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第1話

 天帝が統べる天界は、四方を預かる四天王とその眷属である鬼神により守護されている。  最上層には天帝の住まいである宮城と、神官長が掌る神殿があり、宮仕えの天人や神官、覡などが住んでいる。  覡とは、身に備わった神通力で先読みをしたり穢れを祓ったりする男子の巫子のことで、天人の中でも特に選ばれた存在だった。  人の世の時間で、今から八百年あまり昔。   宮城を警護する鬼神の若武者と覡が、許されぬ恋に墜ちた。  天界では、古来より身分によってそれぞれ属する階層が定められている。  最上層に住むことを許された覡と、四天王の眷属である鬼神では身分が違いすぎた。  それでも、いかなる障害も乗り越え、いつか必ずともに暮らせるようにしたい。  秘めた恋に身を焼きながら、ふたりは固く誓い合っていた。  にもかかわらず、ある日突然、覡は愛を誓ったはずの鬼神を捨て、神官となる修行を積むために神殿の奥へと引きこもってしまった。  恋人を失い失意に打ち拉がれた鬼神には、さらなる仕打ちが待っていた。  神聖な覡を邪な想いにより穢したと咎められ、天界からの追放を言い渡された。  衆望も厚く、いずれは父の後を継ぎ一族の長となり、鬼神界を束ねていくひとりとなると期待されていた若武者は、天界と人界の狭間へと墜とされてしまったのだった。  バロック期を代表する画家の絵が一堂に会する展覧会が開催されている板倉(いたくら)美術館新館は、長蛇の列ができる大盛況だったが、平安から江戸時代にかけての焼き物を中心に展示された本館の方は閑散として静まりかえっていた。  一昨年亡くなった某社会長が、祖父や父の代から三代かけて蒐集した『嶺岸(みねぎし)コレクション』は、日本でも有数の古美術品コレクションとして有名だった。  それが先々の散逸を防ぎたいとする遺族の意向により、板倉美術館に一括寄贈されたと報道されたのは会長が亡くなってすぐのことだった。  それから二年近くかけての整理作業が済み、ようやくコレクションの一般公開が開始されると知り、杳宮(はるみや)渚(なぎさ)は早速駆けつけてきた。  だが、光の魔術師と称される画家の絵と較べると、やはり地味さは否めない。  週末ならいざ知らず、平日の昼間は人影もまばらで空いていた。  でもだからこそ、誰にも邪魔されずじっくりと好きなだけ眺めていられる。  淡い光を浴びて閑かに佇む猿投窯長頸壺の前で、渚は絶世の美人に魅入られたように立ち尽くしていた。  展示された数々の名品の中でも、これは特に地味な部類に入るだろう。  絵付けもなく、しかも口が少し欠けている。見る人によってはただの古びた壺にすぎないし、そもそも陶器に対して美人という言い方はおかしいかもしれない。  だが、白い肌に明るい青緑の釉がかかった壺は、渚の目にはそうとしか表現しようがないと思える優美さと映っていたのだった。  黒目がちのアーモンドアイを微かに眇め、渚はやや俯きがちに半ば焦がれるように猿投の壺を見つめていた。  その時、不意に背後から靴音が聞こえた。  天井の高い古い建物で床が板張りのせいもあってか、靴音は静まりかえった展示室内に反響するようにコツコツと響いた。  集中を破られ顔を上げた渚は、次の展示品に移ろうとして、ふと背後を振り向いた。  見るからに仕立てのよいブリティッシュトラッドの三つ揃いに身を包んだ堂々たる体躯の男性が、真っ直ぐに渚を見つめて立っていた。  浅黒く鼻筋の通った端整な顔立ちは優しげにも見えるのに、切れ長の目は鋭く冷ややかで酷薄ささえ感じさせる。  たった今まで我を忘れて見とれていた猿投の壺の、はんなりとした閑雅さとは対極にあるような存在に思われた。  それなのに、まるで視線が吸い寄せられるように、どうしても男性から目を逸らすことができなかった。  ともすれば日本人はスーツを着るのではなく、スーツに着られてしまうことが多いが、男性はミッドナイトブルーのツイードスーツをごく自然に品良く着こなしていた。  広い肩幅や厚い胸板、腰の位置が高く、膝から下が長い足。おそらく筋肉質のガッチリした身体をしているのだろうが、不思議と威圧感は感じなかった。  柔よく剛を制す、という言葉がとてもよく似合いそうだ、とふと思う。  三メートルほどの距離をおいて、男性もじっと渚を見据えていた。  ふたりが見つめ合っていたのは数分なのか、それとも実はほんの一瞬だったのか――。  展示室の外から近づいてくる甲高い話し声に、ピンと張り詰めた緊張は突然破られた。  我に返り慌てて目を伏せると、渚はそっと後退った。  それからくるりと踵を返し、足早に展示室を横切り廊下へ出た。  男性が追ってくる気配などなかったにもかかわらず、そのまま追われるように階段を駆け下り美術館の外へ飛び出していた。  三月になったばかりで、春風と言うにはまだ少し冷たい風に頬をなぶられ、渚は思わず深い息をついた。  鼓動が跳ね上がっているのは、展示室を出てからずっと走ったからだろうか。  芽吹き前の銀杏の枝越しに見える空は青く透き通って、展示室の薄闇に馴れた目に太陽の光が眩しかった。  正門から新館へ続く小径には、遙々海を越えてやってきた名画を一目見ようとする人々が大勢列をなしている。  まるで異世界から飛び出してきてしまったような不思議な感覚にとらわれ、渚はもう一度、深呼吸するように深い息をついた。  新鮮な冷たい空気が胸を満たし、うるさく騒いでいた鼓動もようやく落ち着いてきた。  せっかくここまで出てきたのだから、光の魔術師の名画も鑑賞していこうか――。  気を取り直すようにそう思うと、渚は一度正門を出てチケット売り場の長い列に並んだ。  少しずつ進んだ列がようやく正門近くまで戻ってきた時、渚の横をパールグレイのリムジンがスーッと走り抜け正門の前で静かに停止した。  誰だろうと驚いて見ていると、あの展示室で出逢った男がゆっくり歩いて出てきた。  すかさず運転席から降りた運転手が、恭しくドアを開ける。  男性は渚が列に並んでいるとは気づかなかったのか、それとももう興味を失ったのか、列の方へは一瞥もくれず洗練された動作で車に乗り込んだ。  静かにドアが閉められ、運転手が運転席へ戻る。  リムジンが走り去ってしまうと、期せずして周囲に並んでいた女性たちから感嘆のため息が洩れていた。 「誰……?」  小声で連れに訊く声がしている。  思わず耳をそばだてた渚の耳に、「知らない……」と残念そうに囁き返す声が聞こえた。  誰だったんだろう――。  そう思いながら振り仰いだ空に、真っ白な飛行機雲が一筋浮かんでいた。

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