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おやすみ、すごく好きだよ
1
夜中にキシは一人で買い物に行った。他のコンビニはないのかと聞かれたので、駅と逆の方向に五分歩けば別の店があると教えた。鍵かけなくていい、と言うと、そうなの?と言って出て行った。
ドアの閉まる音で、急に不安になる。
サイズの合わない部屋着を着ているし、鞄は置いてあるし、戻ってくるとわかっている。
キシは、自分でどこにも行かないと言ったんだから、絶対どこにも行きはしない。
何故かそう確信している自分が不安になって、ソファーから立ち上がった。
これまで部屋に来たことすらない人なのに、いないのが怖いというのも変な話だ。
深呼吸をして、洗面所に行って歯を磨いた。洗面台に白いタオルが敷かれ、その上に使い捨ての青い歯ブラシが置いてあった。
使い捨ての歯ブラシもタオルも着替えも、引き出し付きの戸棚にある。男を部屋に入れて、全部洗面所の棚、と一言で済ませるためだった。キシには言いそびれていたが。
二十分ほどしてキシは戻った。冷蔵庫に買った物を入れるのを、ソファーから振り向いて見ていた。
「たくさん買ったね」
「だって、何もないからさ」
キシは冷蔵庫のドアを閉めて、流し台にバナナを置いてから、
「これ、あっちの引き出しに入れといていい?」
とコンドームの箱を見せた。
「え」
「在庫を入れてるとこ。ベッドの横の」
キシは箱を持ち替えて、寝室に行きかけ、
「入れない方がいい?」
と立ち止まった。
「入れとけば」
僕が寝ている間に、そこらの引き出しを全部開けたらしい。
寝室からすぐに出てきてしばらく台所にいたキシは、そのうちバナナを一本持ってきて、僕の足元の床に座って皮を剥いた。口元に差し出されたバナナを、断るのも面倒で、ひと口齧った。甘くて、飲み込むと喉が痛む。泣いたせいで、声も変だった。
キシは食べ終わって、台所からコップを二つ運んできた。口をつけると冷えた麦茶で、やっぱり喉にしみた。
「ここ住んで何年?」
「三年。四年か」
「その割に、物が少ないな。生活感がないっていうの」
「在庫はあったけどね」
目が合うと、キシは、
「箱だけ見た」
と言った。
「残数は確かめなかったから、念のため買い足した」
「ふうん。元からあったの絶対使わないくせに」
彼は一瞬目を細めて僕を見てから、コップを置いて立ち上がり、僕の横に座った。
「そう思いますか」
「思う、何となく」
と答えているうちに、ソファーに押し倒された。
「キシさん、腹減ったんじゃないの」
「いざとなると、真夜中に食うのは憚られる」
キシは僕の胸に顎を乗せて、
「していい?約束したから」
とこっちを見た。
「後からするってさっき言ってた?」
「うん」
「キシさんは、あれ約束だと思ってんだ」
僕は笑った。
「しなくても、約束破ったとか思わないんだが」
「したい」
キシは僕の肩に手をついて体を起こした。
「お前は?」
僕は彼の頭を引き寄せた。ただキシを近くに感じていたかった。
2
「タオル、引き出しに入ってる、ということは敷く?」
ベッドの脇に立ったキシが聞いた。サイドテーブルの引き出しに、タオルは確かに入れていた。
「引き出し、全部開けたな」
「そんなつもりないけど。結果的にはそうね」
二段目を開けてタオルを出し、キシはそれを僕に放った。仕方なく体を起こしてタオルを広げる。彼はこっちに背を向けてベッドに腰掛け、おもむろに一段目の引き出しを開けた。
「おい、言ってるそばから次々開けんな」
キシは振り向いて、ローションのボトルを枕元に投げた。
「コンビニになかったので。在庫から使うけどいい?」
と言うので、思わず笑ってしまう。さっきのコンドームの箱をテーブルの上に出してから、
「脱いで」
とキシは言い、僕がTシャツを脱ぎかけた手を掴んだ。
「下だよ。脱ぐの」
「あ、うん」
「うつ伏せになる?仰向けがいい?」
うつ伏せに寝転がると、彼は僕の腰を掴んで仰向けにした
「何なんだ」
そのまま彼が片手で眼鏡を外して、サイドテーブルに投げるのを見ていた。その横顔は、夢でみたものを改めて見たような、懐かしいのに不穏な感覚を呼び覚まして、痛みになって体の奥を刺した。
何もかもが好きで、痛みとして感じるしかないほど、激しく心が動いた。
キシの呼吸が乱れて時々声が漏れるのを聞きながら、自分の声が混じって聞こえる度に口を固く閉じようとしてまた声を上げていた。気持ちいい?と聞かれて、目を開けて頷く。
「痛い?」
首を横に振る。涙か汗が散るのが一瞬見えると、彼は動くのをやめて、僕の名前を呼んだ。
「気持ちよすぎ」
「キシさん」
キシは返事の代わりに、口元だけで笑ってみせた。
その目。彼の手が頬に触れる。そっと指先で触れたまま、見下ろしているその目。
泣きたいわけではないのに溢れてくる涙を、止めようとすると喉が震えた。
「なんで、そんな目で見るの」
「そんなって?」
「頭がおかしくなる、そんなふうに見られると」
キシはちょっと体を起こして、さっきのタオルがそのへんに丸まっているのを僕の手に押し込んだ後、両脚を掴んで深く入れてきた。僕はタオルを口に押し当て、キシが奥を突き上げながら時々唇を噛むのを、途中までは見ていた。
やがて僕の手からタオルを取り上げ、覆い被さるように体を重ねた時、
「こっちは、とっくにおかしくなってんだよ、上野くん」
と、キシは弾む息の下から呟いた。
3
次の日の朝、洗面所で引き出しを開けた。大きいサイズの部屋着を出すかどうか。
英司が泊まる時のために買った物だった。
キシが自分で探して着ていたのはサイズが合っていなくて、昨日から頭の隅で考えていたが、実際に服を見ると、手が止まった。
やっぱりやめようと思ったところにキシが入ってきて、タオルの上の歯ブラシを手に取りながら、
「大きいやつ、着ていいの?」
と言った。
鏡の中で目が合った。キシは笑顔だった。
「もし着ていいなら、それ着る」
「じゃ出しとく」
僕は服を引っ張り出し、棚の上に置いた。
「サイズまでいつ見た」
「最初に全部見たよ。というか、明らかにそこだけ別のコーナーになってる」
歯ブラシを口に突っ込んだキシともう一度目が合ったが、何も言わずにリビングに戻った。しばらくしてから、
「ほんとに着ていいの」
と洗面所から声がした
「ああ」
キシが深刻に取るとは思っていなかったが、どうも変な感じだ。
ぼんやりしているうちに、後ろから抱きつかれた。僕を捕まえた腕を(英司が着ていたグレーのスウェットの袖を)掴んだ。
「キシさん」
「うん」
「僕も付き合った人がいてさ」
「これ着てた人?」
殊更明るい声だ。やっぱり間違いだったと思ったものの、この服を出さなければ出さないで、何か言われたに違いない。
「思い出してる?」
「服出さなきゃ良かったと思ってる」
「俺が、着るって言ったからね」
キシは腕に力を込めた。
「好きだった?」
英司は一度だけ、キシをずっと忘れないつもりかと口に出して聞いたことがある。
今キシがしているように、後ろから僕を抱きしめながら。馴染みのない街の寂しい夕暮れを見ながら。
僕は、その時の英司の声を時々頭の中で聞くことがあった。
「かなり前に別れた。もう会わない」
キシは無言のまま、僕の首筋に唇をあてた後、いきなり噛んだ。
振り返る間も無く、そのまま肩に歯と舌があたり、きつく吸われた。声が出そうになるのを我慢していると、やがて唇が離れ、
「上野」
と右耳に囁かれた。火花が散るように、脚の方まで何かが走った。
「お前こそ、何もわかってない」
キシは僕を離さず、同じ場所にもう一度唇を押し付けた。
キスマークを付けたがる奴はたいてい付けるのが下手だが、キシのやり方は確実に跡がつくだろう。そして気持ちよかった。
腕の力が緩んだので、肘で体を押しのけた。
「いてえよ」
向かい合ったキシは、
「痛くしたんだよ」
と言い、僕の頭を抱えるようにして、抱きしめた。何か言おうと息を吸うと、腕に力が入るので、言わなかった。背中に回した手のひらで、キシの首の後ろを撫でながら、目を閉じて温かいその体を感じていると、うっすらと湧き上がる欲情と、それとは別の何かが、さざなみのように広がり、触れ合っているところから彼に伝わるような気がした。
「他の人の話は、キシさんが言い出したんだよ」
「うん」
キシはようやく体を離して、僕の肩のあたりを見てから、指先で円を描くように触れた。首を捻じ曲げたが、見えない場所だった。
「アナタのことをどうこう思うわけじゃない。自分がいろいろ苦しいだけで」
キシは穏やかな声で言いながら、その場所を自分の手で覆った。
4
午後から、二人で散歩に出た。
住宅街を歩いていけば川に出るのをキシが調べて、このへんを走るのと聞いたが、ランニングで川まで行ったことはなかった。
住宅街を抜けるまでに、また長い時間歩いた。昨日も走っていないのが気になって、一応ランニングシューズを履いてきたけど、体がふらふらして、まともに走れる気はしない。
陽射しの強い土手に上がってから、川べりの道を行って、河原に下りる古びたコンクリートの階段に並んで座った。
「キシさん、枕変わると眠れない?」
「何で」
「あんまり眠れてないんじゃない」
「どっちかって言われたら、自分ちじゃないと安眠できないかな」
キシは片手を上にあげて、もう片方の手で肘のあたりを掴んで伸びをした。
「アナタもあんま寝てないってこと?」
僕は、寝たか寝ないかよくわからなかった。キシは、たまに僕の腕や脚を撫でるので、眠れないのだろうと思っていた。
バイブレーションが響いて、キシがポケットに手をやる。
「すまん、ちょっと出る」
スマホの画面を見て立ち上がり、
「もしもし。はい、何?」
と言いながら、彼は足早に階段を下りていった。
河原まで下りた後、一度僕を見上げて笑顔になり、ゆっくり川の方へ歩き出す背中を見ていた。昨晩、かすかな灯りに照らされたキシの横顔を見て、好きでたまらないと思った時の動揺を思い出す。
キシは川沿いより手前で立ち止まり、スマホを耳に当てたまま、下流の方に向いて、少し離れた広場で子供たちが野球をするのを見ているようだった。
時々考え込む顔になり、口元が動き、笑って顔を伏せる様子を、川の濃い青を背景に、僕はいつまででも眺めていられるだろう。
見えない場所に付けられた痣から、まるで水を注ぎ込まれたようにあの振動、彼に触れる時のあの熱さが、体の内側に染み渡っていくのを感じて、僕は震え、脚を固く閉じた。
電話を終えたらしく、スマホを耳元から下ろし、彼はまたこちらに背中を見せて川の方を向いた。
風が急に強く吹いて、草の匂いが運ばれてくる。誰かと寝た後の胸に穴が開いたような虚しさは、甘い気怠さに形を変えて、全身を包んでいた。キシの感触が体のどこかしこに残っているのをぼんやり数えた。キシは、僕が僕だと思っている自分を形のないものにしてしまう。
気配で顔を上げると、キシは横に座っていた。
「眠いんだな」
「電話、大丈夫?」
「兄貴から、明日の打ち合わせのことで。結局、今は兄の仕事を手伝ってる」
お兄さんは、元同僚や友達と共同で会計事務所を経営しているという。
「すげ。そしたら、ずっとそこで働く?」
「いや、とりあえず。腰掛け。俺んち色々あるんだけどね、とにかく自営業の家系なんだよ」
珍しく、うんざりした口調だった。
「父方も母方も両方。あ、父親が再婚した人も、か。それで親戚が山ほどいて、見渡す限り勤め人が見当たらない」
「はあ」
「就職決まった時、いつ辞めるんだってあっちこっちから聞いてくるのには、参ったね」
キシは風に吹かれる髪の毛を両手で押さえて、整えた。
「ふうん。キシさんは会社継ぐために修行してる、みたいなイメージだった」
「向こう行く前はそんな風に言ってたけど、今となってはあんまり。挫折したというかねえ」
そう言いながら、キシは笑っていた。
「俺自身は、勤めたら勤めたで、楽しいこと多かったんだよ。アナタに会えたしね」
「そうか」
さりげなく聞こえるように、相槌を打った。
「そうか、じゃないだろ」
川向こうの土手に並ぶ木々が緑の枝を揺らすのを見て、沈黙が続くうちに、ふと思いついた。
「うちの会社、今、再雇用促進とかやってるよ。キシさんなら、すぐ戻れるんじゃない」
「えっ?」
「え、そんな驚く?」
彼は面白そうに僕を眺めた。
「お前とまた同じ会社で働くの?」
「あっそっか。そこは考えてなかった」
あの頃の出来事が、いくつか同時に思い出された。
「でも、自営業の家系だからって、自営業やる必要ないよね」
キシは可笑しそうに笑い声を立てた。
「そりゃそうだな」
「なんか、プレッシャーがあるのはわかるんだが。それよりキシさん本当に営業向いてたから、いい会社に入ればいいのかなと思って」
キシは、笑顔のまま何も言わなかった。僕はまた木々を眺めた。太陽が傾いたせいで、さっきより水面が輝いて目に映った。
「上野くん、家族は?お姉さんがいるんだっけ」
夢をみたかということ以外、キシが何も質問しないことに、昔の僕は傷つきながら、それを自覚することはなかった。でもあの頃、今みたいに聞かれても、夢の質問と同じで、黙り込むことしかできなかっただろう。
「姉は、うん。もう今はどこにいるか知らないけど、いた」
キシがこっちを向くのがわかった。川面は白い光を浮かべて、僕たちの前を右から左へ流れていた。
「僕の父親が暴力ふるう人で、ちょっと事件みたいになって、僕が子供の頃に母親と姉と僕は逃げた。夜逃げみたいに。母親はかなり後で再婚したけど、僕の父親がおかしかったんで、見つからないようにずっと気をつけている」
キシの方を見かえると、目が合った。
「それで、僕はSNSとかやらない。何かの拍子で居場所がバレたら、僕はいいとして、母親とか殺されるから」
ネットを避ける理由を話したつもりだったが、父親に殺されるというのは、口にするとあまりに非現実的で、すぐに後悔した。人に向かってこの話をしたのは初めてだった。
「と、いうことです。ごめん、家族のことはそんな感じ」
慌ててそう付け加え、両腕を高くあげて伸びをした。肩の力を抜いて右隣のキシを見ると、まるでどこか痛むような顔だった。何か言おうと考えているうちに、彼は僕を見つめ、
「お前も暴力ふるわれてたのか」
と聞いた。
「うん」
「殴られた?」
「殴られたし、蹴られた。首絞められたり、窓から投げられたり」
キシは口の中で、窓から?と言うと、自分の膝に両手を置いた。
「部屋の窓から、外に。あと、風呂に沈められたり、縛られたり。寝てる時にはさみで髪をこう、ザギザギって切られたりね」
僕が、じゃんけんのチョキの形で自分の髪を挟んでみせると、
「なんでそんなことを」
とキシは呟いた。
「さあ」
止まらなくなって言ってしまったが、言っていないことはたくさんあった。例えば、髪を切られたのは、僕が女っぽかったからだ。
キシと顔を見合わせ、僕は仕方なく笑った。
「気分悪い話でごめん、やめときゃよかった。人に話したことなくて」
「お母さんとは、連絡取ってるの」
「いや。金だけ振り込んでる。この話、やめよう」
僕は階段から勢いをつけて立ち上がった。
「キシさん、そろそろ帰らないといけない?駅まで送る」
「あ、それだけど」
ゆっくり立ち上がったキシは、片手で眼鏡の位置を直した。
「今日は、俺んち来ない?明日、うちから会社行きなよ。近いし」
驚いて黙っていると、
「アナタがよければ」
と言いながら、キシは手を伸ばして僕の顔に触れた。周囲に人影は無かったが、心臓が跳ね上がった。
「ていうか、今離れられる?俺、まだ一緒にいたいんだけど」
キシは、明るい顔つきの人で、その目の表情は様々に変化するものの、基本的に愉快そうに世界に向かって開かれていた。お前のことならよく知っている、とでも言いたげな、獰猛な目つきをすることがあって、僕のことなど何も知らないうちから、キシはたまにその目で僕を見たと思う。彼は無自覚だろうけど、その誘惑に抵抗することはまるで出来ず、否応無しに引きつけられた。
今見ている彼の目は憂いを帯びて、深い青に染まっていた。晴れ渡った空を背景にしているからだろう。初めて見るその目に、僕はやっぱり吸い寄せられた。
「行っていいなら。そうする」
「そうしなさい」
キシは笑い、僕の頭をぽんと叩いた。
5
月曜日の朝、シャワーを浴びて寝室に戻った時、キシは眠っていた。枕に半分埋まって寝息を立てるのを見ていると、彼はふと両目を開けた。
「あ。おはよう、起こしてしまった」
「おはよ。まだ早くない?」
くぐもった声で呟きながらこっちに手を伸ばすのでベッドに腰掛けて、髪を拭こうとした途端、引き倒された。
「あー待って」
「お前、髪びしょびしょじゃん」
キシは嫌そうに言った後で、妙な顔をした。
「ドライヤー、前から使わなかったっけ」
「うん。どうかした?」
「何でもない」
キシはゆっくり仰向けになり、手を口元に持っていって、何か考える様子だった。僕は体を起こして髪を拭いたが、キシは怖い目で天井を睨んでいた。気になって覗き込むと、彼は表情を和らげて、
「いいから拭け」
と笑った。タオルをサイドテーブルに置いたら、また後ろから引っ張られた。
「なんだよ、もう」
「キスする」
もう一度覗き込んで、唇を軽く合わせた。キシが片手で頭を押さえるので、僕は舌を出して彼の口の中を探り、彼が舌で応えるのを待って唇を離した。
半分開いている口に中指を突っ込むと、キシは結構強く噛んだ。反射的に抜こうとしたが、キシは僕の手を掴み、そのまま指を舐め回して、舌で口の中に押し当てた。濡れた粘膜が熱く、きつく締め付けてくる感覚で、僕はうっとりしながら彼の唇の端に唇を押し付けた。キシは僕の指を解放して、舌を絡めてきた。
「お前さあ」
僕の体をベッドの中に引き寄せながら、キシが囁く。
「早朝からエロいことすんなよ」
「普通じゃん」
彼は後ろから僕を抱えて、頸に唇を這わせた。
「電車乗り慣れないから、早めに出る」
「会社行かなきゃだめ?」
「月曜だし。スーツ着てきたし」
手が前に回って、Tシャツの裾から滑り込んだ。腹から胸へ撫で上げられ、敏感なところを指で探られて、ちょっと息を飲んだ。
「ここ好きだね」
「別に」
「昨日、すごい感じてなかった?気のせい?」
「気のせい」
キシはしばらく続けていて、ふと手を僕の首に掛けて、角度を変えた。
「やっぱり、キスマークとか付けても、すぐ消えるんだ」
と低い声が耳元に響いた。
「そう?」
「アナタは、そういう悪魔的なとこがあんだよ」
振り向くと、キシは真面目な顔をしていた。
「ちょっと掴んだら指の跡がついて、した後、あちこち真っ赤になって、でも朝になったら消えてる」
「なんの話?」
「アナタの話。いじめたくなる理由」
キシは体勢を変えて、僕の上になった。言葉遊びなのか本気で言っているのかわからなかったが、キシは僕をしばらく黙って見下ろしてから、体重をかけて抱きしめた。寝起きの体はいつもより重く、熱かった。
「キシさん。キシさんがいれば、僕は他に何も要らない」
「上野くん」
「気が済むなら、傷でも何でも付けたら?」
キシが言ったのと似たようなことを、違う言い方で、何年も前に誰かが言ったことがあったのだ。
僕はその男に何の気持ちもなかったのに、傷でも何でも、と今と同じことを言って、背中にみみず腫れを何本も作った。ひどい痛みでシャワーのお湯がかけられず後悔したが、すぐに治って、傷痕は残らなかった。
キシは顔を上げて、頬を優しく撫でた。いつものように。
「ごめん。傷なんか付けない」
「うん」
「ただ、お前が欲しいね、すごく。自分でもどうかしたかと思うくらい」
キシの手が触れている頬に血が上るのがわかり、僕は思わず笑顔になったが、キシは笑わなかった。
6
結局、会社は休んでしまった。今年に入って一日も休んでいないことを上から注意されたばかりだし、キシの打ち合わせは夕方だというので、部屋に篭っていた。
キシと長い時間一緒にいたのはこの時が初めてで、三日の間に僕は少しずつ彼がそばにいることに馴染んだ。生まれて初めて吸った空気の一部が肺の底に死ぬまで残っているように、この週末の三日間を僕はずっと憶えていた。
三日間の終わりに、夢の話がある。
彼が打ち合わせに出かける時間になって、一緒に部屋を出る前に、玄関で靴を履いてから顔を見合わせた。
「お邪魔しました」
「また来て。時間遅くてもよければ、明日の夜とか会う?」
「考える」
キシは軽く音を立てて、僕の額にキスした。
「何を考えんだ」
本当は会うと言いたかったけど、意図せずブレーキがかかった。
「いや、服とか。飽きないかな、とか。キシさん、僕んちだと眠れないんだよね」
キシは首を傾げ、眼鏡の位置を両手を使って直した。
「こっちの方が、お互い職場に近い」
「まあ」
「服は持ってくれば?アナタがそういうの嫌なら、俺が行ってもいいよ。慣れたら眠れるし」
「ああ。うん」
親戚の持ち物で、事情があって他人に貸せなくなったというキシの部屋は、広くて快適で駅から近かった。ここを見た後、僕の部屋に泊まりに来いとは言いづらくて、僕は苦笑いした。
「で、飽きたら言って。いろいろ工夫しますから」
煙ったような重い光を湛えたキシの目が、僕を見下ろした。
「それは、僕じゃなくて」
「俺?俺はしつこいからさあ、全然飽きない」
腰に腕を回して抱きつくと、キシは片手で僕を抱いた。
「上野くん、そんなことが不安?」
「不安、じゃないけど」
「じゃあ、怖い?」
キシにもたれたまま、目を閉じた。今という時間にとどまれないことを怖いと言ってみても仕方がないが、怖いと口にすることさえ怖かった。
キシは僕の顔を仰向かせて、
「明日も会おう。いい?」
と低い声で言った。セックスの時以外にこの低めの声を聞くと、少し得した気になった。うん、と僕は答え、キシは僕を抱きしめて頭を撫でたが、まだ何か言うことがあるのか、体に力が入っていた。しばらくして、彼はふと力を緩めて、
「きりがないから出かけよう」
と笑った。
キシからの長いメッセージは深夜に届いていて、僕が読んだのは次の日の朝だった。
お疲れ様です。無事帰れましたか。
今日出かける前に、夢の話をしようとして、うまく説明できなさそうでやめたけど、気になるので書きます。
普段ほとんど夢は見ないけど、憶えている夢。
砂浜みたいな、広い場所に立ってたら、誰かが急に抱きついてくる。
誰だろうと思った次の瞬間、誰だったか思い出して、名前を呼ぼうとする。でも思い出せない。
名前を呼ばないとその人がまたいなくなると何故か思って、すごく焦る。
でも、その人は別に気にしてないことが、話さなくてもわかる。
その人の後頭部に触ると髪が濡れてる。
やっぱり髪が濡れてるね、と言おうとして、自分が夢を見てたと気づく。
でも、目が覚めたような覚めないような感じで、髪が濡れてるのは血だったかもしれないと思う。すごく辛い気持ちになる。
それで、本当に目が覚めた直後は、血で濡れてたなら弟だと思うけど、そのうちその人は誰でもなかった、夢の中だけにいたと気がつく。名前がわからないのは当たり前で、知らない人だから。
それなのに、夢の中ではその人の髪がいつも濡れてたことを思い出した。偽の記憶なのに強烈に懐かしかった。
向こうにいる間に、二回か三回見た夢。
夢の話終わり。
今朝、急に思い出して挙動不審だったから説明しようと思って。
あと、どんな夢見たか話すのはすごく難しいと今日話そうとしてわかった。昔、上野に毎回質問したのは悪かったかなと思って書いた。
明日、仕事終わったら連絡ください。何か食べたい物あれば決めといて。
返信いりません。
おやすみ。
すごく好きだよ。
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