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第5話

 玉川上水にほど近い裏通りにひっそりと建つ『古美術涯堂』は、何事にも凝り性だった柊平が軽井沢から移築した古い洋館を改装したものだった。  L字形をした建物は間口よりも奥行きが広く、柊平が丹精した中庭を懐に抱え込んでいる。L字形の一番頭に当たる部分には、閉店することになった長野の古い酒屋で使われていたのを移築した土蔵があり、家の中から直接出入りできるようにしてあった。  従業員は店主の渚ひとり。だから、渚が所用で外出してしまうと、店は閉店となる。  そんな営業時間も一定しない不定休の店へ、常連客たちは無駄足になってもいい覚悟でせっせと通ってきてくれる。  おかげで、大儲けもしない代わりに大損もせず、店は細々でも順調に続いていた。  競売から一夜明け、昨日、競り落とした品物を店先に並べた渚は、蔵へ続く座敷であの青銅製の水盤を眺めていた。  日だまりの中、水盤はしんと沈黙している。  見れば見るほど、不思議な水盤だ、と渚は思った。  側面に施された龍の浮彫りは精緻で見事な出来だが、それ以外はこれといってなんの変哲もない水盤である。  でも、妙に人を引きつけて放さないところがある、と渚は思っていた。  競売にこの水盤を持ち込んだ骨董商に話を訊いてみたかったのだが、昨日は会うことができなかった。帰宅してから、ネットで少し調べてみたが同じような物は出てこなかった。  おそらく、祭祀か何かに使われた物だろうと思うのだが――。 「さて、困ったな」  座敷でひとり腕組みをして、渚は思わず呟いた。  松浪には大丈夫だと大見得を切った渚だが、千二百万円の決裁は簡単ではない。  何しろ、支払いは水盤の代金の他にも諸々あるのだから――。  渚は、柊平がよく言っていた言葉を思い出していた。 『本当にいい物なら、時間がかかっても必ず売れる』  まだ六年ほどのキャリアだが、確かにその通りだと渚も思う。 「だけど、時間がかかっても、っていうのが問題だよな。支払いは来月なんだから……」  それでも渚は、水盤を競り落としたことを、少しも後悔はしていなかった。  超絶技巧の龍の浮彫りだけでも、滅多にない逸品だと思うのである。 「ま、考えても仕方がないや」  なんとかなると楽天的に腹を括り、渚は水盤を蔵へしまった。  少しでも早く売りたいのが本音なのだから、本当ならすぐにも店先へ並べた方がいいに決まっている。  でも、なぜだかこれはあまり人目に曝さない方がいいような気がするのだった。  渚が店先へ出てくるのとほぼ同時に、出入り口のドアが勢いよく開いた。 「いらっしゃいませ」  振り向きざまに声をかけた渚は、微かに目を瞠り立ち竦んだ。  立っていたのは、紫に白紋の切袴、白衣の上に格衣を羽織った、一目で神職と分かる男性だった。  かなり背が高く、豊かなグレイヘアをオールバックに撫でつけている。肩幅も胸板も分厚く、神職の装束が借り物に見えてしまうほど厳つい身体つきをしていた。  渚が驚いたのは、男性の目の獰猛さだった。  ぎょろりとした大きな目に浮かんでいる光は威圧感たっぷりで、失礼ながら神職というよりヤクザの方がぴったりくると思うような凄みがある。  男性はずかずかと店の中へ入ってくると、まるで睥睨するように店内を見回した。 「何か、お探しですか?」  静かに声をかけた渚へ、男性はぎろりと視線を巡らせた。  一八〇センチには少々足りないが、渚だって特に小柄というほどではない。  その渚を、男は悠々と真上から見下ろしていた。 「ここに、青銅製の水盤があるはずだ。四つ脚で、龍の浮彫りがしてある」  押しつけるような声音に、渚は間を取るようにゆっくりと瞬きをした。  まさか、こんなに早く買い手がつくとは思わなかった。  本来なら、諸手を挙げて大喜びなのだが――。 「よくご存じですね。どちらから、お聞きになってこられたのですか?」 「昨日、ある骨董屋に頼んで競り落としてもらおうとしたが、資金がショートしてしまい競り落とせなかった。誰が持っていったのかと訊いたら、ここを教えてくれた」 「そうでしたか……」  ゆっくりと、渚は答えた。 「あれは、当神社の大切な社宝なのだ。不逞の輩に売りに出されてしまったが、是が非でも買い戻したい」  なるほど神社の社宝だったのか、それなら納得すると渚は内心で思った。  どうやら、この男性は嘘はついていないらしいが――。 「金は一千万円しかない。残りは分割にして払うから、すぐに売ってくれ」  商売だから、本来、損をして取引することはできない。それでも、時には、客のどうしても欲しいという意気に感じて、仕入れ値より安く譲り渡すこともある。  だから、この男性に『それなら、一千万円でけっこうですよ』と言うのは簡単だった。  でもなぜか、この男性に水盤を渡してはいけない気がする、と渚は思った。  それはほとんど直感だった。子供の頃から、渚は妙に勘の鋭いところがあった。  そして、渚の直感がこれまで外れたことはない。  やっぱり、あの水盤は店に出さずにおいて正解だった、と渚は思った。 「失礼ですが、お客様はどちらの神社の方でいらっしゃるのですか?」 「そんなことは、どうでもいいだろう!」  渚が探りを入れた途端、男性は店中に響き渡る大声で怒鳴った。 「さっさと、水盤をここへ持ってこい!」 「申しわけありません」  いきり立つ男性をいなすように、渚は丁寧に頭を下げた。 「あれはもう、売れてしまいました」 「なんだと! 嘘をつけ!」 「いえ、嘘ではございません。昨夜のうちにお声がけがありまして、今朝一番で引き取っていらっしゃいました」  直感は確信に変わり、渚は下げていた頭を上げきっぱりと言い切った。 「ですから、もうあれはこちらにはございません」 「誰だ!? どこの誰が買っていったのだ!?」  掴みかからんばかりの男性の目を、渚は怯むことなく見つめ返した。 「それは申し上げられません。お客様の個人情報を明かすことはできません」  まるで狼が唸っているのではないかと思うような声を喉奥から発し、男性は忌々しげに渚を睨みつけている。  渚も、一歩も引かない覚悟で口を引き結んでいた。でも本当は、足がふるえている。 「買い戻せ! すぐに買い戻してこい!」 「そんなことはできません。当方が一度正式にお譲りした物を、事情が変わったから戻して欲しいなど言えるわけがありません」  両手の拳を握りしめ、男性は肩が上下するほど荒い息をついていた。  これは本気で殴られるかもしれないと思いつつ、それでもなけなしの勇気を振り絞り、一歩も引かない覚悟で渚も男性を見つめ返した。  ふるえそうになる声に力を込め、強いてゆっくり、一言一言、言葉を継ぐ。 「骨董は縁の物です。もしお客様とあの水盤に、切っても切れない縁が結ばれていれば、いつかお客様の手元に戻る日がくるかもしれません」 「縁、だと……」 「はい。器物百年を経て、化して精霊を得る、と申します。あの水盤にも、すでに心が宿っているかもしれません。だとしたら、自ら己の居場所を定めることもあるかと……」  自ら己の居場所を定める、と渚が口にすると、男性の表情が微かに変わった。  驚きや怒りではなく、ほんのわずかだが怯えが滲んだように感じられた。 「本当に、もうこの店にはないのか!?」 「申しわけありません」 「馬鹿にしやがって!」  捨て台詞を吐き、不意にくるりと踵を返すと、男性は足音も荒々しく店から出ていった。  思わず、胸の底をさらうような安堵のため息をついて、渚は上がり框にへたり込んだ。  恐ろしさと緊張で手足の先が冷たくなって、立ち上がろうにも身体に力が入らなかった。 「別に、馬鹿にはしなかったつもりだけど……」  ちょっと嘘はついちゃったけど、と空元気を振り回すように胸の裡で続け、渚はもう一度沁み入るような深いため息をついていた。

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