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4:自己紹介

 怠い。体のあちこちがギシギシ痛む。首の後ろがジンジンする。  まるで交通事故に出会ってしまったかのような全身の激痛に、何度も色んな悪夢が桔梗(ききょう)に襲いかかる。  オメガだと診断された時に見た父親の蔑むような眼差し。名家である筈なのに子を孕むだけの存在となった桔梗を、冷ややか且つ性的な眼差しを周囲から注がれ、まともな友人関係を築けず孤独だった事。社会に出てからもヒートに振り回され、上司からは迫られ、そして── 「……んぅ」 「あ、気づかれましたか?」  寝返りを打とうとして、余りの気怠さに目が醒めた桔梗は、優しげな声が聞こえ、ゆっくりと目蓋を開く。  アイボリーの壁に、自然木を使用した腰板があり、とても雰囲気が良い。天井にはシーリングファンが飾ってあるが、あれは使用できるのだろうか。他には左手に大きなクローゼットと書架があり、棚にはびっちりと本が詰まっている。  右手には壁一面が窓となっており、その向こうにはウッドテラスが続いている。天気が良い日に、ああいった所でお茶とか飲んだら、気分が良いだろう。  外は土砂降りが嘘のように、明るい太陽が青い空に浮かんでいる。  それにしても、こんな夢のような部屋は自分の部屋ではない。  桔梗の住むセキュリティも不安なマンションの部屋は、十二畳と都心に比べれば広いワンルームだけど、ベッドとカラーボックスを並べた棚には雑貨や仕事関係で揃えた本が隙間なく並んでいる。日常を過ごすちゃぶ台にノートパソコンが乗っていて、ネットも動画もこれひとつで済ませている為、テレビはないし、家電話もスマホがあるから必要ない。  唯一の贅沢は狭いながらもキッチンがあって、大型冷蔵庫には自炊する為の材料が詰まっている。  ホテルのようなこの部屋に比べれば雲泥の差だ。それでも桔梗にとっては十五歳の時から自分を守っている大切な砦だった。 「……ここは?」  軋む首を巡らせ声のした方へと顔を向ければ、歳は五十代位だろうか。白髪混じりの髪を緩やかに後ろへと撫で付け、ワイシャツの上から白衣を着た男性が、黒縁眼鏡の奥の双眸をゆるりと細め、微笑んでいた。 「ここは、『la() maison(メゾン)』というお店の、オーナー住居です。昨夜、あなたが店先でヒートを起こされたそうで、保護されたのですが……憶えてませんか?」 「ヒート……」 「あと、大丈夫だとは思いますが、こちらを飲んでください」  白衣の男性が、白い錠剤と水を差し出す。 「アフターピルです。彼曰く、避妊はちゃんとしたそうですが、一応念のために。それから、額が少し切れてましたので、消毒をしてガーゼを当ててます。頬の中も切れてましたし、抗生物質を処方しましたから、食後に必ず飲んでくださいね」 「あふたーぴる……」  そうだ。昨日、訳も分からないまま会社をクビにさせられ、駅ビルで昼食中にヒートになったんだ。流石に電車に乗れば、自身の身の安全を確証できなかった為、仕方なしに徒歩で歩いていたら、豪雨に見舞われたのを思い出した。  ハーブの香りが心地よくて、気が抜けた途端に倒れたのか。  それから、何か叫ぶ声が聞こえて、甘い香りが……。  きっと、その人がオーナーって人なんだろう。  それにしても、ここまで酷いヒートになったのは初めてかも知れない。  元々ヒートも重い体質だったせいで、体の怠さが半端ない。  アフターピルが必要って事は、オーナーって人はアルファだったのだろう。自分の発情(ヒート)に引きずられて発情(ラット)になって、交わる事になってしまっただなんて、本当に悪いことをしたのかもしれない。  もし、オーナーって人に番がいたら、土下座どころの問題じゃなくなる。 (え。でも、項がずっとピリピリしてるのって……。つまり……) 「ひとまず、ヒートについては緊急抑制剤を投与しましたので、問題ありませんよ。……それ以前にこれ以上酷い症状は出ることはありませんが……」 「それはどういう……」  穏やかだった医師の目が悲しげに伏せられ、辛そうな声音で話すのを、桔梗は怪訝に眉を寄せ、問いただそうとした途端。 「お前、自分が何をしたのか、分かっているのか!? 畜生以下の非道をするとは思わなかったぞ!」  陶器の割れる音と、何か重いものが倒れる音が聞こえ、桔梗は恐怖に震える。 「ふう……。お二人共三十を過ぎた良い大人ですのに、子供みたいな事をして……」  医師は深々と呆れるような溜息を吐き、桔梗に「お待ちください」と言い残して部屋を出て行く。だが、激しい音が怖くて、無理やり体に鞭を打って医師と一緒に行こうと、ベッドから降りる。再び項あたりがズキンと痛みが走る。これはやはり……。  ここの主が着替えさせてくれたらしい滑らかな生地のパジャマは大きく、袖も裾も折り返さないと引きずる程だ。  桔梗は慌てて袖とズボンの裾を折り、一瞬だけ部屋の隅に視線を走らせると、医師に続いて部屋を出たのだった。  階段を降りると、争う音が更に大きくなる。  恫喝する大声は父親を思い出し、心臓がドクドクと激しく高鳴る。首を竦めると項辺りがズキリと痛んだが、それよりも動揺のが強かった。  大丈夫、ここには父親もいないし、あの声も父の声ではない。桔梗に興味ない人が、こんな場所に居る訳がない。  桔梗は自分に必死に何度も言い聞かせ、過去に塗りつぶされる心を奮い立たせる。  医師の背中越しに窺い見ると、体躯の良いスーツ姿のアルファの男性と、床に尻餅をつき頬を押さえている男性的な美貌をしたアルファの男性が対峙していた。 「あ……っ」  座り込んでいる男性の唇が切れて、血が顎まで伝っている。頬は赤く腫れ、そこを思い切り殴られたのだと見て取れる。 「大丈夫ですか?」 「君は……」  慌てて医師の背中から駆け寄ると、怪我をした男性は桔梗の顔を見て零れ落ちそうな程目を見開き、桔梗を凝視している。  何をそんなに驚いているのだろう。桔梗は首を傾げて男性の傷に手を伸ばしたが、 「ごめん。ごめんね」  ぎゅっと眉を歪め、桔梗へと救いを求めるように震える手を伸ばして、何故か謝罪してくる男性は今にも泣きそうな表情で、桔梗の胸もズキンと痛む。  初対面で、名前も知らないというのに、目の前の男性から香る匂いに対しても不快感等なく、むしろずっと嗅いでいたいとさえ思わせる。この人はきっとアルファだろう。同じアルファの上司のフェロモンは吐き気がするだけだったのに、目の前の人のフェロモンは全身が落ち着く。 「なにが……ですか?」  まだも、小さく呟くように謝ってくる意味が理解できず、再び首を傾げたが。 「君を僕の番にしてしまった。本能に負けてしまったんだ。強姦魔と罵ってくれても構いません。それだけの事を、意識のない君にしてしまったのですから」  ああやはり、と彼の言葉に、不安だった心がストンと納得する。  起きた時からうっすらと痛んだ項。ヒートで発熱し、意識が朦朧とした自分。助けてくれたのは、アルファの人だと、うっすらと認識していた。  発情(ヒート)したオメガを前にしたら、番の居ないアルファはフェロモンに充てられて発情(ラット)しまうのは、知識として危機感を持っていた。  だからこそ、電車で帰宅するのを回避したのだ。  それが、このような状況で意思とは関係なく、番関係を結んでしまうとは。 「理不尽だと責めてくれてもいい。君が望むなら、番の解除もします。それによっての保障も僕がちゃんとします。一生許してくれなくてもいい。だけど、お願いだから、僕との縁は切らないで……」  はらり、と綺麗な涙を一粒、怜悧な頬に零した男性は、桔梗へとそう望む。 「どうして」  疑問を口にしたが、本能が理解していた。生きてる間には絶対交わる事はないだろう存在。天文学的な奇跡ともいえる存在。遺伝子に刻まれた運命の存在。それは……。 「僕が、君の、運命の番だから……」  ああ、やはり。  桔梗は頭の中で納得していた。  幾ら緊急抑制剤を投与したとしても、ヒートの翌日にここまで精神が安定しているのは初めてだったから。  いつもは情緒不安定になり、酷い時には嘔吐すらしていたのに、あれだけのヒート状態になったにも拘らず心も、体も怠さは残っていたものの不調な部分はなかったから。  無理やり体を暴かれた。それは到底許せる事ではない。オメガに対するアルファからの陵辱は合意でなければ犯罪として扱われる。法的にも高慢なアルファからオメガを守る為の整備がされていた。おかげでベータからもアルファからもオメガは守られ、世の中で活動できるようになったのだ。  桔梗はそのカテゴリーに当てはまるも、男性を訴える気にはなれなかった。  何故だろう。会社の上司にされるよりも酷い無体を強いられたのに、桔梗の心の中は憤りもなく、ただただ凪いでいた。  上司の時は、変態行動や汚物を見せつけられて、何度も吐きそうになったというのに。しかも数回しか着てないスーツが破棄処分となり、踏んだり蹴ったりだった。  目の前の男性は、滂沱しながら桔梗を見上げる。カフェ&バーのオーナーと聞いていた。長身で割りとガタイもいいのだから、白シャツに黒のスラックスとロングタブリエを着用したら、きっと格好良いと思われるのに、ポロポロ泣いてる姿を見ると、少し残念だな、でも可愛いなと桔梗は内心で吐露していた。  桔梗の意思も確かめずに、項を噛み、誰も触れた事のない場所をこじ開いた。非道な行為をした男が目の前で泣いている。それでも桔梗は憎む事ができなかった。 「香月(こうづき)……桔梗、です」 「え?」  唐突に自己紹介しだした桔梗を、男性はキョトンと瞬きをして見上げてくる。瞳に残った涙が頬を転がり、桔梗はそっと手を伸ばし指先で雫を受け取って微笑む。 「順番はどうであれ、これも何かの縁だと思うんですよ。ですから、あなたの名前を教えてください。許すか許さないかは、これからのお付き合いで決めさせてください」  にっこり微笑めば、男性は花開くように表情を変え、桔梗を包むように抱き締める。 「え、あ、あの、あのっ」 「本当に、本当にありがとう! こんな酷い事をした僕と向き合ってくれて、嬉しいです!」  ぎゅうぎゅうと男性の意外と筋肉のついた腕が拘束し、背骨がミシミシいっている。 「離さんか、馬鹿者! アルファのお前と違って、オメガの桔梗さんの体は繊細なんだぞ。番を殺す気か」  背後から音もなくやって来たスーツ姿の男性が、硬く握った拳骨を玲司と呼ばれた男性の頭上まっすぐに落とした。ゴン、と凄い音が聞こえてきたが、大丈夫なのだろうか。 「だ、大丈夫ですか?」 「僕は寒川玲司(さむかわれいじ)です」 「は?」 「ですから、自己紹介です。桔梗君がやってくれたので、僕も倣ってやってみました」  アルファというのは頑丈にできているらしい。玲司はあれだけの攻撃を受けたにも拘らず、にこにこと笑みを浮かべて名前を告げてくる。 (天然さん……なのかな?)  この不思議な人が、お店のオーナーをしてて、更に桔梗よりも年上と知るのは、桔梗のお腹が空腹を訴える。時計を見れば昼もとっくに過ぎており、簡単な略歴をスーツの男性が問いただしてきたので、現在家を出て一人暮らしをしていたが突然昨日不当解雇をされたと告げた後だった。

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