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第4話

 商社マンだった渚の祖父柊平(しゅうへい)は、趣味が昂じて骨董屋を開いてしまった粋人だった。  それが、今、渚が引き継いでいる『古美術涯堂(みぎわどう)』である。  渚の父恒輔(こうすけ)はエンジニアで、何事にも徹頭徹尾合理性を優先する男だった。そんな人間に、焼成の炎が焼き物にもたらす偶然の景色の妙など、理解できるはずもない。  まして、いくら中国明時代に造られた逸品なのだと説明されても、花瓶一つに三百万円も支払ったと聞かされては息子として穏やかではいられない。  当然ながら、恒輔は柊平の骨董趣味を浪費としか捉えなかったし、店を始めてからも経営に口を挟まない代わりに資金も一切出さないというスタンスを崩さなかった。  母聡子(さとこ)も、誰の持ち物だったか分からない骨董品など、気持ちが悪くて触りたくもない、と顔をしかめて言い放っていた。  でも渚は、幼い頃から祖父の傍らで骨董の話を聞くのが大好きな、母に言わせれば『本当に変わった可愛くない子供』だった。  渚がそうなった理由の一つには、二歳違いで生まれた弟翔(しょう)が虚弱だったことがあった。  父は仕事で忙しく、翔の世話だけで手いっぱいとなった聡子は、頻繁に幼い渚を柊平夫婦に預けるようになった。  そんな事情もあり、いつの間にか両親よりも祖父母に懐いてしまった渚を、聡子はあまり可愛いと思えなくなってしまったようだった。 『翔は可愛いけれど、渚はね』と、聡子はあからさまに口に出して言った。  母には母の言い分もあったのかもしれない、と、大人になった今では思うこともできるようになったが、幼い渚を前にして、『この子、本当にあたしの子供かしら。病院で間違えられたんじゃないの?』などと言う母親は、残念ながらよい母親ではあり得ない。  それでも、渚は弟のように母に愛されたかったから、我が儘も言わず、甘えたい気持ちさえも我慢して、母の望むよい子でいようと幼いながらに頑張った、つもりだった。  でも、母はとうとう渚に振り向いてはくれなかった。  そんな渚の寂しさを補ってあまりあるほどに、祖父母は渚を心から愛しんでくれた。  渚が中学二年の時に、優しかった祖母榛子(はるこ)が亡くなった。  ひとりになってしまった祖父を案じ、渚は自分が祖父と一緒に住むと言った。  ちょうど父も母も、翔の中学受験で頭がいっぱいの時期だったことも手伝ってか、さしたる反対もせずあっさりと認めてくれた。  でも、祖父が亡くなった後、渚が店を継ぐと言い出した時は、両親揃って猛反対だった。  当時渚はまだ十九歳で、大学に入ったばかりだった。  父も母も、未成年に古美術店の経営など、できるはずがないと頭から決めつけた。  店は閉めると言う両親に、渚は自分に任せて欲しいと必死に懇願した。  幼い頃から聞き分けがよく、我が儘も言わず、駄々をこねることなど一度もなかった渚が、何度ダメだと言われても諦めずに頼み続けるのを見て、父もさすがに何か感じるところがあったのかもしれない。  母は最後まで反対したが、父は大学をきちんと卒業することを条件に渋々認めてくれた。  もっとも、父にしてみれば、いったん渚に店を任せても、どうせすぐに行き詰まって処分することになると高を括っていたのかもしれない。  だが、柊平の知己だった古美術商仲間や常連客に支えられたこともあり、それから六年経った今も、涯堂は細々ながら健在だった。  渚が涯堂を継いですぐ、父親のロサンゼルス赴任が決まった。両親は当然のように、弟の翔だけを連れてアメリカへ旅立っていった。  それから五年あまりが経ち、父親は会社を辞めてアメリカで起業したと聞いたが、今ではもう連絡がくることも絶えてなくなってしまった。  両親も弟も、アメリカの水が合ったらしく、帰国の意思はどうやらないらしい。  もしかしたら、もう会うこともないのかもしれない、と渚は思っていた。  それを哀しいとは思わなかったが、寂しさはやはり渚の心の底に沈んでいた。  板倉美術館で紫翠と遭遇してから十日ほどのち、渚は仕入れのために競売に参加した。  東京古美術商倶楽部は、大正の初めに設立された歴史のある古美術商の組合である。  倶楽部で定期的に開催される、古美術品の競売に参加できるのは組合員だけ。一般人は、競売を見学することもできない。  組合員となれるのは、古物商許可証を持ち組合員六人の推薦を受けた者で、なおかつ倶楽部事務局の厳しい審査を通った者だけだった。  まだ年も若く実績もそれほどない渚が組合員になれたのは、柊平の商売仲間だった古美術商たちが揃って推薦してくれたおかげだった。 『渚君が涯堂さんの孫だからじゃないよ。皆、渚君の骨董を見る目に惚れてるんだ』  そう言って、彼らは渚を組合員に推薦してくれたのだった。  彼らの期待に、渚は鮮烈に応えてみせた。  初めて参加した、言わばデビュー戦ともいうべき競売で、渚は天竜寺青磁の水挿しを五百万円で競り落とした。  天竜寺青磁は中国元時代の磁器だが、蒐集家に人気があるだけに贋物も多い。  でも自分の目を信じて、新参者でも怖めず臆せず踏み込んで手を上げた渚に、推薦者たちは喝采の声をあげ喜んだ。  渚が競り落とした水挿しは、十日と経たないうちに八百万円で売れた。  以来、骨董の世界ではまだまだ駆け出しの若輩者にもかかわらず、渚は年上の同業者たちからも一目置かれる存在となりつつあった。 「今日は、織部のいい茶碗が出るらしいね」  受付で顔を合わせた、顔馴染みの骨董商松浪(まつなみ)が渚に囁いた。  ロイド眼鏡に蝶ネクタイがトレードマークの松浪は、柊平とも親しかった骨董商である。  そろそろ五十に手が届くくらいのはずだが、茶目っ気たっぷりで偉ぶったところは少しもない。一見、軽そうに見えるが、骨董に関する知識は豊富で、目利きの確かさは柊平も一目置くほどだった。 「松浪さん、今日は織部狙いですか?」 「おや、織部狙いは渚君かと思ったけど? まあ、まずは内見。話はそれからだな」  すかさず牽制球を投げてきた松浪に、渚はクスッと笑った。 「なかなか手強そうだなあ」  大正時代に建てられ運よく空襲での焼失を免れた東京古美術商倶楽部は、和洋折衷の趣ある重厚な建物で映画などの撮影にもよく使われている。  緋色の毛氈が敷かれた二階へと続く螺旋階段を、渚は松浪とともに上っていった。 「嶺岸コレクション、見に行ったかい?」 「行きました。ため息の出るようなコレクションでした」 「鍋島色絵の尺皿があっただろう」 「石榴の絵の皿ですか?」 「うん。あれは、迫田(さこた)さんの先代が納めた品だそうだよ」 「そうなんですか?」 「あれなら、都心のタワーマンションの最上階が、楽勝で買える値がつくだろうな」 「そうでしょうね」 「織部もいいけど、あんな大物が出てこないもんかいな」 「うふふ。僕は、猿投の長頸壺の方が気に入りました」 「さすがに目のつけどころが違うな。確かに、あれは渚君の好きそうないい壺だったね」  恥じらったようにうなずいた渚の脳裏に、長頸壺の前で出逢った男の姿が浮かんでいた。  真っ直ぐに自分を見つめてきたあの目……、と渚は思った。  鋭いけれど決して威嚇的ではなく、視線に吸い寄せられるような錯覚さえ感じさせた。  十日あまり経った今もはっきりと思い出せるほど、渚に強く鮮やかな印象を残していた。  内見場に当てられた広間には、すでに大勢の古美術商たちがつめかけ、それぞれ真剣な眼差しで陳列品の品定めをしていた。  渚も松浪と別れ、何か出物はないかと見て回り始めた。  萩焼や黄瀬戸など、今回の競売は渚好みの品物が多かったが、どれも踏み込んで買おうと思うほどではなかった。  松浪が言っていた織部の茶碗はどこにあるのか、と会場内を見回した渚の目に、片隅で異彩を放っている青銅器が飛び込んできた。  ずらりと並べられた掛け軸の足下に、まるで置き忘れられたかのように陳列されている。  売れ筋の古伊万里や古九谷の皿の周りには人だかりができていたし、掛け軸を品定めしている人はいたが、青銅器には誰も注意を払っていないようだった。  どちらかというと陶磁器を中心に陳列された今回の出品物の中で、四つ脚のついた青銅器はいかにも無骨で場違いだった。  にもかかわらず、それは一瞬で渚の目を引きつけ心を捉えてしまった。  渚は真っ直ぐに青銅器に歩み寄った。 「水盤だな」と渚は呟いた。  かなり古そうだが保存状態はよく、側面には龍の浮彫りが施されている。  珠を掴んだ爪の数は、三界を守護する意味があると伝えられる三本だった。  おそらく、かなり腕の立つ職人によって施された細工らしく、咆吼する龍の漲る気迫がこちらまで伝わってくるような見事な出来だった。  今、これだけの精緻な細工ができる職人は、おそらくもういないだろう。  これまで、青銅器を扱った経験も知識もなく、渚に分かるのはそれくらいだった。  渚に骨董を教えてくれた祖父柊平も、おそらく扱ったことはないのではないか、と思う。  少なくとも、渚が涯堂の店内で青銅器を目にしたことは過去一度もなかった。  にもかかわらず、なぜか渚は古びた水盤の前から立ち去ることができなかった。 「渚君、どうしたの? その水盤が気に入ったのかい?」  松浪にさも意外そうに声をかけられて、渚は曖昧な笑みを浮かべ首を振った。 「青銅器には詳しくないんですが、これだけの浮彫りがしてあるのは珍しいですよね」 「そうだなあ。かなり古そうだけど、こんなの誰が持ち込んだんだろう」  腕組みをした松浪も、水盤に興味はなさそうだった。  やがて、競売が始まった。  渚は、比較的手頃な値で売れそうな茶道具を、いくつか競り落とした。  そろそろ競売も終盤にさしかかった頃、ついにあの水盤が登場した。  予想通りと言うべきなのか、百万から始まった競売は低調だった。  何人か手を上げた古物商がいるにはいたが、値は這うようにしか上昇していかない。  せいぜい上がっても三百万くらいかな、と渚は胸算用した。  それなら、落札してもいいか――。  胸の裡でそう呟いた渚の背後から、「百五十五万!」と勢いのある声がかかった。  それに呼応するように、渚が「百六十万」と声をあげると、隣に座っていた松浪が驚いたように顔を向けている。  会主は百六十万で決まりだと思ったようだったが、「百六十万、他にありませんか?」と念を押すように会場内に声をかけた。  すると、「百七十万!」と、横合いから声が飛んだ。 「百八十万」  渚もすかさず応戦する。 「二百万!」  にわかに熱を帯びた会場内に、ざわめきが広がった。  隣では、松浪が唖然としている。  地を這うようにじわじわとしか上がらなかった水盤の値は、渚の参戦を機に様相が変わり一転して天を突く勢いで上昇を始めた。  それは渚が参戦したから、というわけではなく、ちょうど潮目の変わるタイミングだったという感じだった。  おかげで渚が想定した三百万円という値はあっという間に超えてしまい、それでも留まるところを知らないように値上がり続けている。  ついに値が八百万円を超えると、競売は渚ともうひとりの古物商の一騎打ちとなった。 「九百八十五万」と刻んだ相手にとどめを刺すつもりで、渚は「一千万」と天を突いた。  おお……、と会場内にどよめきがあがった。  ところが――。  きれいに決まったと思ったのに、「一千五十万」と、相手が食い下がってきた。  なるほど、一歩も引くつもりはないってわけだ――。 「一千百万」と負けずに渚は声を張った。  自分でも、意地になっている自覚はあったが、絶対にあの水盤を人手に渡してはならないと思う気持ちが、自分の中でどんどん膨らんでいるのも感じる。  そういう時は、算盤勘定ではなく感じたように動けと教えてくれたのは柊平である。  だから渚は、一瞬も迷わなかった。 「一千二百万」  今度こそ、の思いを込めた渚の声に、ついに競合相手は沈黙した。 「渚君、大丈夫かい?」  囁いている松浪に、渚は照れたように首を竦めた。 「なんか、つい熱くなっちゃいました。でも、大丈夫です」  そう言いながら、なぜあんなに急に周りが見えなくなるほど夢中になって競り落としてしまったのか、自分でも分からないと渚は内心で首を傾げていた。

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