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1:発情《ヒート》

 今日は至上最大の厄日だ。  桔梗は息をぜいぜいと喘がせ、土砂降りの中よろめきながら、帰巣本能に従いひたすら足を動かす。  スーツは濡れて吸水すらも飽和してしまったのか、裾や袖口からボタボタと雫が落ち、シャツも下着も靴下も雨でぐっしょりと濡れて気持ちが悪い。  革靴も中に入った雨水でグッチョグッチョと歩くたびに、嫌悪感に拍車が掛かっている。多分、乾かしたとしても使い物にならなくなっただろう。  こんな事なら、普段から合皮の靴にしておけば良かったと後悔ばかりがのしかかる。  人が相手を見る時は足元を見られるから、靴はしっかりした物を履くのが良い、と昔父親から聞かされた為に、桔梗は普段から靴だけにはお金を掛けて本革の名のある店で購入していたのだ。  空を見上げれば黒い空から水の塊のような雨が、桔梗の頬を叩く。パタパタと頬を叩いては弾けて伝う。 「早く家に帰りたい……」  気分はさながら帰宅困難者のような心境だが、今の状態で電車やタクシー等の交通公共機関を使用すれば、自分の貞操の危機になり、挙句には実家に多大な迷惑がかかってしまう。  残る選択肢は自力で家に帰り、緊急措置用の注射を打たなければならない。  桔梗はぐっと唇を噛み、熱でふらつく体を励まし、歩く事にしたのだった。  あれから。  理不尽な解雇を言い渡され、通勤の波に逆らって駅に向かったものの、すぐに家に帰る気分にはなれず、英気を養おうと駅ビルの中にあるカフェで早めの昼食を取った後、いざ帰ろうとした時にそれは訪れた。 (……やばい。発情期(ヒート)が……!)  桔梗は毎朝、定期的に発情抑制剤を服用していた。今朝も出勤前にちゃんと薬を飲んだ筈なのに、今自分の体に起こっているのは、桔梗が嫌悪しても逃れる事のできない現象。  発熱したように体の芯が熱く、肌がやけに敏感となり、自分が吐く呼気ですら感じてしまう。  オメガである以上、定期的にやってくる事象を乗り切ってきた筈なのに、予想外のヒートに脳内が混乱する。  ひとつ思い当たるとすれば、今回の騒動のせいで、桔梗のホルモンがバランスを崩した可能性がある。朝の微妙な不調は、これを暗示していたのかもしれない。 (このままココに居ては、お店に迷惑がかかってしまう)  乱れる呼吸を整え、首の後ろに手を添えたまま、すぐさま席を立つ。  レシートの金額も見ず財布から一万円札を取り出すと、テーブルに叩くように置き、慌てて店を後にする。  背後から店員らしき女性の声が聞こえてきたが、そんな事に構っていられない。それに、カフェで飲食したにしても、一万円は十分おつりが出ている筈である。  自分は無銭飲食ではない、と言い聞かせ、ふらつきながら駅ビルを飛び出し、線路沿いの人気がない場所をヨロヨロと歩き出した。  賑わう場所にはアルファが居る可能性も大きい。突発的な発症にしても、何も関係ない人に迷惑をかける訳にはいかない。  桔梗は突発的なヒートのせいで頭が混乱、もしくは失念していたのだろう。  近年、上位のアルファ政治家達の働きかけで、予想外の発情をしたオメガの為に、主要施設にの医務室には、緊急抑制剤が必ず常備してあり、桔梗のように突然ヒートした場合は、急いで処置してから休息すれば、数時間で回復が可能だった。  もしくは、タクシーもオメガの運転手を指定すれば、問題なく帰宅できたにも拘らず、パニックになった桔梗には、それすらも思い浮かばなかったが為に、自ら困難状態に陥ってしまったのだった。  オメガには、男女共に発情期(ヒート)と呼ばれる時期が定期的にやって来る。  女性で言えば生理に近いものだろう。  ただ生理と違い、ヒートが来るのはだいたい三ヶ月から半年と開きがある。  その為に、オメガは中々就職に就けないと言われていたが、厚生省による『オメガ就労規約』の制定後、生理休暇と同様のヒート休暇が取れるようになり、少しずつオメガにも未来が開けた。  桔梗にも半年周期でヒートは来ていたが、比較的軽い症状のおかげで約三日程で職場復帰できていた。多分に桔梗の飲んでいた発情抑制剤が効果の高いのも一因かもしれない。  そのおかげで、ずっとお守り代わりの緊急抑制剤は、家にずっと置きっぱなしだったせいで、今こうして苦労している羽目になっているのだが。 「こういう時は……家が遠いのも……善し悪しだな」  ぜいぜいと乱れた息の合間から悪態が零れてくる。  桔梗の家は、会社最寄りの駅から七駅程離れた場所にある。  市の外れにある為か、緑も多く、しかも家賃も中心地に比べれば雲泥の差だ。おかげで、広いワンルームを安い家賃で借りられている。  近くに商店街もあり、どちらかといえば下町に近い雰囲気が桔梗も気に入っていた。 (ただ、歩くにはとてつもない距離だけど)  電車でならば三十分程度の距離も、徒歩では果ての見えない道程だ。スーツと革靴の出で立ちでは、正直歩くに適さない格好である。営業に回る時は歩きやすい靴に変えてたので、あまり気にならなかったが。 (こんな事になるなら、靴をもって帰れば良かった)  後悔、先に立たず。流石にヒート状態で会社に戻ったら、あの色情上司に何をされるか分かったものではない。あんな最低な人間に貞操を奪われる位なら、蒸れて不快感しかない革靴を履いて歩いた方がましだ。  渋々自分の安全を取った桔梗は、時折人気ない公園等で休憩を挟みつつ、家のある方へと帰巣本能を頼りに歩いていたのだが…… 「……あっ」  そろそろ陽が落ちるだろう時間帯。晩夏とはいえまだ明るさのある空には、灰色の分厚い雲が覆い、桔梗が声を上げたと同時に、バケツをひっくり返したかのような雨がアスファルトを叩きつける。  バタバタと地面が雨水を吸って色を黒く染めていく。  突然の雨に周りのまばらにいた人達も逃げるように家へと入り、周囲には人っ子一人おらず、桔梗以外には誰も居なくなったのは僥倖だろう。  これで、近くにアルファが居たとしても雨が匂いを流してくれるだろうし、そもそもオメガがヒート状態でうろついてるなんて思わないだろう。  さながら、肉食動物の檻に餌を放り込む行為だ。 「これも恵みの雨っていうのかな」  発情して上がった体温に冷たい雨は心地良く、自然と揶揄する言葉が零れる。  だからといって、このままぼんやり立っている訳にもいかず、桔梗は覚束無い足を叱咤し、歩き出したのだった。 「……はぁ、……はぁ、はぁ……」  時間が経ち、夜の帳と雨の幕が街を包み込んでも、桔梗は家へと帰る為にふらついていた。  おかしい、と気づいたものの、雨でスマホが壊れたのか、電源自体が入らない。その為、地図アプリで場所を確認する事もできず、殆ど感覚の赴くままに歩を進めていたのだが、正直迷子になったのか、と脳裏を掠めるものの、ヒート状態では誰かに救いを求める事もできず、ただただ足を動かすしかなかった。  ちらりと周りに目を向けると、至る所で部屋の明かりが灯っているのが目に映る。  あの一つ一つに家があり、家族があり、生活しているのだろう。  暖かそうな光から目を逸らし、桔梗は地面に視線を落としたまま、ヨロヨロと彷徨い続けた。 (もう……自分には得られない環境……。もう、二度と戻れない……場所)  雨で冷えた頬に熱い水が伝い流れる。ヒートした今では、その肌を滑る感覚さえも焦れた愛撫のようで不快しかない。 「あぁ……もうっ」  十五歳で実家を出て約十年。忘れた頃に実兄とはテキストメッセージで連絡は取るものの、桔梗の生活環境等の監視をしているのは、父親の秘書をしている男だけだ。  発情抑止材を手配してくれるのも彼だが、顔を合わせても会話らしい会話もなく、淡々と用件のみが伝えられ、たまに自分が話をしているのはロボットではないかと疑う事もしばしばある。その秘書も桔梗が今の会社に入社してからは、抑制剤を郵送で送るようになっていた。来る手間すら億劫になったらしい。  それ故に、桔梗は人の温もりが欠乏していた。  ペットでも居れば無聊にもなったかもしれないが、生憎桔梗の住むマンションは動物の飼育が禁止されている場所だった。  こんな事なら、もっと腰を据えて住居を探せば良かったのかもしれないものの、当時の桔梗にはそんな余裕はなく、どうにもならなかったのである。  孤独という同居人はいたけども、それは桔梗の寂寥を宥めるどころか、ただ拍車を掛けるだけの存在だった。  早く仕事が終わった時の帰り道、家々から漏れる暖かな光を見るたび、自分がオメガである事を心底恨み、途方にくれた子供に戻る。  家政婦が作ってくれた温かな食事、実兄との他愛もない会話、母の嗜める声、そんな家族を眺めている父。  もう、二度と戻る事のない、そして桔梗がオメガである限り、手の届かない温かな情景。 (多分、俺が結婚する事になったら、父親の決めた父親の都合の良いアルファと番にされるのだろう。決して愛情なんてない、無味乾燥の夫婦関係になるだろうな。それ以前に、あの人が俺を憶えているかどうか)  一時期は決められたレールに乗るのが嫌で、適当な男と番になればと考えた事もある。  しかし、潔癖な桔梗には大胆な行動等取れる筈もなく、現在はこじらせただけになっていた。  抜け出したい。こんな理不尽な自分の運命から。  誰かに無償の愛を注がれ、そして自分も同じように相手に返せるような関係が欲しい。 「あ……」  目の端にオレンジの光が横切る。  桔梗の些細な願いが届いたのか。  ふと、俯いた顔を上げると、低木の整えられた生垣の向こうに、白壁の平屋建てが目に入る。木目調の窓枠から漏れるオレンジの光に照らされ煌めいていた。  小さめの庭にはハーブだろうか。湿気に乗って爽やかな香りが桔梗の所まで届いてくる。  無意識に桔梗の足は建物へと吸い寄せられる。  生垣を切り取ったような隙間に、腰丈のアンティーク調のアイアンドアが招くように開かれている。 「la() maison(メゾン)?」  ラ・メゾン──『家』の意味を持つが、それが表札って訳でもないだろう。 「って……事は、ここ店か何か……? あっ!」  疑問に首を傾げた途端、時間を追うごとに酷くなる熱のせいか、グラリと視界が渦巻く。  長い時間、ヒート状態で且つ雨に打たれたせいで、体調が限界になったのかもしれない。  ここが店かどうかは別にしても、光が漏れてる事から中に人が居るのは濃厚だ。迷惑になる前に立ち去らなくては、と一歩後じさるも、よろめく足が絡み、無様に濡れた地面へと尻餅を打つ。 「──誰か、いるのかい?」  カロン、とカルベルの音色と共に、清涼でいて甘やかな声が聞こえてくる。きっと中の人が桔梗の転んだ音を耳にして顔を出したのだろう。 「す、すみませんっ。な、な、なんでもありませんからっ」  慌てて立ち上がろうとしたものの、早めの昼食以降、飲まず食わずでいた為か、すう、と血が落ちていく感覚と共に、桔梗の体は濡れたアスファルトに横たわってしまった。 「君!?」  バシャバシャと水を蹴る音が聞こえたが、桔梗は指一本動かす事も、目蓋を開く事もできず、意識は闇の中へと落ちていった──

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