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僕たちは恋をしたのだろうか

1 昼から早めに戻ったら、岬さんが席にいた。机にお弁当箱の小さな包みがあった。 「今日、お弁当だったんですね」 と声をかけると、彼女は椅子ごと僕の方を向いて、 「上野さん、先週はありがとうございました。ご挨拶遅くなりました」 と、座ったまま深くお辞儀をした。慌てて頭を下げてから、デスクの隅に置いておいた紙袋を渡した。 「こちらこそお世話になりました。これ、以前にお好きだとおっしゃってたので」 土曜の朝は晴れて、英司はまた帰りにパン屋に寄って、マドレーヌを買ってくれた。 「あっ、あのマドレーヌ」 岬さんは中を覗いて、嬉しそうな声をあげた。 「でもこれ全部?」 「はい、岬さんに」 「まあ、ありがとうございます、どうしよう、今日中に全部食べないようにしなきゃ」 「まだお昼ですから、今日中に余裕でいけますよ」 岬さんは微笑んだ。 「木曜はどうでしたか?」 「いろいろ初めてで、面白かったです」 「そう」 背後の自分のデスクに紙袋を置いてから、彼女はもう一度僕を見た。 「帰り際、ご挨拶しようと思ったの。私、金曜有休でしたし」 「あ、はい」 「あなた、ふと帰られたので」 「申し訳ありません。少し急いでました」 「いいんですけど、あの、藤尾さんと以前からお友達?」 もし、誰かに見られていたら、こう言おうと考えていた通り、 「顔見知り程度です。お話ししたのはほとんど初めてでした」 と答えた。 岬さんは少し首を傾けて、ふむ、と無言で頷き、それ以上何も聞かなかった。 2 次の土曜日も、朝は晴れた。 前の日に、行きたいところがなければ付き合って、とキシが提案してきたのは、スカイツリーだった。 「おっさん二人でかよ」 僕が電話口で呆れると、キシは、 -おっさんとか言うな。 と笑っていた。 -馬鹿は高いとこに登りたがるって昔から決まってんだよ。 「ふん」 -行ったことある? 「ないです」 -じゃ、行きましょう。 その後、キシは、 -この間、ごめんね。 と言った。 「なにが?」 -会った時のこと。アナタがどう思ったかはわからないけど、俺は反省した。 「まあ。謝られてもね」 -うーん。明日話す。 「そうだ、傘返す?」 -あー絶対持ってくるなよ、歩くんだから。 「歩くって」 -晴れそうだから、浅草で待ち合わせよう。浅草寺見てから歩いて行こう。 地下鉄の改札で待ち合わせたキシは、この間と同じジャケットを着ていた。その裾の辺りを掴んだ感触が手によみがえった。 「土曜だから、こんなに人がいる?」 地上に出て、キシが言う。 「週末なのと、まあ人気があるんじゃない?もう夏休みの人もいるかな」 昼間にキシと並んで外を歩くのは、ほとんど初めてだ。 雷門の周辺で皆が写真を撮ろうとするから歩くのが大変だったが、キシも僕もスマホは出さずに、黙々と歩いて門をくぐった。 「外国の人が多いなあ」 僕が呟くと、 「昔から多かったけど、こんなに混んでたかな。浅草、ひっさしぶりに来た」 とキシが言う。僕は彼の横顔を見上げた。 「キシさん、京都にも行ってたよね」 「ん、仕事のついでに」 キシは穏やかな顔で僕を見下ろした。背が高いせいもあるけど、いつも周囲と全く無関係に、どこかのんびりしたような落ち着いた様子に見える。 僕は目を離せなくなり、まるで彼が磁力か引力のような、物理的な力を持っているように感じられて、心の中で苦笑した。 彼のことが好きだから、こんなにひかれていつも見ていたいんだと昔は思っていたけれど、この磁石のような存在感はそれこそキシの特徴で、だから会社でもあんなに人気があったのだろう。 「向こうになかったから、日本ぽいとこに行きたいの?お寺とか」 「まあそれはある。上野くんは、神社仏閣に興味ないですか」 「考えたことない」 「休みの日とか、何してる?」 今さら、と思い、キシが揃えた指で眼鏡の位置を直すのを見ていた。 「ん、なに。俺、何か変なこと言った?」 「そうじゃないけど」 「今さらそんなこと聞くのか、って?」 「それ」 両側に店が立ち並んだ通りは、たくさんの人が同じ方向に歩いていて、キシと僕の腕がぶつかった。キシは僕の腕に軽く手を添えて、自分の方に引っ張った。どきっとして、頬に血がのぼった。 キシはすぐ手を離したが、僕を見て、おや、という顔をしたので、赤くなったのを見られたと思った。 もう一つ門をくぐると、広い空間だった。 「ちょっと混んでるけど、お参りしていいですか」 キシは、人だかりのしているお堂を指差した。学生時代に付き合いで初詣に来たことがあるくらいで、お参りするという発想自体なかったが、頷いた。 広い階段を上りながら、キシは濃い茶色の革財布を出した。 「五円玉、持ってる?」 「なんで?」 「お賽銭。あ、二枚あった」 手のひらに五円玉硬貨を乗せられた。 彼はお堂の手前の賽銭箱を通り過ぎて、人で混み合う屋内に入っていく。僕もついていったが、奥の大きな賽銭箱にたどり着くまで、人混みの中で順番を待ちながら、 「外にもあったけど」 と小声で聞いた。 「少しでも神さまに近い方がいいでしょ」 「神さま?」 「いや、観音様だな、確か」 キシが賽銭箱に五円玉を投げて、両手を合わせて目を閉じるのを横目で見て、同じようにした。 まぶたの裏の暗闇を見つめて、何を願うか、祈るべきなのか、思いつけないまま気が急いて目を開けた。キシはまだ手を合わせていた。 「長かったけど、何お願いした?」 「テキトーに、いろいろ」 五重塔の近くを通り、二人で何となく塔を見上げながら、 「そうだ、上野くん。走ってるんだって?」 とキシが言った。 「あれ、なんで?」 「こないだ、安田と話した」 「あ、そう。まあ、でもあいつにそんな話してないけど」 「今度、同期会やろうってなって、皆さんの近況を聞いた時に言ってた」 「ふうん。安田、シドニー行った時の写真見せに来たことある」 キシは頷いた。 「二年くらい前だろ。メールしろって上野に言っといたって連絡きた。でもアナタは連絡してこないだろうなと」 僕は胸の前で腕組みをして、力を込めた。 「寒い?」 とキシが聞く。 「ううん」 胸がざわざわして落ち着かない。実際は陽射しが暖かい日で、さっきから厚着しすぎたと思っていた。 3 来た道から一本ずれた細い道を、元の方向に戻ることにした。 「ランニングの会みたいのに入ったって聞いたんだよ」 「そっちからの情報か」 サークルに入ったのではなく、試しに練習に参加しただけだと話した。 「ついこないだだぜ、あいつどこから聞いたんだろ」 「昔から走ってたっけ?」 「最近。一年半くらい前から」 「へえ。きっかけは?」 英司が走っていて、彼と別れたことがきっかけだったが、会社で質問された時と同じように、 「運動不足解消しようと思って」 と答えた。 「道具が要らなくて始めやすかった。キシさんは?何かスポーツしてる?」 「俺もたまに走るよ。あと自転車乗るくらいかな。向こうに置いてきて、まだ買ってない」 カップルや若い女の子のグループが食べ物屋の前にいるのを眺めながら、キシが何か言おうとしたが、それより前に、 「キシさん、向こうで好きな人できた?」 と僕は聞いた。 「というか、どうして僕とこんなとこ来てんの」 キシは、あはは、と笑い声をあげた。 「こんなとこ、かよ」 僕は腕組みを解いて、ため息をついた。 大きな道に近づくにつれ、また人が増えてきて、しばらく何も話さずに混み合う中を進んだ。ようやく広い通りに出ると、キシは、 「さて、歩こうぜ、スカイツリー目指して」 と、上から半分ほど見えているスカイツリーを指差した。 「展望台のチケット、取ったんだよ。まだ時間あるから、スカイツリーの近くまで行ったら鰻食べない?」 「うなぎ?それは、まあいいけど、チケットって本気で」 「本気で登りたいんだよ、俺は」 雷門の前を横切り、また人が多い歩道を並んで歩き始めた時に、キシは一瞬だけ合図のように僕の手を握った。僕は狼狽えて、キシが離した手を慌ててポケットに入れた。 「今さらだけど、俺の気持ちを言うと、ね」 「…」 「ずっといろいろ考えて、ずっと後悔してた。向こうで二人付き合った人いるけど、長続きはしなかったよ」 キシが僕について話す時、僕はいつもちょっとおかしくなる。体の奥で熱が弾けて、一瞬目を閉じた。不安に飲み込まれそうで、また腕組みをする。気持ちと無関係に、引力が働くのが腹立たしかった。 「今言う?」 僕が呟くと、キシは困ったように笑った。 「いつ言やいいんだよ、お前が質問したんだろ」 「後悔してたって何を」 もっと聞きたくて、小声で尋ねた。 川沿いの信号で立ち止まったら、スカイツリーはさっきよりかなり大きく見えた。 「死んだ弟の話、しただろう。憶えてる?」 ひびが入った窓のように、声に悲しみが滲んで聞こえた。それに気づいてはいけなかった気がして、 「好きな人ね」 とすぐに答えた。 「キシさんの好きな人」 キシは少し黙っていた。その沈黙に乗じてあの光の粒が現れるのを警戒し、僕は大きく息を吸い込んだ。 「二十三歳の時に、車の事故で突然死んで、俺は日本にいたから、死んだやつを見てない。また会えると思ってたら、いなくなった」 僕の妄想の中の彼は、十代の少年の姿だったが、実際は二十三歳まで生きていたのだ。 「そうだったんだ」 「うん」 信号が変わって、僕たちは横断歩道をまっすぐ進んだ。 「その後、なかなか落ち込んでね。まあ、女の子と少しだけ付き合ったりして。いろいろ混乱してた」 「ん」 「で、上野は…」 珍しく言いよどんで、キシは口元に片手を持っていった。彼がどう言おうか迷っていることに妙な満足感を覚えた。 大きな橋を渡る。屋形船やレジャーボートが行き交う川面が光り輝いていた。たくさんの人が橋の途中で立ち止まって、写真を撮っている。半分渡ったあたりで、僕たちも何となく立ち止まり、並んで川を眺めた。 水には光が反射するから、いつも吸い込まれるようにそれを見る。光は目に映った途端に失われて、確かに見たと思えないうちに揺らめいて形を変える。僕はそれを追い続け、目に映し続ける。 「正直に言っていい?」 キシがようやく口を開いた。 「うん」 「俺はわりかし、意気地無しなんだよ」 キシは眼鏡の奥から僕を見すえた。僕にとっては、太陽の光の下で見るのが後ろめたいような目付きだった。 「お前、他にも会ってる人がいたろ。あと、夜中に泣いてただろう」 「…」 「どうしてなのかわかんないし、何も出来ないしね。俺に何も話さなかったし」 「そんなこと」 自分が何を言いたいのかわからないまま、口を挟んだ。キシは一瞬間を置いて、続けた。 「無力感もあったけど、離れられなくなってから、お前が消えるのがいちばん怖かった。だから、なかったことにした。そのことを後悔してた」 言い終わると、キシは息を吐いてちょっと口元で笑い、ゆっくり歩き出した。僕はネイビーのジャケットの背中を見ながら、ついて行った。 「一緒に出かけるの、初めてだね」 橋を渡りきる頃、キシが振り向いて言う。 「そうだね」 言わなくてはいけないことがある気がしたけど、まだ言葉にならなかった。 4 展望台のガラス窓の近くで、足元に近い地上を見下ろすと、腰が抜けそうな感じになる。どんなに見つづけても何度でもその感じがやってくるのが面白くて、ゆっくり歩いて回りながら楽しんでいると、 「下ばっかり見るんだな」 と言われてしまった。 「足がすくむっていうの?変な感じで面白いよ」 「上野くん、もしかして高い所怖くない?」 「どうだろう。ぞくぞくするけど、別に怖くはないかも」 「へー」 キシは間の抜けた声を出した。 「俺、そのぞくぞくが、恐怖に直結してるけどね」 「でも、床が抜けるわけじゃないじゃん?」 「おお、床抜けるとか言うなよ」 キシは、煙ったような空に浮かぶ富士山のシルエットを長い間眺めていた。少し離れて、その横顔を時々盗み見る。 唇から顎へ、そのあと首に続くラインに顔を埋めて唇で辿るところを想像しながら。 「もっと大きく見えると思ったな」 キシは僕の視線に気づいて、そう言った。 「空気がきれいな時は、多分もっとちゃんと見えるよ」 「じゃ、冬とかにまた登ろうか」 キシは笑顔で、もう一度遠くに目をやった。 「怖いんじゃないの?」 「高い場所が怖いのは人間の本能ですよ」 キシは呟いた。 「アナタがちょっと変わってる」 「そう」 「この上の展望台も、行ってみる?」 さらに高い展望台へ行くためのチケット売り場があって、どうしようか、と言ったままだった。 「キシさん、今日、まだ時間がある?」 僕はさっきから口の中で転がしていた質問をした。 「時間あるなら、うちに来る?」 「いいの?」 キシが嬉しそうに笑った。胸が痛くなった。 「うちに来るって言っただけで、なんかしていいとは言ってない」 と僕は付け加える。自分で自分に言い訳するために用意していた言葉だ。 キシはその場では何も言わなかった。帰りの順路をたどって、一瞬周りに人がいなくなった時に、 「したいくせに」 と突然言った。 「うぬぼれんなよ」 反射的に僕が言い返すと、心外だという顔をした。 「うぬぼれてはいない」 「ふん」 「単純に喜んでるんだけど」 電車に乗っている時間より、駅から家まで歩く時間の方が長かった。改札を出た時に、すげー遠いから、と予告して歩き出し、二人とも黙ったままだった。キシが、 「確かに、すげー遠い」 と言った時には、うちの近くまで来ていた。 「ごめん。あと三分で着く」 住宅街が続き、夕方に差し掛かる前の空は雲に覆われていたが、まだ明るかった。 キシが唐突に、 「ごめんといえば、こないだごめん」 と言った。 「こないだ」 「二週間前。勝手なこと言ったね」 「キシさんは、なんもわかってないな」 笑おうとしたがうまくいかないので、顔を伏せた。 「あの後、どうしていいかわからなかった。昔と同じじゃん、突然あーいうことされたら」 「ごめん」 「だから、謝られても。もう顔も見たくないと思っても、僕にはどうしようもないんだから。会いたくて」 支離滅裂だと思いながら感情が高ぶり、声がかすれた。 「あのさ。まさか、僕が日本で待ってると思ってたの?」 「…もちろん思ってない」 目を上げると、キシは真剣な顔だった。 「ああそう。でも、待ってろって言われたら、待ってたかもしれない」 「…」 「あなたは、僕に何でもさせられるよ」 キシが何も言わないうちに、コンビニの前に差し掛かって、僕は足を止めた。 「あー。あの、飲み物とか何もないので、買ってく」 「ここで?」 「ここ、うちの冷蔵庫代わり」 キシは面白そうに笑い声を立てた。 「じゃあ、家、もう近い?」 「隣の隣のマンション」 キシは店に入る前に、少し後ずさりして、二軒先を見ていた。 「実家とかじゃないよね?」 「違う」 「会社から遠いだろ」 「電車乗っちゃえば、そんなでもない」 「何で住もうと思ったの」 買い物かごを取ると、キシが手を出して何故か持ってくれた。 「家賃が安い。あと、この辺はうちの会社の人とかあんま住んでない」 「ああ」 「気が楽」 ペットボトルの棚の前で、キシの提げたかごに飲み物を入れながら、ふと、 「藤尾さんって覚えてる?知ってるかな、昔は第三にいた」 と聞いた。 「藤尾?覚えてるよ、やな奴だろ」 キシは顔をしかめた。 「そう、やな奴。知り合いとか避けてわざわざここに住んでるのに、前に藤尾さんとその手の店で会っちゃってさ」 キシは棚から僕に視線を移して、 「ああ?」 と声をあげた。 「で、先週誘われてランニング行った時、藤尾さんがメンバーにいてさ」 「お前なあ…」 「まあ別にいいんだけど。やっぱり嫌な人だったから、それで、あのサークルは無しだなって話」 キシは眼鏡の奥からじっと僕を見た。例の重い光が沈んできらめく目で。 部屋に上がって、キシはリビングを見回していた。 「座って」 僕はソファーを指差して、隣の寝室に行き、窓を細く開けた。部屋は今朝掃除して、シーツとカバー類を全部取り替えてあった。 布団をめくって、出かける前にセットした乾燥機を片付ける。コンセントを抜いてコードを巻き取り、クローゼットに入れた。 扉を閉めて振り向くと、キシがドアの所に立っていた。 「布団乾燥機」 質問される前に言うと、キシは、へえ、という顔で、無言のままだった。僕はドアの方に歩いて行き、キシが退く気配もないので、口元に軽くキスをした。首に両手を回して抱きついた僕の背中を抱いて、 「上野くん」 とキシは低い声で呼んだ。 「今度こそ先に聞こうと思ってたのに」 「ん」 「キスしていいですかって」 腕をゆるめて顔を見る。キシは僕を見つめていた。 その目は、何度見ても確かに見たと思えない、夢のようなものだった。どれだけその目を見ても、僕はもう十分見た、とは言えないだろう。ずっと見ていたいとしか。 「…こないだも質問したじゃん。答え聞く気ないだろ」 僕が言うと、キシは僕を見たまま、 「上野くん、相変わらずだなあ」 と呟いた。 「何だよ」 「かわいい」 彼は、腕を解いて僕の頬を両手で包み込んだ。 「キスしていいですか?」 今になって心臓が変なリズムで速く打ち始めて、多分顔が赤くなった。口を開いたものの、声が出なかった。 「キスしていい?」 キシはもう一度優しく聞き直して、僕がうなずくとそっと抱き寄せた。シャツに顔を埋めて、僕は震えながら目を閉じた。 「何でもしていいから」 と言葉が口から零れた。 「何でもしていいから。キシさん、今日ずっといてくれる?今日だけでいいから」 「上野くん」 「今日は一緒にいて。帰らないで。どこにも行かないで」 もう二度とどこにも行かないで。ずっと近くにいて。たまに会ってくれるだけでいいから、僕を好きじゃなくてもいいから、キシさんがいてくれるなら、何でもするから。 心の中で言葉は続いていて、口に出せなかった。 「どこにも行かない。ずっといる」 キシが僕の頭を撫でながら言った。 「大丈夫。ずっといるよ。どこにも行かないから」 彼は静かに繰り返した。 「いま帰れって言われても、多分一人で駅に戻れないし」 「はは」 顎に手をかけてキシが顔を見ようとするのを、僕は首を振ってやり過ごし、俯いたままでいた。 何か言うために息を吸い込み、言わないままそっと息を吐いた彼の胸にもたれて、時間が止まればいいと思った。どこにも行かないでと言ってしまった時に溢れ出した寂しさをもう誤魔化せなくなりそうで、どうしていいかわからなかった。 5 キシは眼鏡をたたまず、投げ出すように置く。ただし、する前に眼鏡を外す時だけ。彼がいない間、眼鏡の置き方のことは一度も思い出さなかったけど、突然記憶が蘇った。 窓辺にいたキシが歩いてきて、眼鏡を投げ出すようにサイドテーブルに置くと、膝をついてベッドに上がり、ヘッドボードを背に座った僕のこめかみの辺りを触って、 「髪、濡れてる」 と呟いた。 その後、体を触りあっている間も、僕をうつぶせにして足から舐め始めた時も、口をきかなかった。 腰までたどりつくと、下着の上から指と掌で撫で回し、僕が焦れて体を浮かせると、片方の膝を僕の脚の間に入れて跨り、仰向けにならせない。 太ももの裏側に、下着ごしに固くなっているものが当たり、キシは喉の奥で笑い声を立てて強く押し付けてくる。 無理に振り向くと、眼鏡をかけない顔を長い間見ていなかったせいで、一瞬怖くなる。欲望の濃い影で煙った目の色を見たか見ないかのうちに、Tシャツの上から指先で背骨をなぞられて、体がのけぞった。キシは指先をいったん離して、また初めからその動きを繰り返した。 左手を後ろに伸ばして止めようとすると、キシは手首を掴んでシーツの上に固定してしまう。もう片方の手でTシャツがめくり上げられ、露出した肌に唇が音を立てて何度も吸い付き、隅々まで舌と歯で愛撫されると、声を抑えようとしてもだんだん力が入らなくなる。背中が湿っていくにつれ、他の場所を舐めて欲しくてたまらなくなり、僕は体を捩らせ、犬のように喘いだ。 キシは体を起こし、僕のTシャツを脱がせようとして、頭を抜いて肘の辺りで引っかかったのを押さえつけ、覆いかぶさって後ろから右耳をそっと噛んだ。 「ああっ!はあ、だめ…!」 「やっとだめって言ったね」 キシは呟いて、耳から首筋を舌で辿って何度か往復した。 「ねえ、もうだめ」 と僕が泣き声を出すと、耳元で、 「もっとして欲しいんだ」 と言った。 「ちがう…」 目を開けられないまま、首を振った。 「気持ちいい時に、だめとかいやとか言うから」 「そんなことない」 「そんなことあるだろ」 興奮するスイッチが誤作動しただけで、背中なんかそれほど気持ちいいわけない、と説明したかったが、もちろん言葉は出てこない。 キシは僕の髪を掴んで枕に埋めた顔の向きを変え、口の中に舌を突っ込んで舐め回した後、唾液が絡まって口の端から顎を伝うのを、体を起こしてベッドサイドのティッシュを取って拭いてくれた。 腕からTシャツが抜き取られ、仰向けにされ、両手で下着を引き下ろされた。 脚を片方ずつ脱いでいる間に、キシはTシャツを脱いで、床に投げ落とした。 「下も脱げよ」 僕は、膝立ちになっている彼の太ももを足の裏で撫でた。 「脱いだら、こっち来て」 高くした枕に仰向けになって、キシのを口でした。キシはヘッドボードと壁に手をついて、僕を見下ろしながら喉の奥に突き入れてくるが、手でそれを止めたり、好きにさせたりしながら、なるべく時間を引き延ばした。 目をつぶって頭を動かしていると、荒い呼吸に時々呻き声が混ざっているのが興奮を加速させ、片手で自分を触りながら、どうしても腰が動いてしまう。 キシは、僕の口から抜き取ったもので僕の頬と唇をなぶり、僕は舌を出して押し付けられた先の方から溢れているのを舐め、また口の中に入れて強く吸った。 口を開けて喘ぎながら見下ろしているキシがまた根元まで押し込んでくるのを喉の奥に当て、唇で締め上げて頭を動かしていると、 「ああ、やばい」 と言って彼は腰を引いた。 仰向けになったキシの上になって抱き合い、キスをしながら目を開ける。彼も目を開けていた。ずっと昔に同じような角度で顔を見たことを思い出した。確かキシは眼鏡をかけたままで、まだ取らないでと頼んだ。眼鏡を外してセックスしたら終わってしまうと思っていたから。引き延ばしたいのは今も同じだけど。 体を起こして、キシの鎖骨から胸の辺りを片手で撫でながら自分のを触る。キシは膝を立てて、僕がしているのを覗き込んだ。 「あー、すっごい」 「いきそう…」 「俺もいきそうなんだけど」 キシは両手で僕の腰を引き寄せた。 「一回いっていい?あとでこっちもするから」 指で弄られると、体がびくっと痙攣してしまう。 「ああ、こんなんなってる」 「いや…あ、だめ」 キシが指で濡れたところを刺激しながら、 「こんなにいやらしかったっけ、ここ」 と息を弾ませた。 「入れてあげたいけど、ごめんね」 キシは僕の腰を片手で掴んで支え、もう片方の手で僕のを強く掴んで、動かし始めた。 「俺が我慢できない」 「だめ、そんなの、すぐいく」 手の動きに合わせて腰を揺らすと、すぐに最後までいってしまいそうだった。 「一緒にしていい?」 キシは、自分のと僕のを一緒に手で掴んだ。 「あーあ、ぬるぬる」 「ああ、すごい、だめ、すごい気持ちいい」 キシの手が二本を擦り合わせて、根元から先の方までゆっくりと往復して動かす様子を見ると、体が燃えるように熱くなって、聞いたことのない声が自分の喉から漏れた。 「上野くん、こっち見て」 キシは僕の顔を眺めながら手の動きを早めて、先の方を強く擦った。 「あ、はあ、あ、いく」 「いける?いっていいよ」 僕は堪えきれず、顔を伏せた。 「ああ、いっ…ちゃう、いく!あ、んん」 キシがいくまで、体を支えておくだけで精一杯だった。震えが止まらないうちに、キシが声を詰まらせ、腰を突き上げた。 白いものがキシの体の上で飛び散って僕のと混ざり合い、キシは手を止めて顎をのけぞらせ、僕は彼の胸に手を置いて体が波打つのを全身で感じた。 「全然もたなかった…」 キシが苦しそうに呟き、二人とも息が切れて、しばらくお互いの腕を掴んだまま見つめ合っていた。そのうち、キシが枕から顔を上げて、自分の体に飛び散ったのを人差し指を使って拭い、僕は口を開けて、キシが舌に塗りつけるのを舐め取ってから指を咥えた。キシの目を見ながらしゃぶっていると、 「これ好き?」 とキシが息を切らして聞いた。僕は指を口から押し出した。 「知ってんだろ」 キシは笑って、僕は彼に抱きついた。まだ離れたくなかった。 6 キシは後からシャワーを浴びて、寝室に戻ってきた。半分意識がなくて、ドアの音で目を開けたと思ったら、キシがもうベッドに座っている。 「水飲んでいい?」 「開いてない方、キシさんのだよ」 次に目を開けた時は、同じ枕に頭を乗せたキシが僕を見ていた。 「電気つけたよ」 枕元のスタンドの灯りで目が覚めたのだ。 「あーうそ。寝てた」 キシが腕を頭の下に入れてきて、腕枕をしてくれるので、ぼんやりしたまま体をくっつけた。 Tシャツを着た胸に手を置くと、 「服を借りました」 とキシが言う。 「ん…今何時?」 「だいたい六時くらい」 部屋は暗く、窓のカーテンが閉められている。 「キシさん寝た?」 「ちょっとだけ。結構歩いたから疲れてたという」 キシは胸にもたれている僕の頬に手を伸ばしてちょっと触り、 「可愛い顔して寝てた」 と言って笑った。 そんなのいいから、といつもの癖で僕は呟いた。でも、他の人に言われるのとキシに言われるのとでは感じ方が違う。キシには、もっと何か言われたくなる。 雨の音が聞こえた。 「降ってきた?」 「さっき、急にざーっと降り出したよ」 雨の音の中で、ゆっくり上下するキシの胸を手のひらで感じていると、いつの間にかまた目を閉じていた。 「わかる?」 キシが穏やかな声で聞いた。 「何?」 重い目を開ける。僕の手の上に、キシの手が重ねられていた。 「この感じ」 「…心臓?」 「この、感じ」 キシの手が僕の手を包み込む。 「溶け合うみたいな感じ」 キシに触れると、温かさと、時に熱さと、触れたところから痺れるような感覚が伝わってくる。 今もそうだし、昔からそうだった。それを、溶け合う感じと言えば、言えるかもしれない。 「俺、これすごく気持ちいいんだよね」 キシは重ねた手から僕の顔に視線を移した。 「もしかして、上野もこれ感じてるのかなと思って」 「うん」 「感じる?気持ちいい?」 「うん」 胸の上に置いた僕の手に指を絡めて、キシがそっと握り直すと、電気が走る。 「これ、なんか電気が通ったみたいな感じ。痺れるというか。これのこと?」 「俺には、溶け合う感じだけどね。手が、目で見たら二つだけど、目をつぶってたら一つのような気がしない?」 キシが目を閉じるので、僕ももう一度目を閉じた。雨の音だけが聞こえる沈黙の中で、キシの手に自分の手が溶け込んでいく感覚が全身に広がって、体の奥から気持ちよさが滲み出す。 「まあでも、電気ね、なるほどな」 そう言った後で、彼はふふっと笑い声を立てた。 「この感じがするのは、上野に触った時だけだよ」 驚いて目を開けると、キシは僕を見て笑った。 「俺だけに感じるって言ってくれ。嘘でもいいよ」 キシの声は軽やかだったが、その目を見ると胸がいっぱいになった。息を止めて見つめ、そのままでは声が出せず、俯いてやっと、 「どうして嘘でもいいんだよ」 と言った。キシは腕枕をしている手で僕の頭を抱き寄せた。 「それは、お前がそう言ってくれたら、俺だけが好きって意味だから」 「…」 「そうじゃない?他の奴にも同じように感じてたとしても。嘘でもそう言ってくれたら」 キシの静かな声は、彼の体に共鳴して、振動になって僕の皮膚を震わせた。僕は顔を上げた。 「キシさんにしか感じない。嘘じゃない」 涙が溢れた。 「…嘘じゃないけど、別に信じなくてもいい。信じなくていいから、近くにいてくれる?もう遠くに行かないって」 僕は我慢できず、しゃくりあげた。 「どこにも行かないで、キシさん。お願い」 キシが僕を抱きしめて、ごめん、と言うのを、泣きながら聞いた。胸が何かで刺されたように痛くて、セックスの後に泣くなんて最悪だと思いながら、泣きやむことが出来なかった そのうち胸の痛みが少しずつ遠ざかり、雨の音がまた聞こえてきた。キシは僕を抱いたまま、手を伸ばしてティッシュを何枚も取って、そのまま僕の顔の前に押し込んだ。キシが着た古いTシャツが濡れていた。 「上野」 キシが低い声で呼んだ。僕は顔を上げた。 「俺がまたいなくなると思う?」 「…わからない」 「どこにも行かないよ。約束する。でも約束しても信じないだろう?」 キシはもう一度僕を抱きしめて、髪に唇を押し付けた。 「だから、やり直すチャンスをくれって。証明するために」 「証明?」 「どこにも行かないって、ずっと一緒にいたら証明できるだろ」 それからキシは僕の背中を撫でて、 「好きだよ。ずっと好きだった」 と小さな声で言った。 今ここで静かに雨を聞いている時間が永遠に続くなら、僕の寂しさはいつか消えて無くなるだろうか。それともキシの腕に抱かれながら、こうしてずっと寂しさを抱えていくのだろうか。 その答えはわからないけれど、壁にピンで何かを留めるみたいに、寂しさをその瞬間に留めて脱ぎ捨ててしまえたら、どんなに楽だろうか。 泣き疲れてろくに出ない声で、 「キスして」 と囁くと、キシが唇を重ねて、 「好きだよ、上野くん」 ともう一度言った。時間は否応なく流れて、僕は世界の新しい様子に目を開ける。

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