができなくて黙り込む。 目の前のキシは穏やかな表情で、やがてまたコーヒーカップを持って口に運んだ。 そしてカップを置き、しばらくしてから、 「まだ、夢みる?」 と僕に聞いた。 僕はキシを見つめた。この人は、たくさんのことを憶えていたわけだ。そして、僕は今でもこの人から目が離せなくなる。 「憶えてるのかよ…そんなにうるさかった?」 キシの目は、あの重く白い光を湛えていた。 僕が来る前にキシが飲んでいたコーヒーカップに指で触れると、すっかり冷えている。 キシが答える前に、僕は口を開いた。 「あの頃は、キシさんに会えたら、他のことはどうでもいいと思ってた」 キシだけに聞こえるくらいの声でつぶやいた。 「夢中だったね、僕が。若かったし」 早口で言って、コーヒーを一口飲んだ。キシを見ると、驚いたような顔をしていた。 「知ってただろ」 軽く言ったつもりが、非難めいた口調になった。キシは、 「ここで、そんな話しないでくれ」 と、やはり僕だけに聞こえるように言った。 「どーして」 「その話をするには、場所が悪くない?」 「…別に、これ以上の話はないよ。昔そうだった、ってだけで」 「まあ、ちょっと待て」 言い返したかったが、口を閉じた。キシは、眼鏡の奥から僕をじっと見て、 「…すごく昔のことだね」 と、優しい声で言った。 結局、キシも僕も、昔の話をしていた。 「昔だね」 「今、誰かいるの?」 キシの方が先に聞いた。 「今は、いない」 「本当?」 「ほんとだけど。じゃキシさんは?」 「いない」 キシはそう言ってから、僕を見て嬉しそうに笑った。 「はは」 「何?」 「いや、いるって言われたら、なんて言おうか考えてて」 「なんて言う気だった?」 「思いつかなかった」 夢でカフェにいた時と同じ気持ちがこみ上げてきて、僕は顔を伏せた。 キシが欲しかった。 それは、衝動とはまるで違う。例えば英司に会いたいとか、男が欲しいとか、あの焦りに似た衝動ではない。 キシは、僕の心の奥に潜む切望そのものだった。 僕を、未知の場所から激しく揺り動かす切望。 夢の中で幻の肉体が震え、胸が痛んだ時と同じように涙が溢れてきそうで、僕は別のことを考えた。 英司に会おう。誰でもいい。 誰かに抱かれたい。 キシじゃない誰かに。 僕が顔を上げると、キシは、 「ちなみに、俺は日本に帰ってきたよ」 と言って、にっこりと笑った。 「へえ。向こうの仕事は?」 「いろいろあって、俺は手を引いた」 「そう」 「元々、死んだ弟の代わりに、みたいなことだったからね」 窓を見る。曇り硝子の向こうには、雨の代わりに、あの光の粒が流れているような気がした。 5 カフェを出て、本屋を抜けていく途中で、キシが、 「また会える?」 と言った。 「会って、どうする」 「そうだな、映画観てごはん食べる」 僕は、後ろを歩くキシを振り返った。 「…何それ」 「なんでだよ」 キシは明るい声だった。 「これは、考えといたんだよ」 「ええ?」 「また会おうって言ったら、絶対嫌な顔すると思って、ふふ」 下りのエスカレーターに、キシは僕を追い越して先に乗り、振り返った。 「帰る前に、少しだけ散歩に付き合え」 「雨なのに?」 「少しだけ。行きたいところがある」 本降りだった。人混みの中で青い傘を広げたキシは、大通りと反対の方へ進む。僕も傘を差して、後ろからついて行った。 歩き始めて二本目の角を入り、キシはどんどん進んでいく。 道の両側に、シャッターの下りた建物が続いた。雨のせいか、店がないせいか、誰も歩いていなかった。 傘に当たる雨の音が急に大きくなる。土砂降りだ。どこまで行くのか聞こうとしたところで、キシが僕を見かえって、 「雨宿り」 と指差したのは、小さなビルの軒下だった。 古くて重そうなガラス扉の奥は暗かった。僕は屋根の下に入って、扉を背に傘を閉じた。 キシは僕の正面に立つと、傘を差したまま、片手で僕の肩を引き寄せた。 「キスしていい?」 答えないうちに、傘の青い色を背景にキシの唇が下りてきて、僕はしばらく目を開けて眼鏡のフレームを見ていたけど、目を閉じた。 キシの唇は乾いて温かく、うっすらコーヒーの香りがした。唇を舌でなぞられ、それでも口を開けないでいると、上唇にそっと歯を立てられた。僕はかすかに息を吐き、キシは舌で唇をこじ開けて、しばらくすると離れ、傘を持ったまま、もう片方の手を僕の背中に回して抱き寄せた。 動悸が激しくなり、脚が震えて、僕は傘を取り落とし、その手でキシのジャケットを掴んだ。 背中に回された腕に力が入り、彼の心臓が高鳴る音が体に響いて、僕は目を固く閉じ、キシさん、と呼んだ。声が掠れた。 「キシさん」 キシの体は熱く、痛いほど強く僕を抱きしめた。 「いい子にしていて。次に会うまで」 「え」 僕が顔を上げると、キシはもう一度唇を重ねて、僕の中にその柔らかい舌を深く差し入れた。キシの体の匂いと感触に満たされて息ができず、体の奥が痺れたように激しく揺さぶられた。 唇が離れて、僕が喘ぐのを、キシはじっと見ていたが、ふと背中に回した腕を解いて、親指で僕の口の端を拭った。くすぐられるような感覚が腰を這い上った。 キシはかがんで僕の傘を拾い上げ、自分の傘をようやくたたむと、僕の横に並んだ。 視界が開ける。目の前が白く霞むほど、雨は激しく降っている。 僕は何も考えられず、雨音と、耳の内側に響く荒い呼吸音と鼓動を聞いていた。 横にいるキシが深くため息をついてから、僕の方を見て、 「大丈夫?」 と尋ねた。僕は彼を見上げ、首を横に振った。 キシは、指をのばして、僕の額にかかった前髪をかき分けた。 「…このまま帰すと、ふらふらどっか行きそうな顔してたから」 「…」 「お前、昔からそうだった。俺が悪かったんだろうけど」 キシは眼鏡の奥で、眩しそうに目を細めた。 「他の人と寝ないで」 「…え?」 「俺にチャンスをください。って、言えた義理じゃないけどね」 まるで水槽の中に放り込まれたような大雨の中で、目の前の道を横切る人がいて、ほとんど意味を成さない傘を傾け、こちらに目をやる。 キシの傘は、一応目隠しだったのか。 「なんのチャンス?」 「…最初からやり直すチャンスだよ」 キシは続けて、 「こんなにすごい雨が降るって珍しくないか」 と言う。 「うーん、こういうの最近増えたよ、ゲリラ豪雨みたいな」 「言葉は知ってるけど…」 僕とキシは並んで、そのままずっと雨を見た。 小降りになった時に、キシの手から自分の傘を取ろうとすると、 「もう行く?」 とキシが聞いた。 「うん」 「じゃあ、こっちの傘にしな、濡れるよ」 キシは僕のビニール傘を引っ込めて、自分の青い大きな傘を渡してきた。 「いいよ」 「俺んとこ駅から近いから。ほぼ外歩かないから」 「キシさん、この後どっか行くんじゃないの」 「行かない、散歩は口実」 僕は青い傘の手元を掴んで、キシの手から取り上げ、ボタンを押して開いた。 「一人で帰りたい」 「うん」 軒下から、雨の中に踏み出した。 傘をかしげて見ると、キシは僕のビニール傘を持った片手を上げ、またね、と言った。 6 雨は一晩中降り続き、次の日の午後に止んだ。すぐに着替えて走りに行き、雨上がりの道が滑りやすいので、いつもよりゆっくり、距離は長めに走った。 マンションの玄関まで戻った時、女の人に手を引かれた小さな子が、おぼつかない足取りで外に出てきたところで、 「あー!」 と、空を指差した。 振り向くと、大きな虹がかかっていた。 「虹だねー」 母親らしい若い女性は、そう言いながら男の子の隣にしゃがみこみ、目が合うと会釈してくれた。 僕は二人の後ろに回り、息を整えながら、空を見上げた。 あそこに行きたい、と子どもの頃、母親に言ったことがあった。虹が橋のようで、そのたもとに行けば渡れると思って。 虹は、見えるけど本当はないよ、と母親は言い、あるものをないと言われても僕は納得せず、彼女は疲れていて、僕を連れて行くのが面倒だから嘘をついていると思った。 僕はその頃から、いつ死んでもいいと思って生きてきた。 キシを欲しがることは、僕の矛盾だから苦しいのだ。そして、キシに向かって手を伸ばす気持ちを自分で全く制御できないことが、怖かった。 「あれ、欲しい」 男の子が、虹を指で捉えたまま、小声で舌足らずに訴えた。女性は快活に笑って、 「虹欲しいか、そうかあ。行ってみよっか」 と立ち上がった。 「遠いよ。たっくん歩けるかなあ?」 「うん」 彼女は振り向いて、僕に笑いかけた。 ゆっくり歩く二人の後ろ姿を、濡れた歩道の向こうに見送った後、虹が消えてしまうまで、空を見ていた。

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