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雨を見る人
日曜日
虹を見た日の夜遅くにキシからメッセージが届いて、二週間後の週末に会えたら、と書いてあった。
「わかりました」と一言返した。すぐに返信が来て、
-明後日から一週間くらい、仕事の関係で西の方を回ってきます。本当は次の週末に誘いたかったけど。
とあった。
連絡先を交換したから、連絡が来ることは予想していたし、返事をしないという選択肢はなかった。でも、落ち着かなかった。
二通目に返信しないまま、文面が表示されたスマホを見つめ、時間が経って画面が暗くなると、指で触れて明るくした。何度か繰り返した。
夜中にまた雨が降り出した。
月曜日
背中を軽くつつかれて顔を上げると、後ろの席の岬さんだ。
「お休み中、ごめんなさい」
「いえ…すみません、ぼーっとしてました」
「雨だし、月曜だし、だるいわよね」
昼休みはあと数分しかない。昨日もあまり眠れなかった。土曜からこっち、ずっと頭に霧がかかったようだ。
「でね、お疲れでなければ、今週の木曜に、例のサークルの練習にいらっしゃいませんか?」
「…木曜ですか」
「木曜は一応、晴れのち曇りの予報なの」
「はあ」
ランニングを目的とする集まりは社内に幾つかあり、岬さんは、古くからあるサークルの創設メンバーだ。雑談の中で、たまに走りますと僕が口を滑らせて以来、彼女は練習に来いと誘ってくれる。これまでは理由をつけて断ってきた。
「別に、今後続けて参加しなくてもいいですから」
「はあ」
「お試しで、ね。うちのサークル、気をつかわなきゃいけない人はいないから」
岬さんは声を落とし、
「メンバーは、私が厳選しています」
と付け加えた。
「僕は、いいんですか」
「もちろんじゃない」
岬さんは笑顔になる。
「じゃあ、木曜ね」
「…でも、走るのすごい遅いです」
「前にも言った通り、走り方は自由よ。男性もゆっくり一周、って方は割といらっしゃるの」
家の近所を走るのに飽きてもいたので、
「じゃ、お試しでお願いします」
と頭を軽く下げた。
「やったあ、こちらこそお願いします」
岬さんは嬉しそうに両手を胸の前で合わせた。
「靴と着替えをお持ち下さいね。いつも同じランステに行くの」
始業のチャイムが鳴り出した。
「ランステ…」
「あら、後で、リンク送りますね」
岬さんは、椅子をくるっと回して、デスクに向き直り、僕も椅子を引いて机に向かう。書類を広げて、キーボードに手を置いた。
キシが戻ってきたこの世界に、まだ焦点が合わない。いや、合わせたくない。土曜に会ったことを頭の中で反芻しないように、かなりエネルギーを使っていた。それで、こんなにぼんやりするんだ。
火曜日
近所を走った後にシャワーを浴びて、下着だけでベッドに寝転がった。髪が濡れているので、ヘッドボードにもたれて。
ベッドに投げ出した自分の脚を眺め、膝を立てる。ふくらはぎの裏から上へ向けて、両手で触っていった。見た感じはそんなに変わらないが、触ると以前より引き締まって、皮膚のすぐ下に触れる筋肉が硬く感じられた。
太ももから下着を撫でるように触った。
キシのことを考えないようにしていたが、そのこと自体に疲れて、限界だった。結局、濡れた髪を枕に押しつけ、下着の中に手を突っ込んだ。
やさしく唇を噛まれたほんの一瞬の感覚を呼び起こすだけで、もう呼吸が早くなって、首に掛けているタオルを取った。
何のためらいもなく、よく知っているという感じで唇を割って入ってきた柔らかい舌と、その後で耳に響いた鼓動の速さがちぐはぐな印象で、それを思い出すと心が揺らいだ。
他の人と寝ないでと釘を刺した時のちょっと不思議な表情や、片手で僕を引き寄せた時の力強さ。
いい子にしていて、という静かな声。
「図々しい」
僕は声を漏らす代わりに、つぶやいた。
キスしていい?と一応聞かれたけど、返事をする時間はなかった。僕がだめと答えるのがわかったから、答えさせなかったのだ。ばかめ。だめに決まってる。
「あっん、んん…」
口を引き締めたが、声が出てしまい、激しく射精した。両脚が震えた。いつまでも続くような気がするやつだ。頭が真っ白になるやつ。
一人ですると、終わった後で嫌な気持ちになる。だから滅多にしない。セックスの後の、胸に穴が開いて息ができなくなるような感じの方がまだましだった。
背筋を走る寒気に似た嫌悪感を振り払って起き上がり、部屋着を着た。バスルームの洗濯かごに、下着とタオルを放り込み、廊下に出たところで青い傘が目に入る。シューズラックにしまったり、捨てたりすることはできないまま、玄関のドアの脇に立てかけてある。
廊下の電気を消し、寝室に戻ってベッドに突っ伏した。
涙が滲んだが、泣くのは嫌だった。
嫌な気持ちは、虫が這うようにまだ体の表面に残っている。
しばらくして、英司に電話をかけた。留守電に切り替わったので、そのまま切った。
水曜日
電車の中で、英司からのメッセージを読んだ。
-おはよう。昨日電話くれましたか?
-おはようございます。電話しましたが、特に用事じゃなかった
-金曜に学会でそっちに行くけど、またごはんでも食べる?
一年近く前に、英司が仕事で来た時に会って、食事をしたことがあった。
返信しないうちに、もう一件届いた。
-夜、横浜に来てくれるなら、ごちそうする。次の日、帰らないといけないので。
-金曜は仕事が微妙かな
-了解。
片手でつり革につかまり、片手でスマホを目の前に掲げて、目を閉じた。英司に会うことと、キシがいることが、うまくリンクしない。キシがいる世界で、先のことを考えるのが怖かった。
-行けたら行っていい?
僕は結局、少し考えてからそう返信した。
-いいよ。また連絡して。
木曜日
終業のチャイムが鳴り始めるのと同時に、岬さんは立ち上がった。
「上野さん」
「あ、すみません」
「遅いです!先に一階に降りてますね」
「え、そんなに急ぎますか?」
「そんなに急ぐのよ」
彼女はもう靴も履き替えていて、いつも持っている朱色のハンドバッグを肩にかけ、花柄のナイロンバッグを手に下げて、お先に失礼しますと明るい声で周囲に言いながら、さっさといなくなった。
慌ててパソコンの電源を落とし、デスクの上を片付けた。今日は大きめのリュックで来て、デスクの脇に置けないのでロッカーに入れたのを取りに行って時間を食った。エレベーターホールは廊下まで人が溢れており、やっと来たエレベーターには乗れず、次に来たやつに無理して乗り込んだ。やっと一階に着くと、ロビーの向こう端で、岬さんが手を振ってくれた。
「すみません、遅くなりました」
「エレベーター、来なかったでしょう?少しの差が勝負を分けるから」
「…勝負だったんですね」
「もちろんよ」
「もう疲れた…」
岬さんと一緒にいる三人の女性が笑った。顔見知りも、全く知らない人もいる。
「後ほど、まとめてご紹介しますね。他にもまだいらっしゃるから」
と言いながら、岬さんはエレベーターの方へ手を上げた。若い人を二人連れて近づいてきたのは、藤尾さんだった。
「お、上野がいるんだ」
「お疲れ様です」
藤尾さんがいるとは思っていなかった。
かなり前に、男を拾うために初めて入った店で、藤尾さんを見かけたことがあった。
店内で三十分以上過ごしてから、彼がいることに気づき、すぐに出て、その辺りにはもう近づかなかった。その場で顔を合わせなかったし、六、七年先輩で、仕事上でも社内の付き合いでも直接関わることがなかったので、当時はほとんど気にしなかった。
その頃、心にはいつも、いざとなれば死ねばいい、というお守りの言葉があった。
自分はそう簡単にはくたばらないと気づいたのは、もっと後のことだ。
ゆっくり走る人は五キロ、早く走れる人は十キロを走った後、ランステ(ランナーズステーションだった)の近くで居酒屋に行った。
今日はメンバーがスカウトした人を連れてくる日だったらしく、初めて参加する人が僕を入れて四人いた。全部で十一人が二つのテーブルに分かれた。
藤尾さんと話したくなかったが、彼は僕の斜め向かいに座った。
「上野、いつ頃から走ってるの?」
「一年半くらい前からです」
さっきから何人かに聞かれた質問なので、すぐに答えられた。
「へえ。一人で?」
「はい。夜その辺を走ってるだけなので」
「レースとか出ないの?」
「考えたことないですね」
その時、岬さんが、隣のテーブルから、
「皆さーん」
と呼びかけたので、話が途切れた。
その後は、僕の横にいた女性と藤尾さんがフルマラソンや山岳レースの話で盛り上がり、僕は聞いていればよかった。
店を出た後、少し遠い駅まで歩くつもりで、抜けるタイミングを計っていると、後ろから肩を触られた。
「寄り道?」
藤尾さんは、ささやくような妙な小声を出した。
「…えっ、どうしてわかったんですか?」
大きな声で聞き返すと、彼はいやな目つきで、僕の顔を眺めた。僕は彼の脇をすり抜け、もう挨拶もせずに歩き出した。
金曜日
英司は、駅の近くに車を止めて待っていた。
「お腹空いてる?」
「まあまあ」
「前に行ったとこに連れていこうとしてるんだけど」
ぴんとこなかった。
「どこのこと」
「夏に行った魚のお店、憶えてる?」
「…千葉の?」
「ここからは近いよ。帰りは家まで送る」
面倒なことになるかな、という言葉が頭をよぎった。でも、今朝になって英司に連絡したのは僕で、面倒が嫌なら来なければよかったのだ。
英司の車に乗ると、いつも小さな音で音楽がかかっている。今日も、以前に彼の車で聴いたことのある歌が流れていた。僕は音楽を聴く習慣がなく、ほとんど何も知らないので、誰の曲かと尋ねたことはない。答えを聞いても、知らない外国語を聞いたような反応しかできないから。それでも、今日は何の曲か聞こうとしたところで、
「キシに会った話、して」
と英司が突然言った。
その口調は質問というより、指示に近かった。医者が、じゃ口を大きく開けて、と言うあの口調だ。
何を話せばいいのか考えていると、
「どこで会ったの?」
と聞かれる。
「…カフェ」
「何年ぶりだっけ?」
「九年」
英司は、ちょっと驚いた、という顔をした。
「もうそんなになるわけ?で?」
「で…」
「老けてた?」
「いや。変わらなかった。昔のまま」
英司にキシの話をするのは妙な感じだったが、口に出すと何故か落ち着いた。
キシの話をできるのは、キシ本人か英司しかいない。会社の人達とキシについて話す時の疲労感を思い出した。
「昔のままに見えたか」
英司は、呟いた。
「まあ、ね」
「お茶だけ飲んで、帰ったわけじゃないよね」
「お茶だけ飲んで帰ったけど」
一瞬ためらって、
「キスした」
と付け加える
「は?キス?」
「うん」
英司はその後、何も聞かなかった。
道は空いていた。トンネルを抜けて、海の上を走る道路に出ると、ぽつぽつと船の灯りを浮かべた真っ暗な海の向こうに、工業地帯と街が輝いて見えた。
「この感じ、懐かしい」
「海のこと?」
英司が、さっきまでと違う沈んだトーンで聞いた。
「…うん」
「今日ね。横浜が会場だったから、横浜で会うのは、本当はまずかった」
「うん、確か前の時も、仕事の場所とは離れたとこでごはん食べたよね」
「そう」
少し間を置いて、
「でも今日は、あの別荘に連れて行きたいから、横浜に来てもらった」
と彼は言った。
「嫌なら、無理に行くつもりはないから」
道沿いに並んで規則正しく流れるランプの白い光は、どこかで見た何かに似ている。窓にもたれてそれを見ながら、僕は大きく息を吐いた。
「やりたいの?」
「ん?」
「奥さんに悪いじゃん。それでもセックスしたい?」
英司は、横目で僕を睨んだ。
「君は、なんで来た」
「…」
「昔の男にまた捨てられるのが怖いから、逃げてきたんだろ?」
この人はいつも的外れなことを言う。僕は苛立って、
「そうじゃない」
と声を上げた。
「じゃあ、なんだ」
「…」
「俺の気持ちを利用するくせに、非難するのはよせ」
非難したつもりはなかった。気づくと、雨粒が細い糸を描いて次々と窓に落ちかかっていた。車は海を渡り終える。
二年前の夏に行った店は、今日も混んでいた。あの時の店員はいなかったが、英司はやはり「先生」と呼ばれて、奥の席に通された。
車の中の会話はなかったことにして、僕は聞かれるままに、仕事とランニングの話をした。ふと思い出して、
「車でかけてる音楽、いつも同じ人のだよね」
と聞いた。
「そうだな。君を乗せる時は同じかな」
「多分聞いても分からないけど、なんていう人の歌?」
「人というか、バンドなんだけどね」
英司は珍しく笑顔で、バンドの名前を口にした。僕は、その名前を憶えておかなくちゃ、と思う。
先にシャワーを浴びた英司が戻ってきて、足元に気をつけて、と言って着替えを渡してくれた。
階段を上って、カーテンのない大きな窓に近づいた。海の向こうの灯りが、雨に滲んで見えた。洗面所で歯を磨き、バスルームのドアを開けて中を覗くと、リビングと少し角度が違う窓の外は、暗闇だ。
僕は部屋に戻って照明を全部消してから、重いガラス窓をなるべく静かに開けた。バルコニーに片足だけ踏み出すと、潮の匂いが鼻をつく。タイルに当たる雨音が優しく静かに響いて、目が慣れると、少し傾いて空から降る雨の様子が見えてきた。
そのうち遠くに目をやって、暗い海に光が反射して、水面がところどころで白く揺らめくのを探していた。白い光は、キシの目の中のあの光だ。さっき橋で見た、流れるランプの列も。
僕はうなだれ、目を閉じた。冷気を含んだ潮風に運ばれる生暖かい空気が、少しずつ皮膚を湿らせていった。
どれくらいそこに立っていたのか、ズボンのポケットでスマホが振動して、驚いて小さく飛び上がる。
奇妙な予感とともに引っ張り出すと、キシからの電話だった。バイブレーションが終わって留守番電話に切り替わってからポケットに戻し、窓を閉めて、バスルームに向かった。
僕の心の何処かに、キシのための場所がある。長い時間が過ぎても、何人の男と寝ても、キシに愛されなかった痛みは、ずっとその場所にうずくまっている。
キシはこの間、最初からやり直すチャンスをください、と言った。
嘆きが目を覚まして、愛されなかったと恨んで、愛されたいと涙を流して、僕を苦しませることをキシは知らない。
シャワーを浴びながら、僕は声を殺して泣いた。
英司はベッドに座り、ラップトップを横に置いて、難しい顔で画面を見ていた。組んだ脚の上に、何かいっぱいに書き込まれた大きなノートがある。
「いいよ、やってて」
僕はそう言って、ベッドの足元の方に座ってタオルで髪を拭いた。
「シャツとズボンもちゃんと掛けた?」
振り向くと、英司は皮の表紙のノートを閉じたところだった。
「畳んだ」
英司は僕の顔を見て、眉をひそめた。
「さっきんとこにハンガー出してあるから掛けておいで」
「…いい」
「よくないだろ」
僕は嫌々立ち上がり、部屋を出た。広い玄関のスペースに置いた鞄の上に放り出したシャツとズボンを、ラックのハンガーに吊るす。
鞄のサイドポケットに入れたスマホを出して見てみたが、キシからの着信はあの一度きりで、留守電は入っていなかった。
英司はベッドの上をきれいに片付けていた。
「仕事してていいのに」
「いや、どうせ終わらない」
僕はベッドに上り、彼の横に座った。
「二階の窓を開けてた?」
「うん、あ、ちゃんと閉めたよ」
「何も見えないでしょう」
「なんか、海が光って見える」
英司は、横から僕の顔を覗き込んだ。
「何で泣いた?俺が嫌なこと言ったから?」
「…泣いてないけど」
「泣いた顔だよ」
頭に置かれた彼の手を掴んで、手のひらにキスした。さっき使ったシャンプーの匂いがして、湿っている。
彼は、その手をもう一度僕の頭に置いて、
「会うのは、これで最後にする。でも、いつでも電話してくれていいから」
と言った。
「…最後って。もう別れてるのに」
英司は、僕が首に掛けているタオルを取り、両手を使って美容院でやるように、僕の髪を拭き始めた。
「昔の男が戻ってきた時は、君から会いに来ると思ったから」
例の沈んだ声だった。
「待ってた。未練というか、ね。今日、ここに連れてきたから、これでもう」
タオルを丁寧に畳んで脇に置いてから、英司は僕の肩を静かに抱き寄せた。僕は彼の胸に顔を押し当てた。
「君の言う通り、セックスしたいと思ってたけど、やっぱりやめよう」
「していいよ」
「言うと思った。でも、俺はしない方がいいな」
「…そうなの?それなら、何でここまで来た」
英司はなだめるように、僕の腕を撫でた。
「君が二階で海見てたのが、ずっと忘れられなかった。子どもみたいな顔で」
「…」
「空とか海とか、何やらそういうのをじっと見る子だと思ってて…でも、あまり外で会ったりできなかったからね。振られたけど、ここはいい思い出なんだよ」
顔を上げようとしたが、英司は僕を抱いた手に力を込めた。
「少し、こうしてて」
「…」
「…明日、海見えるといいね」
僕をあんな風に狂わせるのはキシだけで、キシがいたら、他に何も、誰も要らなかった。でも、キシはいなくなった。
英司がまるでキシと似ていないことに、僕は今さら気づく。
顔を見たら泣きそうで、目を閉じたままじっとしていた。泣けば、英司は慰めてくれるだろうけど、僕はそんな優しさには値しないから。
土曜日
午後、家に戻って、キシに電話をかけた。
-おお。
「どうも。昨日、電話くれたから」
-うん、どうしてるかなと思ってかけた。
キシは、小声だった。
「今、話さない方がいい?」
-いや、今ね、京都のお寺にいる。お堂の中から、庭見てる。
「庭?」
-嵐山、わかる?
「うん。行ったことないけど」
-嵐山にあるお寺の庭園を見に来た。雨がすごい降ってるよ、また。
「…そう」
-聞こえるかな。
さっきからキシの声の後ろで聞こえていた風が吹くような不思議な音が、ざあざあと降る雨の音に変わり、複数の人の話し声が遠くに聞こえた。
キシが、その庭の雨に向けて、電話を掲げているのが見えるようだった。
-聞こえた?
「大雨だね。あと、人がいる」
-今、人がいない方に移動するから、少し待って。
キシが立ち上がり、歩いているのが息遣いでわかった。
「別に用事はないから」
と僕は言った。
「ただ声が聞きたいから、かけただけだから」
-から、が多いな。
キシが笑いながら言った。
「あー」
-俺も、声聞きたかったよ。
キシはどこかに立ち止まったのだろう、気配の向こうにまた雨の降る音が流れ込んだ。僕は何も言えず、キシも黙ったままだった。
一人で雨を見ているキシの姿が僕の心に映って、次の土曜に会う時まで、ずっと離れなかった。
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