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きっといつか、愛を語ろう

1 「同期会の連絡きた?」 テーブルに向かい合って座り、食べ始めるとすぐにキシが聞いた。 「うん、今日メールきてたね」 「再来週だよな」 平日も時々キシの部屋に泊まるようになって、会わない日の方が少なくなった。 いつも駅の近くで待ち合わせるが、今日は僕の帰りが遅くなって、キシが先に部屋にいた。ドアを開けてもらって、 「お疲れ様です」 と言いながら入ると、キシが笑った。 「お疲れ様です、か。何か変だな。ただいま、でよくない」 「でも、キシさんちだからね。お邪魔します、か」 部屋に行った日は、必ず一緒に食事をした。外で食べることもあったが、大抵キシが何か作るか買ってきて、部屋で食べた。 「生姜焼き定食っぽくした。どう?」 「すごい美味しい」 感想を聞かれると必ず美味しいと答えた。本当は胸がいっぱいで、味はよくわからなかった。そもそも、僕は食べることにほとんど興味がなかった。ただ、嬉しくて胸がいっぱいになるのは事実で、それが美味しいという言葉に変換された。 「上野、魚より肉の方が好きだよね」 とキシが言ったので、驚いて箸を止めた。 「そうかな。どっちも好きだけど」 「肉の時の方が食べる速度が速い。好きだからかなと思って」 肉と魚どっちが好きかという質問には、どっちも好きと答えることにしていて、前にもキシに言ったことがあるかもしれない。食べる速度を観察されるとは思ってもみなかった。 「作るのは肉の方が簡単だし、俺も肉好きだからなあ。外で魚食うようにすりゃいいのか」 キシは呟きながら食べていたが、僕の視線に気づいて、 「どうした」 と言った。どう説明すればいいかわからず、別のことを言った。 「同期会、もう返事した?キシさんお帰りなさいの会だから、返事とかない?」 「上野は?」 「返事はまだしてないけど。なんか気が重い」 キシは食べ続けながら、 「なんで」 と僕を見ずに言う。 「顔がひきつりそうで。でも、行かないのも不自然だ」 「そうか」 「今回、年一でやる定例の同期会も兼ねてるから。定例のは毎年出るようにしてるし」 「安田には、上野とはもう会ったって言うよ。今初めて会った、みたいなふりは、俺もさすがに不自然になるから」 「わかった。まあでも、キシさんは平気そうじゃん」 「そうでもありませんよ」 キシとただの同期どうしだった時は、彼が他の人と話すのを盗み見るのが好きだった。誰と何を話す時も落ち着いた様子で、たまに話し相手や話題に関心が向くと、何か考えているような目つきになったり、ちょっとだけ口元の表情を変えたりする。 会って間もない頃に、上野くんはどこに住んでるの、と聞かれたことがある。話しかけられたことに上ずりながら見上げると、ぞくぞくさせるあの目つきで僕を見ていた。僕がはっとする少し手前の、ほんの一瞬だけの、あの目。 最初に見た時から顔が好きで、話しかけられたら声も好きになった。キシが何か喋っている時に、声を聞くためにそばに行ったこともあった。話す時には、一度でも多く名前を呼ばれたかった。 部屋に行くようになってから、キシが会社を辞めるまでの間は、他の誰かといる彼を見るのは苦しかった。何かがバレてしまいそうだから僕はキシに近付けなくなって、それでも彼が気になって仕方がなかったから。同期会の感じを想像すると、あの時の苦しさがよみがえってきて、落ち着かないわけだ。 キシが、テーブルを拭いたクロスをカウンターの上に置いた。水がはねるからとシャツを脱いだのに、肌着代わりのTシャツを派手に濡らしながら、僕は食器を洗っていた。 「上野くん、同期会の前の日からこっち泊まれば」 「え。木曜の夜からってこと?」 「その方がよくない?で、当日も来ればいいよ。土曜日、どっか行こう」 さっき僕が不安そうにしたから、言ってくれたのだろう。カウンターの向こうのキシは、グレーのTシャツと黒のハーフパンツで、腕組みをして僕の手元を見ている。 「キシさん、優しいね」 「そう思う?」 キシはカウンターに両手をついた。 「上野くんがどっか行かないように、ね」 「は。どこも行くとこないよ」 「うん」 何でもなさそうに頷き、 「あのね、お前の皿洗い、雑すぎ。ちょっと教えてやる」 と言って、彼はカウンターを回り込んできた。 2 僕は夢の中で、芝田に捨てられて泣き叫んでいた。 もちろん、現実の世界で芝田に会うことはない。もう連絡先もわからない。 夢の中で、お前なんか最初から好きじゃない、と言ったのは、見慣れないスーツ姿の芝田だった。どこかの非常階段に立って、踊り場にいる僕を見下ろしていた。 僕は今の僕で、最初からって、と声を振り絞り、涙で喉が詰まって顔を伏せると、初めて会った時からお前の本性はわかってたよ、遊びに決まってんだろ、お前はまともじゃない、ケツに突っ込んでもらいたくて誰にでもついていくくせに、何を勘違いしたんだか、と声は静かに途切れることなく、長い間僕を罵倒し続け、反論しようと顔を上げて、芝田の目に浮かんだ憎悪に圧倒される。 「僕は」 お前が何だっていうんだ?汚らわしい、生きてる価値のない、ゴミ野郎。お前にはそもそも俺と話す資格もないんだよ。お前は人間じゃない。何で、いつまで、ここにいるんだ?ここに、いつまでいられると思ってたんだ?早く出て行け、死ね、早く死ねよ、飛び降りろ。早くやれ。 僕は、と悲鳴のように声を上げて、目が覚めた。 「上野くん」 背中に手が置かれ、キシは僕の隣で起き上がっていた。 「大丈夫?」 僕は泣きながら、うんざりして枕に顔を埋めた。キシが背中に手を置いたまま見下ろしているのはわかったが、しばらくは泣くしかできなかった。 そのうち、背中の手が離れて、僕の髪に触った。 「電気つけようか?つけない方がいいの」 キシは少し返事を待ってから、枕元の灯りをつけた。まだ何も話せなかった。彼はティッシュを何枚か引き抜いて、僕の手に握らせた。 半分起き上がってひと通り顔を拭いてから、枕を抱えてうつ伏せになった。顔だけは、隣に横たわったキシの方に向けていたが、また泣きそうなので目を閉じた。 怒りと恐怖と、飛び降りなかった罪悪感で、冷たい水に浸したように両手が痺れている。灯りが消えて、キシの腕が僕を引き寄せた。 「しゃべんなくていいから」 彼は囁いて、僕の手を握って自分の胸に置いた。 「何この手。部屋寒い?」 キシの手も体も熱く、氷が溶けるように現実感が戻ってくる。 両足のつま先を、キシの脚に押し付けた。 「うお、冷たっ」 キシは脚を引っ込めて、サイドテーブルに手を伸ばし、僕は声をたてて笑った。エアコンのリモコンボタンを二回押して、こっちに向き直ったキシは、暗がりで僕に顔を近づけた。目の中の白い光が見えた。 「もう平気?」 「起こしてごめん」 英司と別れてから、男に捨てられ、激しく罵られる夢を頻繁にみるようになった。場所や状況は様々だが、英司は登場せず、芝田や、一度か二度会ったような男が代わる代わる出てきた。 死ねと促されるのは、別のパターンの悪夢だったはずなのに、さっきは途中からきれいに繋がっていた。 ロープを目の前に置かれたり、銃のようなものを鞄に入れられたり、いろいろなバージョンがある。さっき、錆びついた非常階段の隙間から見えた地上は、どこかの路地裏だった。 「夜驚じゃない方だよな」 キシは僕の肩を温かい手で包んだ。 「うん」 「起こして、よかった?」 「うん、ありがとう」 3 キシがメールに書いて送ってきた夢は、切なくて少し悲しいけど、温かい夢だった。 名前のない懐かしい誰かを抱きしめて、自分の気持ちの大きさに圧倒される夢。そのイメージは、僕自身がみたように鮮やかだった。 あの夢のメールをくれた翌日に会った時、夢の話ありがとう、と僕が言うと、キシは少し考えて、 「アナタが昔みたいにうなされたら、起こした方がいいの?」 と質問したのだった。 僕は、夜驚と悪夢の違いを話してから、夜中に突然大声を出す時は起こしても無駄だから起こさないでほしい、明け方にもしうなされていたら、体に触って起こしてほしい、と答えた。 寝入って二時間くらいしてから僕が突然泣き叫び、話しかけても目が覚めないことをキシは憶えていて、昔、三回あった、と言った。 「最初の頃、ソファーで寝たって言ってたよね」 「そうだな」 「あの時以外にもあったのか」 いつか録音して聴いた喚き声を思い出して、ため息が出た。 「多分すごく変だったと思うけど。あの頃、自分でそういう状態だって知らなかった。ごめん」 キシは首を振った。 「つまり、アナタは何も憶えてないわけだ」 「夜驚の時は、憶えてない」 「そっか。すごく怖がってたから。目を覚まさせたかったんだけどね」 キシはテーブルに肘をついて、遠くを見る目つきをした。 「じゃあ、夜中に叫んだ時はほっといて、朝方うなされてたら起こすんだな」 「うーん。まあ、ね」 「わかるかな、俺」 首を傾げたキシと、目が合った。一緒に寝なければ、そんなことは考えなくていい、別に僕といなくてもいいんだから、という言葉が、自然に喉元まで出かかった。 「お前」 キシが言って、斜向かいに座った僕の膝を足の裏で押した。 「何」 「なに、じゃねえんだよ」 キシはゆっくり低い声で言いながら、僕を見据えた。 「でも」 「黙れ」 僕は目を伏せ、キシは僕の膝をぐいぐいとリズムをつけて押した。 「どうして、一緒に寝なければって言おうとしたのわかった?」 足が、膝から離れた。 「だって、言おうとしてたろ」 彼が入れてくれた麦茶が、コップに半分残っていた。僕はコップを掴んだ。水滴で手が濡れる。 キシは、コップを掴んだ僕の手に、自分の手の甲を触れさせた。触れた場所から力が抜けていき、僕は息を吐いた。 キシの持つ穏やかで明るい性質は僕にとって恩恵だが、僕といて、キシに何か良いことがあるのか。 「キシさん、僕といて何か良いことある?」 眼鏡に部屋の灯りが反射して、その奥でキシの目は僕を映して輝いていた。 この人を失うことはできない。何も良いことがないから、とキシが僕から離れたら、僕はどうするつもりだろう。 「アナタといて、良いことはいろいろあるよ。思いついたら順次発表します」 のんびりした口調で言いながら、キシは僕の手を掴んで指を絡めた。僕はちょっと笑った。 「これも良いことだよ、俺にとっては」 「どれ」 「この感じ」 目を閉じると、溶けてしまいそうな心地よさが手から腕へ、体へと広がった。 4 あつい、とキシが呟いて、さっき温度を下げるためにサイドテーブルから取って、ベッドに投げ出したばかりのリモコンのボタンをまた押した。 汗が止まらない。今夜初めて、キシの家の周りでランニングしてみた。道は広く平坦で、走りやすかった。少し前に比べれば気温は高くないが、湿度のせいですぐに汗まみれになった。 海に面した公園に辿り着くと、高層マンションが立ち並ぶ埋立地の夜景はきれいで、寂しかった。 星のない空を雲が流れ、暗い水面はビルや橋や街灯の光を白く映して、重たげに揺らめいていた。 「お前、体がすごい熱い」 「走ったから」 「中が熱い」 キシの両掌が脚の付け根を撫でる。快感がさざ波のように腰から背中を這い上った。キシは僕の膝に手をかけて、さらに奥まで入ってきて、唇をぎゅっと結んだ。枕元のライトが明るくて、顔がよく見えた。 彼の顔が見たいから、明るければ僕は目を開け、見ることにも見られることにも興奮しておかしくなる。 明るくしとけば、とキシがいつも言ったが、暗くしてするなら、それはそれで別のスイッチが入るんだけどと思って、まだ言ったことはない。 キシは僕の視線に気づくと、中で角度を変えて動きを止めた。僕の腰だけが動こうとして、片足でキシの腿の裏を叩く。顔を横に倒して、そこに置かれたキシの腕に頬を擦りつけた、 彼はその手で僕の顔を撫で、下唇をなぞった。口を開けると親指が差し込まれ、僕は音を立てて舐め上げる。 しばらくすると、指の代わりに柔らかい舌が入ってきて、いつものように僕の口の中を隅々まで蹂躙した。僕の喉の奥から、立て続けに声が漏れた。 キシは唇を塞いだまま、ゆっくりと僕の体を揺さぶり、僕の背中が仰け反って、もっと激しく動きたがるのを体重をかけて押さえ込み、同じ動きを繰り返した。 キシの背中においた手が汗で滑るようで、指先に力が入る。息遣いが耳元で聞こえた。 「これが好き?ここ」 「うん。すごく、いい」 「好きって言って」 キシが囁いた。 僕は、キシに再会してから、一度も好きと言ったことがなかった。 試すわけでもないけれど、キシは気づくだろうかと頭をよぎることはあった。今、目を開けてその表情を見ると、多分気づいていたんだろう。 好きって言うとまた逃げるかもしれないから、と言いたかったが、そんな余裕もなく、頷いた。 「言って」 懇願する声だった。まだその声を聞きたかったが、堪えきれなかった。 「好き」 キシは僕の肩を掴んだ手に、痛いほど力を込めた。 「これのこと?」 「ああ、好き、キシさん。動いて、もっとして」 声が溢れるのを止めようという意識が遠のいていく。 「好きって言っていい?キシさん、好き」 「俺も好きだよ」 「大好き、キシさん。好き」 キシは僕の目尻の涙を指で拭って、 「可愛い声だな」 と呟いた。 大好きで、愛してる、本当は。 言われたことも言ったこともない言葉が、心の中にある。その言葉は、お願いです、から始まる。 お願いです、この人を愛させてください。愛していられるように、僕に力をください。 愛してる。 大好きで、愛してるよ、キシさん。 まだその意味はわからなくて、怖くて口には出せないけど、愛してる。 5 岬さんに、ランチに誘われた。暑いから近場で、と連れて行かれたのは、会社の隣のビルの高層階にある高級な中華料理店だった。 「ここの裏メニュー、召し上がったことある?」 「来たのは初めてなんですが、冷やし中華でしたっけ」 「そうなの。絶対お勧めだけど、それでいい?」 夏の間だけメニューに載っていない冷やし中華が注文できることが、社内で一時話題になったのを憶えていた。 「今日ご馳走するから、デザートもつけていいかしら」 「ご馳走?何でですか」 「いいの、とりあえずデザートは食べる。上野さんも召し上がりますよね」 注文を済ませた後で、岬さんは真っ白いテーブルクロスの上に細い腕を置いた。 「最近、走ってる?」 やっぱり、ランニングサークルのことだ。 「最近は平日に走れる日が少なくなっちゃって。週末まとめて、と思うんですけど、暑くてサボりがちです」 「私も、夏の平日はサークルだけ。週末は夜に走るけど、予定が入ったらサボりますよ」 岬さんは笑顔になった。 「平日、走れる日が少なくなったのは、どうして?残業は減らしてるでしょう?」 会社全体で、残業時間を減らす試みが始まっていた。答えを考えているうちに、岬さんが口を開いた。 「上野さんは、最近すごく変わりました」 「え、そうですか?」 「そうです。明るくなった」 僕は笑い、岬さんも笑った。 「僕が、明るくなりました?本当に?」 「うん、なんか全然違うのよ」 「これまで暗かったってことですね」 岬さんは、 「そうじゃないけど」 と、笑顔のまま首を傾げた。 「幸せそうなの、最近」 僕は何を言っていいかわからないまま、重いグラスに入った水を飲んだ。 冷やし中華が運ばれてくると、岬さんは具の種類の多さをひとしきり褒めてから一口食べて、 「やっぱりここの胡麻だれ、めちゃくちゃ美味しいわ」 と言う。その様子こそ、幸せそうだ。彼女はしばらく食べることに集中した後、長い箸を置いて水を飲み、 「サークルの練習、たまにはいらっしゃらない?」 と唐突に切り出した。 「あー」 「あー、だって。ふふふ」 岬さんは、すぐにまた箸を手に取った。 「メンバーが、産休と転職で減るのよね」 「はい」 「でね、藤尾さんのことは嫌かもしれないけど放置して。話さなくていいから」 僕の目を見て、彼女は肩をすくめた。 「特に親しいわけじゃない、でしょう?」 「親しくはないです」 「藤尾さんは、毎週参加じゃないの。忙しい時期はずっと来ないこともあります。あと、ああいう人ですから、メンバーから苦情が上がったこともあります」 岬さんは食べ続けながら、仕事の時のてきぱきとした口調になった。 「でも彼が原因で来なくなるメンバーが出ないように、考えてきたつもり。基本的に、無視していれば問題ないの。必要なら私から彼に言います」 ランニングサークルのことは、心に引っかかっていた。藤尾さんは面倒だ。これまで、面倒なら避けてきた。 「今、返事しなくて大丈夫よ。食べてね」 「はい。少し考えていいですか」 「もちろん」 岬さんは、にっこりと唇を横に引き伸ばすいつもの笑顔を見せた。 「私生活が幸せな時に、自分だけの時間を持つのは、すごくいいことですよ。特に、お互い夢中な時期ほど、意識して離れてる時間を取るの」 驚いて、そういうことじゃないですと否定するのが遅れた。 「お節介だけど、大目に見てね、ごめんなさい。上野さんは言わなくてもわかってると思うけど、言っちゃった」 岬さんは、キシを知っていただろうか。尋ねたいと衝動的に思った。もちろん口には出さない。 「自分だけの時間を持つって、岬さんの実体験ですか?」 岬さんは、錦糸卵や胡瓜やハムを丁寧に集めて黄色い麺にからめていた。 「そうね、もちろん」 「自分の時間を持つと、どうなりますか?」 「いいことが起きるのよ。具体的には、人によっていろいろだと思いますけど。でも」 彼女は皿から目を上げて、僕をじっと見た。 「上野さんの場合、相手の方は気が気じゃないと思うのね。あなたは、手を離した隙にふらふらっとどこかへ行っちゃいそうだから」 僕は絶句し、岬さんは声を上げて笑った。 「図星?」 「いいえ。いえ、はい。あの、ふらふらは言われました」 「そうでしょうね。そうだと思うわよ」 「そうなんですか?ううん。まあでも、気が気じゃないようには、見えないですけど」 「それは、あなたにそう見せないだけよ。決まってるじゃない」 僕が焦って思わず口走ったのを、彼女は冷静に受け流し、僕が食べ終えた皿を下げに来た人に、デザートを持ってくるように頼んだ。 「上野さんの方から、世界を少し広げてあげるの。週一ぐらい走りに出かけても、気持ちは変わらないって。馬鹿みたいかもしれないけど、そういう不安って、言葉でいくら言っても解消されないから」 呆然とする僕を見て、彼女はまた笑った。 「ね。気持ちは、変わらないわよね」 「変わりません」 「じゃ、やっぱり練習に来て!」 大きなガラスの器に入った杏仁豆腐を、彼女は美味しそうに食べた。 「勧誘だから、ご馳走するってことだったのよ」 「あの、岬さん、ありがとうございました」 「あら、何にも。こちらこそ」 彼女の肩越しに見える大きな窓から、夏の青空が広がっていて絵のようだった。 6 「こないだ起こした時の夢、憶えてる?言いたくなければ、いいけど」 ちょうどベッドに入る時に、キシが質問した。 うなされた時に起こしてくれてから、しばらく経っていた。いつ聞くか考えていたのかもしれない。 彼は僕が寝る側に腕を伸ばして、寝転んでいた。話すかどうか迷いながら、とりあえず腕の位置を調整して、横向きに頭を乗せる。 どういうわけか、キシは誰かと寝る時は密着するものだと思い込んでいるらしく、僕が腕枕を外すと文句を言い、いつも僕をそばに引き寄せて眠りたがった。 僕が横向きで寝て、キシが後ろから何となくくっついて寝ることになっていた。一人で手足を伸ばせないと眠りづらかったが、だんだん慣れた。 キシは、僕の腹を部屋着の上から指でなぞっている。エアコンが効いた寝室でも、彼の体は温かかった。 「こないだは、誰かに別れるって言われる夢」 「えっ、俺?」 心底驚いたという声を出すので、 「違う違う。誰でもない。夢の中の人」 と慌てて言った。他の男の姿だとは言いたくなかった。 「それで、最初からそもそも好きじゃなかったって言われて。またこんなことになったと思ってた。夢の中では。また捨てられたって。キシさんが偽の記憶って書いてた、あんな感じ」 偽の記憶であり、忘れない痛みでもあった。夢をみた直後の感情の波は、キシの知らない僕の嘆きの一部だったと話しながら気づいた。 「その後、僕の嫌なところとか、うーん、駄目なところを罵倒される、すごい悪口というか。でも、いつもの感じ」 「いつも?」 「何回もみる夢だから。こないだは、最後の方で、自分で死ねって言われた、飛び降りろって。高い所にいたから。非常階段の下に地面が、アスファルトが見えてた」 僕は目を閉じ、大きく息を吐いた。うまく説明できないせいか、ひどく疲れた。 キシは黙ったまま、僕の体を撫でていたが、そのうちぽつんと、 「怖い夢」 と言った。 「ごめん、いやな感じで。コメントに困るだろ。だから普段話さない」 「昔、みた夢は全部憶えてるって言ってたよな」 「そんな話、したことあった?」 「でも、どんな夢かは一度も言ってくれなかった」 キシの声は、優しく耳に届いた。 夢の内容は全部憶えていると話したら、現実に居場所がないからだろうと彼が言ったことを、もちろん忘れるわけはなかった。 何度かそんなやり取りがあって、そういう時のキシの目に、どれほど心が揺さぶられたかを思い出す。 「あの頃もひどい夢ばっかりだったし。キシさんは、そうじゃなくても引き気味だったしね」 沈黙が続き、キシの体温を背中に感じていると、口にした夢のおぞましさがいくらか薄れるようだった。そんな気がするだけで、僕が別の人間になれるわけでもないが。 「上野。なんで、一人でそんなに頑張る」 キシが小さな声で聞いた。 「何それ」 体に回された腕に、少し力が入る。 「子供の頃、怖い目にあったろ。今も、うなされるほど怖い思いして。誰にも言わないで、なんで一人で頑張る?」 僕は目を開けた。暗闇を見つめて、エアコンが吐き出す風の音を聞いた。 「頑張ってはない。僕は、無神経で図太いってだけで」 「それは、夢の中で言われる悪口か?」 枕にしたキシの腕が僕の頭を抱えて、湿った前髪を指で弄んだ。僕は寝返りをうって、彼の方に向き直った。 「夢の中で言われるのは、もっとずっと酷いこと。だけど、無神経で図太いから、僕は生きてられる」 ずっと昔から、いつも心の中で自分に言い聞かせている言葉なのに、口に出したら、胸に痛みが走った。長くて丈夫な太い針があるとして、それを胸に突き立てると、心臓をまっすぐ刺し貫いて、背中から針の先が出てくる、そんな痛みだった。悲鳴を呑み込んで体を丸めるのと、キシが僕の体を引き寄せるのが同時だった。 キシは呼吸を忘れたように息を詰めて、僕を腕の中に抱いた。 「大丈夫だよ。キシさん、大丈夫」 痛みが静かに沈殿していく間、大丈夫だよ、と何度言っても、キシは無言で僕を抱きしめていた。 7 同期会には、十七人も集まった。ドタキャンしても問題なかったかな、と思う。会社を辞めた数名のそばに座り、近況を聞いて時間を過ごした。 前の晩、キシから合鍵を渡された。鍵といってもカードキーで、テーブルに置いてあった。 「僕の?何で?」 「明日とか、もし俺の方が遅くても、入って待ってて。使い方わかるよな」 キシは、キッチンカウンターの向こうで何かしていた。 「カードキーって作るの面倒でさ。前から渡した方がいいとは思ってたんだけど」 とりあえず後ろのポケットから財布を出して、どこに入れようか考えた。 「お、もらってくれるんだ」 目が合うと、キシは口元で笑い、それで初めて僕は、彼にとって合鍵を渡すことには何らかの意味があったのかもしれないと気づいた。 同期会の間じゅう、キシの様子は気になったが、隣のテーブルで僕と同じ側に座っていたから、姿が見えなくて気持ちは楽だった。 途中で僕の横にいた二人が席を外した時、隣のテーブルから、結婚という言葉が何度も聞こえた。向かいの女性と何となく顔を見合わせ、彼女が、 「無視。こっちに波及しないように」 と言うので、賛成、と呟いた。 「上野くん、結婚しないの?」 「思いっきり波及してるよ、山中さん」 「人のことは気になるんだよう。ねえ、彼女とかいないの?」 「まず、自分のことから話そうか」 「やだよ」 グラスを口に運んだところで、 「岸さんは、結局どういうタイプが好きなの?」 と大きな声が響いた。 山中さんは隣のテーブルに視線を移し、僕は薄くなったレモンサワーをひとくち飲んだ。 「あほらしい、今さらタイプとかないよ」 キシが笑いながら答え、安田らしき声が、 「芸能人で言うと」 と聞く。 「日本の芸能人、わかんない」 「外国人でもいいよ、ハリウッドとか」 つい、隣のテーブルに目をやってしまった。キシの顔は見えず、テーブルに置いたジョッキに添えられた手が目に入った。 その手は手のひらの部分が大きくて、親指が長い。僕が喜ぶ程度と苦しい度合いを探る動きを一瞬思い浮かべた。 「じゃあ、影のある美人って感じの人がいいかな」 隣のテーブルは騒めき、山中さんも奇声を上げたので、僕は彼女に向き直った。 「ハードルたっかー!わけわかんない、だから結婚できないんだよ」 「だろーね」 「美人とか言うか?影のある美人なんて、今どきいるか?」 「まあまあ。次、何飲むか決まってる?」 山中さんに向けて、飲み放題メニューを掲げてみせた。 「うーん、ハイボールにしようかな」 「はいよ」 キシの死んだ弟は、どんな人だったのだろう。 テーブルに一通りメニューを回して、まとめて注文を済ませると、横の二人の女性が席に戻って、山中さんと話し始めた。 キシがどれだけ会いたいと願っても二度と会うことが叶わない人。僕の想像の中で、彼は絶え間なく流れる光の粒の中に立ち、二十三歳で亡くなったと聞いた後も、高校生くらいの黒い髪の男の子の姿だった。 忘れないで、とその子の声が僕の中に響いた。最近、光の粒の流れを思うといつも聞こえる声で、多分伝言だから、僕はいつかキシにそれを伝えなくてはいけない。 でも、生きることは忘れることで、キシは忘れたくなくても、弟のことを少しずつ忘れる。 僕の濡れた髪に触れて、これから何度キシが弟を思うのか、僕は知ることがない。 帰り際、安田に挨拶したら、笑顔で腕を掴まれた。 「上野、岸と復活したんだな」 膝から力が抜けそうになる。 「なにそれ、復活って」 「いや、何だか行き違いがあったんじゃないの?」 安田は酔っていたが、声を落として僕に顔を近づけた。 「岸はさ、あの時、お前が会社にいるって俺が言ったら、ほっとしてたんだよ。あの後メールとかしたんだよね」 「あー、まあ、うん。ありがとな」 腕を掴まれたまま安田の肩を叩くと、安田は頷きながら、僕の肩を叩き返した。 8 先に帰ったと連絡が来ていたので、インターホンを押すとすぐにドアが開いた。 「おかえり」 口の中でただいまと言いながら、中に入る。 「それ、使えたな」 マンションの入り口のオートロックを開けるのに使ったカードキーを、僕はまだ手に持っていた。キシは、いつもシャツの下に着ている白いTシャツ一枚で、下はまだ着替えていなかった。 「これね。使えた。キシさんも帰ったばっかだね」 靴をぬいで玄関に上がる。肩に手がかかった。 「なに」 「リュック」 リュックサックを下ろす。キシは受け取って床に置き、肩紐の形に僕のシャツが濡れているのを手でなぞった。 「上野くん、楽しかった?」 「普通。あの、何してんの」 言っているうちに唇を塞がれ、壁に押し付けられる。キシが使っている外国のミントの歯磨き粉の香りが口の中に広がった。 「あの中でお前見るのは、妙な感じだった」 「そう?キシさん別に普通だったけど」 「お前、安田に触られてるし」 「触られて?ないない、ありえねえだろ」 僕が思わず笑うのを、キシは真顔で見下ろしていたが、ふと横を向いて片手で眼鏡を外した。フラッシュが焚かれたように、欲情が芽生える。 キシは腕を壁に置き、僕が顔を背けると、そうして欲しいと思ったように首筋にそっと歯を立てた。彼の湿ったTシャツの背中に腕を回し、カードキーを持っていない方の手をベルトの下まで滑らせる。腰を密着させると、耳元に熱い息がかかった。 同時にスマホのバイブレーションが短く響いた。キシの後ろポケットから、僕の左手に振動が走る。 二人とも無視したが、直後に三回連続で音が響いた。 僕は腕を解き、キシは苦笑いして眼鏡をかけ直し、スマホを取り出した。 「グループメッセージ、あと、さっき連絡先交換したご挨拶とか」 「ふうん。暑いから部屋入らせて」 彼は床のリュックサックを持って、僕の額にキスした。 「後で続きする」 「ふん」 部屋に続くドアを開け、涼しい、と二人で同時に声をあげた。 僕は、キシから受け取ったリュックをテーブルの下に投げ出した。カウンターに置かれたスマホから、また立て続けにバイブが響いた。 「相変わらず人気者だね」 「今、通知切るよ」 指で挟んだカードキーを、キシの方に差し出した。 「これどうする、返す?」 スマホを手に取ったキシは、ちらっと見て、 「持ってて」 と言った。 財布を出して、カードキーをしまった。返す気はないのだ。僕のつまらないひねくれ方を、キシはいつも見逃してくれた。 「そうだ、何あの、影のある美人?」 キシは、スマホをカウンターに戻したところだった。 「ああ、そっちに聞こえてた?」 「珍しくブーイングされてたじゃん」 「お前のことだけどね」 「はあ?」 「あの場に、影のある美人はお前しかいないだろ」 キシはキッチンの冷蔵庫に向かいながら、僕を指差した。 「あの時、岸くんは上野くんのこと言ってたんだなあって、皆さん思うよ。いつかバレた時に」 9 その日は土曜で、朝から晴れて暑かった。 キシは台所でペーパードリップの用意をして、火にかけたケトルを眺めている。僕はテーブルに肘をついて、彼の前髪が額にかかる様子を見ていた。 映画に行ってみない、と言われて、スマホで近所の映画館のスケジュールを調べたが、今ひとつピンとこなかった。キシは眼鏡の位置を指で直して、僕が見ているのに気づく。 「映画調べた?」 「調べたけど、よくわからん。キシさんが見たいのでいいよ」 「そうですか」 彼はケトルを高く持ち上げてお湯を注ぎ、またコンロに戻すのを繰り返していた。 「昔、コーヒーメーカーあったね」 「あの安っぽいやつ?よく憶えてんな」 彼はちょうどケトルを持ち上げたところで、僕を見ずに答えた。 コーヒーを入れたマグカップを二つカウンターに置いてから、キシはこっちに回り込んできた。僕が立ち上がろうとすると、 「ああ、いいよ」 と言って、僕の前にマグカップを置いてくれて、自分のを持って、窓際のソファーに向かった。 「こっち来る?」 「うん、あとで」 キシは全く気にしていないようだが、薄いブルーのソファーにうっかりこぼしそうで、飲み物を持って座るのはいつも遠慮していた。 テーブルに置かれた白いマグカップに太陽の光が当たって、黄金色に見えた。湯気がゆっくり上がっている。 キシはソファーに座ると、コーヒーを一口飲んでから、後ろに寄りかかって伸びをした。 「ああいう機械が当時好きだったんだよな。あ、コーヒーメーカーの話ね」 「うん」 「コーヒー、まずかったよね」 キシは笑いながら言って、僕も笑った。 「でも、あのコーヒーは楽しみにしてた」 「なんで」 「えっ?キシさんが入れてくれるから」 僕は熱いコーヒーを少しだけ飲んだ。キシは眼鏡を指で押し上げて僕を見ながら、グレーのスウェットの脚を組んだ。 「あの部屋、まだあるんだよ」 「どういうこと」 「あそこは、うちの家族が昔から持ってる古い物件なんで」 あの部屋の様子は、九年経ってもすぐに思い浮かべることができた。玄関脇のバスルーム、短い廊下、キッチンカウンターの前の小さなテーブルセットと、その向こうのベッド。 キシがシャワーを浴びに行って一人になると、いつも部屋の中を見回して、ここに来るのはこれで最後になるかもしれない、と思った。 「好きだった、あの部屋」 マグカップの少し熱い取っ手を掴んだ指が金色に染まって、本当に最後にあの部屋を出て、駅に向かって歩いた時の朝陽の眩しさを思い出した。 僕は、子供のように声を上げて泣きながら歩いた。それとも、心の中だけで泣いたのだったか。 「上野、またあの部屋、見てみたい?」 自分の泣く声の残響がまだ心にあって、上の空で、どうだろう、と呟く。 キシは、ソファーの前の低いテーブルからマグカップを持ち上げたが、口を付けずにテーブルに戻して、もう一度僕を見た。 「上野くんさ」 「うん」 「一緒に住まない?」 まるで、急に目の前の窓が開いて、風が吹きつけてきたようだった。鼓動が早くなり、僕は胸を押さえた。 キシは組んだ脚を戻し、両足を床につけた。長い足の指と木の床に太陽の光が当たって、どっちも金色に輝いて見えた。 「そんなに驚かせると思わなかった。大丈夫?」 自分も驚いた顔をして、キシが尋ねる。 「いや、大丈夫じゃないけど」 何とか、声を出した。 「一緒に住むって?」 「一緒に部屋探してもいいし、あの部屋がよければ、狭いけどあそこでもいいよ。もし、ここが気に入ってるなら、長く借りられるようにするから」 言い終わると、キシはマグカップを持ち上げ、今度はコーヒーを飲んでから、テーブルに戻した。 その様子を見て、何故か体の奥が熱くなった。 「ほんとに、本気で言ってるの」 「本気。俺、上野に嘘ついたことないよね」 静かな声だった。 「どうせずっと一緒にいるんだから、俺はそうしたい。アナタは?」 キシと一緒にいられるなら、他に何も望むものはない。 心の底のあの深い焦がれが、キシに向かって手を伸ばし、僕の体を震わせた。 「キシさんは、どこにも行かない?」 答えはわかっていたけど、聞かずにはいられなかった。 カーテン越しに射し込む光の中で、キシは僕を見つめた。 「俺はどこにも行かない。お前が何をしても、しなくても、一緒にいたい」 珍しく照れた顔で、ちょっと顔を伏せてから、彼はまた僕を見た。 「お前はどうなの。どこにも行かない?」 キシの目は、白い光を重たげにきらめかせて、僕を見ていた。 「僕は、キシさんと一緒にいる」 「じゃあ、一緒に住む?」 「うん」 キシは、ふふっと声を出して笑った。 「ありがと、上野くん」 こんなに嬉しそうな顔をする人だったか。 渇いた切望は、胸の奥から湧き出す温かさに溶けていく。 それは、キシに触れた時の感覚に似ていた。行き交う電流、境界線の消滅、心地よさに声を失う、あの愛の感覚に。 「キシさん、ありがとう」 「おいで」 キシは、僕に向かって手を伸ばした。 その手を取ると、キシと僕に天から光が降り注ぐ。光は降り注ぎ、降り注ぎ続ける。 いつか二人がここから消えて、体も心もキスも言葉も失われて、もし僕たちに魂があるのなら、一つになって永遠のしじまに溶ける夢をみるだろう。 そして、光はここに降り注ぎ続ける。その光のために、僕たちは出会った。そして、お互いの手を取り合って、もう離れることはないのだから。 ―完

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