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10:地雷
玲司が桔梗の為のお茶を淹れていると、総一朗から「小腹が空いたから何か作れ」と長子の利権を発揮した為、玲司は渋々ながら、軽く摘めるように薄く切ったバゲットにレバーパテを塗ったものと、オリーブの醤油漬け、ミックスナッツ、寝る前に桔梗が試食したレモンピールのマフィンを皿に乗せソファ席に持っていく。
「はい、カモミールミルクティですよ」
甘やかな香りが湯気と共に立つカップを、桔梗の前に置かれ、思わず鼻をすんと鳴らす。カモミールとミルクの甘い香りと蜂蜜の濃厚な香りが鼻腔を擽る。ハーブティが苦手と玲司は言っていたが、十分美味しそうに見えるのだが。
(もしかして、俺に役割を作ってくれたのかな)
あれだけの種類を庭で育てている玲司がハーブが不得手とは思えなかった。つまりはそう言う事なのだろう。
「ありがとうございます、玲司さん」
思わず笑みを零して告げれば、玲司は桔梗の背中をそっと撫ぜながら「お構いなく」と微笑み返してくれたのだ。
見慣れた筈の笑顔なのに、桔梗の胸はドクンと弾む。好きと自覚した途端、こんなに感情を揺さぶられるとは。運命とは凄まじい強制力だと思う。
でも、なし崩し的に番となった当初の葛藤は、今は殆ど感じない。背中に感じる玲司の掌は、運命の番であるアルファだからではなく、桔梗を想う一人の男性としての温もりだと気づいたからだ。
胸が擽ったくて面映ゆい。
玲司も同じ気持ちなのか、薄らと目元を赤く染め、桔梗を愛おしげに見つめていた。
「甘いですね」
「ああ、甘いな」
「コーヒーにミルクと砂糖入れたのを後悔しています」
「俺、ブラックだけど、虫歯になりそうだけどね」
「同感です」
ふと、正面から冷気が漂い、抑揚ない会話が聞こえてくる。
「不思議ですねぇ。レバーパテもとても甘いです」
「こっちのオリーブも醤油漬けなのに砂糖まぶしたように甘いぞ」
「マフィンは甘くて胸焼けしそうです」
「まだナッツなら塩気があるから、こっちを食べるかい?」
おそるおそる桔梗が視線を向ければ、半眼でこちらを見る朔音と総一朗が、口だけをもしゃもしゃと動かす姿が正直恐怖しかない。
「ご、ごめんなさい。総一朗さんも朔音も」
桔梗が慌てて謝罪すれば。
「運命の番って周り見えないって聞いてたし、いいんじゃないかな。僕らも勝手にやってるし」
相変わらず半眼の朔音がコクンと食べ物を飲み込み、桔梗に唇を釣り上げニヤリと微笑んでいた。
「まあ、俺としては玲司がここまで感情を見せるのは珍しいから、今後も桔梗さんには頑張って玲司を振り回して欲しいくらいだし」
総一朗がウインクしてコーヒーを啜るのを、玲司が渋い顔で睨み返していた。
「そうそう、お前がそうやって睨むのも、俺は嬉しいからね」
「総一朗兄さん……、勘弁してください」
一枚上手の兄にそう言われて、反撃するのも面倒になった玲司は、顔を掌で覆い深い溜息をついた。
「それはそうと、いつまでもコントしてる場合じゃなく、桔梗に尋ねるんですよね」
「そういえば。さっき、何か聞きたい事があるような事を言ってましたよね」
不協和音を奏でる寒川兄弟に、朔音と桔梗が軌道修正を提案してくる。こういった所はアルファ、オメガと違うにも拘らず双子だな、と総一朗も玲司も関心してしまう。
緩んだ空気が再び締まり、最年長の総一朗から、先程の会合の内容を簡潔に桔梗へと聴かせると。
「紫村さんは知っています。俺がY商事に入社してすぐに教育指導をしてくれた方なので。ただ……彼女が『百花』なのは知りませんでしたし、葛川部長の婚約者だとも知りませんでした」
「つまり、紫村氏の素性も婚約の事も知らなかった、でいいのかな?」
「はい。俺と紫村さんとの関係は、会社の先輩と後輩からは逸脱しなかったので」
総一朗からの問いに、桔梗は頷きかけるも何かを思い出したのか、ただ、と切り出す。
「俺が入社当時に別の社員から、紫村さんに婚約者が居るとは聞いてました。それからしばらくしてオメガの女性社員達が、アルファの婚約者と婚約破棄したという噂が流れてましたけど」
「婚約破棄?」
「噂なので本当かどうかを紫村さんに訊くのも躊躇ったので確かじゃないですけど、元上司が婚約者だったのなら、不思議なんですよね」
「それはどうして、そう思ったのかな」
「社長は元上司は結納が済んで、あとは婚姻するだけみたいな事を言ってたんです。どうして社長が婚約を解消した事を知らなかったのか」
「普通に考えれば、両方の思惑でギリギリまで知らせなかったか、何か理由があったかのどちらかだな」
「だとしたら、紫村さんがマッチングパーティに行ったのも、何か意味があるって事ですか?」
「ビッチじゃなかったらな」
桔梗は総一朗の質問に丁寧に答えつつ、苦い気分を流すように、飲みやすいよう温く淹れてくれたカモミールミルクティを飲み込む。甘く爽やかな喉越しの後を追うように蜂蜜の芳醇な香り口の中に広がる。「美味しいです」と玲司に返せば、安堵したように頷き、自分のコーヒーカップに唇を寄せていた。
傍観者を貫くつもりなのか、朔音はその間もひたすらテーブルに並んだ軽食をパクパクと食べている。子供の頃は偏食気味な兄にしては珍しい光景だと、桔梗は僅かに瞠目していると。
く、とコーヒーを煽った朔音は、玲司に向かって「桔梗と同じ物が飲みたいです」とつっけんどんにカップを突き出し訴えると、「少しお待ちください」と玲司は接客口調で言い、朔音からカップを受け取り腰を上げる。
背中から消えた体温が寂しくて、つい玲司の背中を目線で追いかけていると。
「桔梗は、あのアルファと結婚するの?」と、唐突に朔音から質問され、桔梗の顔は真っ赤に染まる。朔音の隣に座る総一朗は、あえて無言を貫くスタンスのようだ。
「え、結婚って」
「番になったんでしょ。普通は結婚するのが当たり前だと思うけど。プロポーズはされたの?」
「プ、プロポー……うん、された、けど」
桔梗の脳裏に浮かんだのは、玲司が花束と共に告げてきた言葉。
『桔梗君、僕と結婚して欲しいと願っています。始まりがあのようになってしまったから、僕を信用していないのは理解しています。ですが、あなたを心から愛しているのです。あなたが僕を本当に求めてくれるまでは待ちます。考えてはくれませんか?』
「けど?」と首を傾げる朔音に、桔梗は躊躇いがちに口を開く。
「玲司さんの事は好き……だと思う。一緒に居ると落ち着くし、安心もできる。でも、正直短い間に色々ありすぎて、心が追いついてない。ずっと玲司さんと居られたらって思うものの、ちょっと迷ってる」
好き。大好き。愛してる。
体の底から湧いてくる感情は桔梗のものだ。でも時々、番だからそう思うのでは、と不安にもなるのだ。
「ふうん。ねえ、桔梗。僕がこれから言う質問にイエスかノーかで答えてくれる?」
「う、うん」
唐突に切り出された朔音の言葉に戸惑いつつも頷くと、
「あの胡散臭いアルファが好き?」
「い、イエス」
「じゃあ、あの人が番で良かった?」
「うん。イエス」
「次に彼とセックスするのは好き? 気持ち良いって思ってる?」
何とも答えづらい質問が繰り出され、桔梗の息が詰まる。朔音の隣の総一朗は、あの時の状況を知ってるからか、苦い顔をして朔音に鋭い視線を向ける。
「それは玲司と桔梗さんの二人の問題じゃないか。君が桔梗さんの兄とはいえども踏み込み過ぎじゃないのか?」
至極まともな意見を述べた総一朗に、朔音は唇を尖らせて不満を浮かべる。
「じゃあ、どうして桔梗が番を結んだ相手に対して、こうも不安そうな顔をしているんです? もしかして、番になった時の事を、桔梗が憶えてないって言いませんよね」
「それは……」
毅然と話す朔音の言葉を聞いた総一朗と桔梗は、ぐっと言いよどむ。
唯一、番になった状況を知る玲司は、まだカウンターで朔音の飲み物を準備している。
「朔音の言う通り、俺には玲司さんと番になった時の記憶は殆どない」
「やっぱり」
「ちゃんと聞いて欲しい。記憶はないけど、体が憶えてるんだ。玲司さんは発情 状態で無理やり押さえつけて孕ませる事も可能だったのに、目が覚めた俺の体は項以外傷もなく、ちゃんと避妊もしてくれて、お医者様も呼んでくれたんだよ」
そう、あの番になった朝。医師の藤田に続いて寝室を出ようとした桔梗の視界に入ったゴミ箱。中に無造作に放り込まれていた使用済みの避妊具が捨てられてて、玲司が塗り込められた本能の隙間からの理性で、避妊をしてくれたのだと知っていたのだ。
「そういった部分も含めて、この数ヶ月玲司さんを見てきた。時々不安に心が揺れるけども、彼は俺をまっすぐに見てくれて、愛してくれてるって気づいたから……」
「ですが、はじまりをなかった事にはできませんけどね」
頭上から聞こえた響く声に顔を仰げば、朔音の飲み物をトレイに乗せて苦笑する玲司が立っていた。本音を聞かれ桔梗は赤面するも、流れるように朔音へとサーブする玲司から視線を外す事はなかった。
「アルファの本能に負け発情 状態になったのは、僕の責任です。あの時は桔梗君が雨の中、ヒートで倒れた事に慌てて思わず抱き上げてしまった。色んな部分で軌道修正できる分岐点はあったのに、僕が選んだのはお互いが一番最悪な方法で……」
「玲司さん!」
目蓋を伏せ痛ましげに話す玲司へと、立ち上がった桔梗は思い切り抱き着く。
「桔梗君?」
「悪いのは玲司さんだけじゃないです。俺がヒートになってすぐに冷静に対応していれば、玲司さんを巻き込む事はなかった。あの時パニックにならなければ、駅に緊急抑制剤がある事も、タクシー運転手をオメガで指定する事も気づけた筈。それなのに発情 熱にうかされ歩いて帰ろうだなんて馬鹿な選択をしたせいで、玲司さんに多大なる迷惑をかけた上に、こうして保護までしてくれて感謝しかないのに……ごめんなさい」
「……え?」
「大人の玲司さんを沢山困らせて、本当にごめんなさい」
桔梗は総一朗にも朔音にも涙を見られたくなくて、玲司の胸にぎゅっと顔を押し付ける。白いシャツに灰色の染みが広がるのを、冷たい感触で理解するものの、玲司の大きな手が慰めるように桔梗の円い頭を優しく撫ぜた。
「気にしないでいいですよ、と言っても桔梗君は納得しないでしょうね。そちらのお二人。好きに飲み食いしても良いので、僕達は先に家に帰らせていただきます。よろしいですね?」
まだも泣き続ける桔梗を軽々と抱き上げ、踵を返しながら玲司が放つ。それは感情の温もりもなくただただ平坦な声音で、朔音は硬直し、総一朗は額に手を当てて長嘆するしかなかった。
「了解。こっちで話をまとめておく。詳細は明日に電話するから、必ず出てくれ。あと、必要なら藤田も呼ぶから」
「……ええ。頼みましたよ、総一朗兄さん」
項垂れて手を振る総一朗へと振り返る事なく玲司は言い、そのまま自宅に繋がる扉の奥へと消える。
「……朔音君、玲司の地雷踏みすぎだから。あれでも『四神』の人間だって理解してる?」
呆れた声が聞こえ、朔音の硬直が解ける。
「分かってますよ。流石愛人の子供とはいえ『四神』の玄武の血は伊達じゃありませんね。まだ指先が震えてます」
掲げた朔音の指先は細かく震え、皮肉に笑む唇さえ歪んでしまう。
「まあ、実際玲司の母親と俺達の父親は、他人から見れば愛人と呼ばれても仕方ない関係だったけども、あの二人は運命の番だったんだ。その前にアルファの名家出身である俺の母親と結婚していたから、どうしても立場を覆す事が出来なかった」
まだ震える朔音の手にカモミールミルクティの入ったカップを乗せて、総一朗は苦味走った何とも言えない表情をする。
「彼女は──玲司の母親は、俺の母親の親友だった。オメガの名家「宝生 」の出身だったけど、昔から病弱で、海外での療養を終えて帰国した時に母の結婚を知り、お祝いに駆けつけてくれたんだ。そこで父親と出会い、運命の番が発覚した。そして、彼女は子供が望めないと言われていたのに、玲司を身籠ったんだ」
「……」
「それならそれで、俺の母と離婚して玲司の母親と再婚すれば良かった話なんだが、運悪く『四神』同士の婚姻でな。玲司の母親は実家とも縁を切り、一人でかつてはこの場所にあった安アパートで玲司を産んで育てた。まあ、彼女自身が体が弱かったのに加え、番った父親と長年離れていたせいで、玲司はまともな養育は受けさせてもらってなかったそうだ」
「つまり養育拒否 だった、と」
「ああ。玲司の母親はうちの母に定期的に連絡を取っていたそうだ。それが玲司を引き取る一年前から急に音信不通となって、慌ててアパートに向かった母が見たのは、死後数ヶ月の彼女の遺体と生活していたミイラみたいに骨と皮だけの玲司だった」
衝撃的な独白に、朔音はヒュッと息を飲んだ。
「彼女は死の間際、子供の玲司に通帳と印鑑を渡したそうだが、当然ながらまともに教育を受けていない子供に生活なんてできやしない。母が栄養失調で餓死寸前の玲司を保護し、しばらく入院させていた。ただ、アレは当時の記憶はないようだが」
「それで?」
「玲司を保護する直前に父親も他界した。だから、母の独断で玲司を寒川の家に養子として受け入れた。で、今に至る」
重すぎるだろ、と総一朗は困ったように笑い、残りのコーヒーを一気に飲み込む。冷めた液体は苦く、今の心情を胃の腑に落としたかのようだ。
「あー、桔梗さんには」
「話しませんよ。今の弱ったあの子には無理です。それに、いずれ番である彼から話すでしょうし」
「……そうだな」
沈痛な空気が二人の肩にずっしりのしかかる。
「その前に、桔梗の件をどうにかしましょう。ひとまずは、ここ出ませんか?」
「え?」
どうして、と見開いた目で問いかける総一朗に、朔音はニッと笑い。
「河岸を変えて色々決めましょう? 正直、実の弟のえっちな声聞きたくないですし」
揶揄を含んだ声に、「じゃあ、『四神』の寒川当主がご馳走しましょう」と、朔音に手を差し伸べると、朔音は「この時間だとファミレス位しか開いてないと思いますよ」と嫌味で応酬する。
何となく気があった総一朗と朔音は、紆余曲折を経て恋人同士となるのだが、それはまた別のお話となる。
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