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第3話

 玄月が天界へ戻った後、紫翠は酒杯を手に玄月が座っていた出窓から外を眺めていた。  眺めるといっても、見えるのは館を覆い尽くす青鈍色の濃い霧ばかりである。  薄ぼんやりとした光を内包しているものの、視界はおそらく十メートルもないだろう。  ここでは風も吹かないから、この霧が晴れることは決してない。  四六時中、もののあわいもはっきりしない世界に置かれていると、次第に心まで闇に浸食され虚ろになっていくような気がする。  いっそ、真の闇に閉ざされていた方が、まだ諦めもつくのかもしれないとさえ思う。  ここへ墜とされて最初の五百年、紫翠はこの館から一歩も出ることを許されなかった。  やがて、天界からの脱走者の捕縛、持ち出された宝物の捜索という任務が与えられ、次元回廊で繋がった人界に館を持ち住まいすることも許された。  人界で久々に気持ちの良い風に吹かれ、思う存分陽射しを浴びた時、確かに歓喜した。  でも、久しぶりの自由は、己の真の姿を隠し、人に紛れて暮らす仮の姿でしかなかった。  もう二度と、天界の森で木漏れ日を浴びながら水浴をする真の自由は得られない。  しかも、自分も追放された身であるのに、天界からの脱走者を追わなければならない。  そんな矛盾に苦い自嘲を噛み殺しながらも、自分は天界の安寧を守護する羅刹の一族なのだという自負に支えられ逃げることなく踏み留まってきた。  どんな状況に置かれようと、羅刹の名に恥じない務めを果たさなければならない。  それは紫翠にとって、最後に残された矜恃だった。 「梛祇か……」  杯の酒を干し、濡れた唇を歪めるように呟く。久しぶりに口にする名前だった。  梛祇は神殿に仕える覡で、類い希なる先読みの力を持っていた。  紫翠が梛祇と出逢ったのは、父とともに宮城の警護に赴いた時だった。  宮城の警護は、羅刹の一族と夜叉の一族が一年交替で務めている。  春、一年間の任務を終えた夜叉の一族に代わり、羅刹の一族が警護の任に就いた。  警護は、三つの小隊の交代制となっていた。紫翠も頭領である父から小隊を一つ任され、五十名ほどの武者を指揮して警戒にあたっていた。  気の抜けない勤務を終えようやく非番になると、昼夜にかかわらず、誰もが待ちかねたように酒を飲みに繰り出していく。鬼神は、たいていが大酒飲みなのである。  紫翠だって酒は大好きだったが、まだ陽の高いうちから騒々しい酒場へ行く気にはなれず、昼間はひとり宮城近くの森へ入ることにしていた。  森には清らかな泉が湧き出ていて、木漏れ日に水面がきらきらと燦めいていた。  泉のほとりで重い鎧を脱ぎ捨てると、ようやく緊張から解放され深呼吸できた気がする。  諸肌脱ぎになり、紫翠は冷たい水に浸した手拭いで汗を拭った。  そこへ思いがけずやってきたのが、同じようにひとりで散策していた梛祇だった。  白絹の切袴に玉虫色の紗の千早を着た姿を見て、すぐに覡だと分かった。  小作りの白い顔の中に、円らかな目や愛らしい唇が絶妙なバランスで配置されていた。  秀でた額も通った鼻筋も、頬に影を落とす睫毛の長さも、何もかもすべてが美しく、そして凜とした清しさを湛えていた。  惚けたように見とれてから、ハッと我に返った紫翠が『失礼した』と声をかけると、梛祇は絹糸のような長い髪を揺らし『こちらこそ』と含羞んだように微笑んだ。 『宮城の警護を仰せつかっている、羅刹の紫翠と申す者です』  慌てて肌を隠し名乗った紫翠に、『わたしは梛祇と申します』と丁寧に答えてくれた。  すぐに立ち去ってしまうかと思った梛祇は、思いがけず紫翠の近くの石に腰かけ、話し相手になってくれた。 『わたしはそろそろ戻らないと……』  梛祇が腰を上げた時、紫翠はまたぜひ会いたいと強く思った。  でも、天人に向かって、鬼神の方から次の約束など言い出せるはずもない。  ましてや、梛祇は清廉を旨とする覡である。  名残惜しい思いを抱きつつ、紫翠は森の小径を歩いていく梛祇を見送るしかなかった。  梛祇の姿が見えなくなってからも、紫翠はぼんやりと泉のほとりに座り込んでいた。  紫翠の次の非番は夜だった。  夜ではさすがに、あの覡が散策に来ることもないだろう。  そう思いながらも、紫翠は酒盛りの誘いを断り、ひとり森の中へ入っていった。  すると、思いがけず月明かりに蒼く濡れた森の中に佇む梛祇を見つけ息を呑んだ。 『今夜ここへ来れば、紫翠様にお会いできると分かりましたので……』  紫翠はその時初めて、梛祇が類い希なる先読みの力を持った覡なのだと知った。  しかも、梛祇は天界で天帝に次ぐ権力を持つ、神官長の息子だった。  神官長には、ふたりの息子がいた。息子たちはそれぞれ違う力を持って生まれていたが、神官長は先読みに秀でた末息子を溺愛しているという噂だった。  その神官長自慢の末息子こそ、梛祇だったのである。  今にして思えば、あの時すでにふたりは恋に墜ちていたのだった。  だが、そもそも身分違いの許されざる恋である上に、梛祇は、覡として純潔、清浄を堅く守らなければならない。  誰にも見られないよう、初めて出逢った森の中でふたりは密やかな逢瀬を重ねた。  命をかけても悔いはない、と思うほどの真剣な恋だった。  だからこそ、万が一にも梛祇を穢すようなことがあってはならない。  そうきつく自身を戒め、紫翠はいつも梛祇から少し離れて座り、抱きしめるどころか、指一本触れることすらせず、ただその美しい横顔を見ていた――。  梛祇もまたそんな紫翠の純情に、想いのこもった真摯な眼差しで応えてくれた。 『二十歳になれば、願い出て覡の勤めを終えることができます。そうしたら、なんとしても父に許しをもらって、わたしは紫翠様のもとへ赴きたい』  だから、どうかそれまで待って欲しいと、梛祇は懇願した――。 『待つとも。梛祇が自由の身になれる日まで、俺はいつまでだって待っている』  ためらわず答えた紫翠に、梛祇はこぼれるような笑みを浮かべ嬉しげにうなずいた。  それなのに――。  ぎりっと奥歯を噛みしめ、紫翠は杯をあおった。  ある日、ふたりの仲が、梛祇の父である神官長に露見してしまった。  類い希なる先読みであっても、自分自身の先を読むことは禁じられている。  森の中でふたり一緒にいるところを見つかり、神殿へ引き立てられていくことになるとは、紫翠はもちろん梛祇も知ることはできなかった。  それでも、紫翠はまだ望みを捨てていなかった。  もとより困難は承知の恋だった。こうなったからには覚悟を決め、なんとかふたりの仲を許してもらえるようにしたいと、懸命に考えを巡らせていた。  もちろん、梛祇も同じ思いでいるに違いないと、信じて疑わなかった。  だが――。  沙汰の間に引き据えられていた紫翠の前に、父である神官長とともに現れた梛祇は、にわかには信じられない豹変を遂げていた。 『言い寄られて、迷惑していたのです。でも、相手は鬼神。怖ろしくて拒めませんでした。わたしは純潔、清浄を旨とする覡。鬼神などと相愛になるわけがありません』  唇をふるわせ涙ながらに父に取り縋る梛祇を、紫翠は愕然と見つめるしかなかった。  いったい、梛祇に何があったのか――。  正直、言いたいことも訊きたいことも山ほどあったが、梛祇が心変わりしてしまったのであれば、未練がましく醜態を晒したくはなかった。  裏切られた衝撃や怒りはもちろんあったが、それでも、今ここで梛祇を護ってやれるのは自分しかいないと思う気持ちの方が勝っていた。  命をかけても悔いはないほど、心底梛祇が愛しいと思った気持ちに嘘はない。  どちらにしろ、覡と恋仲になった紫翠が無罪放免になることはあり得ないだろう。  ならば、梛祇を庇って不逞の輩の烙印を押されるくらい、何ほどのこともない。  紫翠は瞬時にそう覚悟を決めた。  だから、一切の異議申し立てをすることなく、紫翠はこの闇の館へと墜とされてきた。  あれから八百年、梛祇は神官となるための修行を積むために、神殿の奥へ引きこもったと風の噂に聞いた。そんな梛祇からの連絡は、当然ながらただの一度もない。  今さら梛祇に未練はなかったし、どうしているかと思うことすら絶えてなかった。  紫翠にとって、梛祇とのことはすでに終わったことだったのである。  それでも、心に刺さった棘はいまだに抜け落ちていないらしい。 「情けない」と、紫翠はひとりごちた。  玄月に気を回されたくらいで、胸の奥が軋むとは――。  梛祇を愛したことを、今も紫翠は悔いていなかった。  ただ、ここで自分はこのまま潰えるのを待つしかないのかと思うと、ないはずの風が胸の中を吹き抜けていく気がするのだった。

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