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第2話

 都内でも有数の閑静な高級住宅街を、パールグレイのリムジンが走り抜けていった。  リムジンは、住宅街の最奥に位置する高い塀に囲まれた門扉の前でいったん停止した。  アールデコの装飾が施された、見上げるような高さの門扉越しに、緩やかな弧を描いて続く小径が見えている。  だが、背の高い木々に遮られ、その先にあるはずの家屋敷の様子を窺うことはできない。  リムジンが停まると、まるで待っていたように観音開きの門扉が静かに開いた。  しずしずと小径を進む車の前方に、白壁のレトロな洋館が見えてきた。  玄関ポーチのアーチを支える柱の陰に、枯れ枝のように痩せた老人がひとり立っていた。  額には深いしわが刻まれ髪も髭も真っ白で、さながら能面の翁のような顔をしているが、翁と違って眼光は鋭く、背筋もぴしりと伸びていて、フロックコートにベストを着用したフォーマルスタイルがいかにも様になっている。  停止したリムジンから降り立った鬼燈(きとう)紫翠(しすい)に、老人は待ちかねたように歩み寄った。 「お帰りなさいませ」 「枝梧(しご)か」  恭しく頭を下げた枝梧は、この屋敷のすべてを取り仕切っていた。執事と言うより、主と言った方が似合うような存在である。 「槐威(かい)様がお待ちです」 「玄月(げんげつ)が?」 「香合の件、お耳に達したのではと」 「相変わらず耳の早いことだ」  枝梧と並んで屋敷の中へ歩を進めながら、紫翠は微かに苦笑した。 「玄月はどちらで待っているのだ」 「降りてこられたままのお姿でございますので、お館の方でお待ちいただいております」  小さくうなずいた紫翠に、枝梧が「お食事はいかがいたしますか」と訊いた。 「あとでいい」 「では、御酒をお持ちしましょう」 「枝梧にしては、珍しいことを言う」 「槐威様からの頂き物でございます」  ふんと鼻を鳴らした紫翠に慇懃に頭を下げ、枝梧は屋敷の奥へ滑るように姿を消した。  ひとり残された紫翠は口元にあるかないかの微笑を湛えたまま、軽く膝を曲げ高い天井へ向け跳躍した。  次の瞬間、紫翠はふわりと舞い降りるように着地した。  瞬きする間もない一瞬の出来事であったのに、周囲の様子はガラリと変わっていた。  レトロな洋館の中にいたはずの紫翠は、次元回廊を通り抜け、高い格天井の武家屋敷風の建物、闇の館へと移動していた。  そのまま何事もなかったように歩き出した紫翠の頭には、いつの間にか白銀に輝く二本の角がにょっきりと生え、髪も背中まで届く長さとなっていた。  双角を持つ紫翠は、当然ながら人ではない。  紫翠は天帝の宮城の警護を司る鬼神、羅刹の一族の頭領の後嗣として生まれた。  だから本来なら、今も宮城の警護を担い、天界の安寧を守護しているはずだった。  しかし、今から八百年ほど前、天帝の宮を穢した咎を受け、廃嫡の上、天界と人界の狭間へ墜とされた。有り体に言えば、追放である。  五百年の蟄居謹慎の後、現在は、天帝の宝物が納められた九鼎庫(きゅうていこ)から流出した貴重な品々の探索や、天界からの脱走者の捕縛にあたっていた。  果たして、赦される日が来るのか来ないのか――。  与えられた任務があるとはいえ、天界へ足を踏み入れることは禁じられ、流罪と変わらない生活である。  ともすれば倦んでしまいそうな自分に活を入れるのにも、少々疲れ始めている、というのが正直なところだった。  紫翠が館の楼閣の最上階にある部屋へ入っていくと、狩衣を着た長身の男が出窓に腰かけ外を眺めていた。  背まで届くプラチナブロンドの長い髪、双角はつややかな漆黒である。  羅刹の一族と双璧を為す、夜叉の一族の後嗣、槐威玄月。  天界との連絡役である玄月は、紫翠とは幼なじみで親友の間柄だった。 「そんなところから覗いても、何も見えないだろう」  天界と人界の狭間に建つ闇の館は、常に濃い霧に包まれ青鈍色の薄闇に閉ざされている。  狩衣に着替えた紫翠の声に、玄月は人懐っこい笑みを浮かべ振り向いた。  彫りが深く、目鼻立ちの整った美丈夫である。どちらかというと、削げた頬が精悍で野性的な雰囲気の紫翠より、おっとりとしなやかな感じがする。 「久しぶりだな。元気そうで何より」 「お前と違って、疲れるほどの働きはしていないからな」  紫翠はつい、自嘲めいた台詞を吐いた。  やはり、幼なじみで気の置けない玄月相手だと、普段は口にしない愚痴も洩れてしまう。  部屋の中央に据えられた紫檀のテーブルに、小姓たちの手で酒の支度が調えられていた。  向き合って座ると、紫翠は久方ぶりに玄月と酒を酌み交わした。 「薄月の香合が出たって?」  玄月の問いに、紫翠は首を振った。 「いや、違った。確かに見事な堆朱で、おそらく同じ手による物だろうが、あれは薄月の香合ではなかった」 「なんだ。また先読みの空振りかよ」  やれやれと肩を竦め、玄月はため息をついた。  薄月の香合は、今から六百年ほど前に九鼎庫から、脱走者の手によって持ち出され行方知れずとなってしまった名品である。  天界に住まう天人だからといって、すべてが悟りを開いているわけではないし、煩悩からも解放されてはいない。  むしろ、生まれ落ちた瞬間から身分によって住まう階層までが隔てられ、厳しい戒律に縛られる生涯を、窮屈で息苦しいと感じる者も少なからずいた。  自律と節制を要求される堅苦しさに耐えかね、自由を求めて人界へと脱走する者が、行きがけの駄賃とばかりに天界の宝物を持ち出すことがあった。  人界で贅沢三昧に暮らすためには、それなりの資金がいる。  そして、天界の宝物は、人界で驚くほどの高値で取引される。  たいていは、宝物を金に換える間もなく追っ手に捕縛され、宝物も無事回収される。  だが、中には首尾よく追っ手から逃げおおす者もいて、そういう者に持ち出された宝物は人界に紛れ行方不明となることもあった。  人界で古美術品のコレクターとして知られた人物が蒐集した名品の中に、薄月の香合が含まれているらしいとの情報を得て、紫翠は板倉美術館まで確認に出向いたのだった。  しかし、展示されていた香合は名品だったが、紫翠が探し求める物ではなかった。  もっとも、元は天界の宝物と分かっても、人界の板倉美術館所蔵となってしまっては、おいそれと取り返すこともできないが――。 「ところで、近々龍の宝水鑑(ほうすいかん)が動くらしいよ」  わずかに声を落とし、玄月が伏し目がちに言った。 「まさか、あの宝水鑑が動くというのか?」  唇を引き結び、玄月は小さくうなずいた。  宝水鑑とは、青銅製の脚つき水盤のことである。  九鼎庫には脚つきの水盤がいくつか保管されていて、覡が先読みをする時に使われる。  その中に、側面に龍の浮彫りが施され、龍の宝水鑑と称される特別な宝水鑑があった。  龍の宝水鑑が贄の血で満たされると、浮彫りに封印された龍が目覚め、天界と冥界を隔てる扉の鍵をもたらす、と言い伝えられている。  だがそれも、人の世で千年あまりも昔のことで、天界でも詳細は不明になっている。 「確かなのか」 「ああ。神殿の覡のご託宣だ」  黙ってうなずいた紫翠の表情を窺うように、玄月がそっと目を向けた。 「なんだ」 「誰が先読みしたか、気になるかなっ、と……」  片眉をわずかに上げ、紫翠はなんの感情もこもっていない目で玄月を見た。 「梛祇(なぎ)が先読みしたのか」  玄月は微かに首を振った。 「梛祇じゃない。梛祇は奥殿へ入ったらしいから、もう先読みはしないんじゃないの? 梛祇なら、もっと焦点を絞った先読みをしてくれるんだろうけど。今回の香合の件もそうだけど、最近の先読みは、精度もぬるいし詳細は不明ばっかりだよ。ひょっとしたら、すでに動いている可能性もあるってさ」 「宝水鑑が動くとなると、あちらの方の動向も気になるな」  玄月のぼやきをさらりと流した紫翠に逆らわず、玄月もあっさり話を変えた。 「当然、あちらでも情報は察知しているだろうからねえ」  遙かに遠い昔、この世に光が生まれると同時に影も生まれた。  光の象徴として降臨した天帝とともに、闇の象徴天魔皇もまた世に現れた。  だが、どこまで行っても影は影でしかない。  天帝と相似形でありながら、決して表には出られない己の存在に、天魔皇が次第に不満を募らせていったのも無理はなかった。  きっかけはなんだったのか、今となってはもう分からない。  ある日、天魔皇は叛乱を起こし、天帝に戦いを挑んだ。  もちろん、天帝も軍勢を率い、即座に応戦した。天界を二分する戦いの始まりである。  しかし、天帝と天魔皇、互いに同等の力を持つ者同士が本気で戦ったら、天界ばかりか人界も冥界も三界すべてが引き裂かれてしまう。  何より、光と影は表裏一体、影は光なくして存在できず、光もまた影なくして輝くことはできない。それはおそらく、天帝はもとより天魔皇自身も承知していたことなのだろう。  やがて天魔皇は自ら矛を収め、天界を出て冥界へと座を移し今に至っている。  だがそれが、天魔皇の本意でないことくらい、誰もが知っていることだった。  本来、天魔皇は『魔』ではなかった。  人々の望みを叶えてやりたい、欲望を満たしてやりたいと思う気持ちがあまりに強く、結果的に人を際限もなく甘やかすことになったのである。  そのことにより、人々が心に隠し持っていた闇はよりいっそう濃く深くなり、欲望はいたずらに肥大してしまった。  そしてついに、天魔皇は人々に災厄をもたらす存在となってしまったのだった。  しかしながら、天帝と同等の力を持つ天魔皇を、封印することなど誰にもできない。  今は冥界から天界へ通じる扉を封じることで行き来を阻止しているが、万が一、天魔皇が宝水鑑を手に入れ扉の封印が解かれてしまったら――。  何よりもやっかいなのは、天界には今に至ってもなお、密かに天魔皇に心を寄せている者が存在するということだった。 「面倒なことにならなければいいが」  呟いた紫翠に、玄月も顔をしかめて同意する。 「何か手がかりはないのか」  懐から、玄月は一枚の写真を取り出した。 「この人間が、深く関わるだろうとのご託宣だ。ただし、さっきも言ったように、詳細はいっさい不明。人界のどこにいるのかも分からない」  受け取った写真を一目見るなり、紫翠は目を瞠った。  板倉美術館の猿投の壺の前で、時間も忘れたように立ち尽くしていた青年。  たった一瞬で、紫翠を強く惹きつけてしまった、あの秀麗な青年。  できることなら、神隠しのようにこの館にさらってきてしまいたかった。  この八百年あまりの間、そんな感情に囚われたことはただの一度もなかったのに――。 「これは……」 「知ってるの?」  問いに首を振りながら、紫翠は我知らず口元に仄かな笑みを浮かべていた。 「いや、知らない。だが知っている」  謎めいた呟きに、怪訝そうに眉をひそめた玄月には何も言わず、紫翠は渡された写真を大切に懐へしまった。

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