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第2話
会長室の洗面所で、頭から水を被った。
水色のマウスウォッシュを口に含み、何度もうがいをする。
口腔内を漱 ぎ終えると、手にたっぷりのハンドソープを付けて、念入りに洗った。
鏡を見れば、腺病質めいた細い骨格の、女のような濡れそぼった顔が映っていた。
白いひたいに、絹糸の毛質をした黒髪が張り付いている。
それを乱雑な仕草で掻き上げ、蓮水 は両手に掬った水をばしゃりと鏡へ向かって放った。
途端に、鏡面が不鮮明に歪む。
水の滴り落ちる様を睨むように眺め、蓮水はタオルを手に取った。
顔を拭き、髪を拭き、手を拭いて……口にまだ、青臭い精液の味が残っているような気がして、もう一度うがいをした。
洗面所を出ると、スーツ姿の男が蓮水を待っていた。
秘書の飯岡 だ。
便宜上彼は蓮水の秘書として扱われているが、実質はお目付け役なのだった。
飯岡は四十歳前後だろうか、清潔そうな外見をしたスマートな男で、元々は財部 に仕えていた人間だ。
財部の死後、その遺言に従って蓮水の御守りしている、というわけである。
「ひどい顔色ですね」
慇懃な口調で飯岡が言った。
蓮水が無視すると、伸びてきた男の手が蓮水からタオルを取り上げた。
毛先から雫を落としている髪を、飯岡がやさしいような手つきで拭ってくる。
飯岡の顔が、不意に近付いてきた。
蓮水は肩を引いて離れようとしたが、後頭部の後ろに男の手が回っており、逃げることができない。
吐息が耳を掠めた。それほどの距離に接近されて、蓮水は身を固くする。
飯岡はそんな蓮水に構わず、タオルを巻きつけた指で、蓮水の耳の裏側を辿った。
くすぐったいような感触に、反射的に首を竦めた蓮水の目の前に、飯岡がタオルを広げて見せた。
緑色の布地に、なにか、少量の白い液体がへばりついている。
先ほどまで蓮水を嬲っていた重役たちの誰かの精液だと気づいて、蓮水は飯岡の手を乱暴に払いのけた。
「そんなもの、見せるな」
「失礼しました。ですが、これを付けたままあの家に戻るのもお嫌でしょう?」
軽く眉を上げて、飯岡が飄々とした声を聞かせる。
蓮水は苛立ちに任せて男の胸を突き飛ばした。
飯岡は一歩下がっただけで、なんのダメージもないような顔でにこりと笑った。
「あなたが中々会社に来ないから、彼らがムキになるんですよ」
悪戯は仕舞いだとばかりに、飯岡がタオルを丸め、簡易の給湯設備の方へと歩きながら、蓮水を嗜めるように口にした。
「隠されるものは暴きたくなる。それがひとの心理というものでしょう。あなたが家に引きこもってばかりいるから、重役たちの興味が薄れないんです。こうして強引に招聘 される前に、頻繁に顔を見せれば、そのうち向こうの方から飽きてくれますよ」
飯岡は話しながら流しの横の引き出しを開けた。
そこから白いビニル袋を取り出し、濡れたタオルを詰める。
袋の口を縛るなめらかな手つきを見ながら、蓮水は冷笑を漏らした。
「それで? 飽きられるまで何度でもレイプされろって?」
財部の存命中、男は蓮水を独占しつつもプレイの一環として、ギャラリーの居る前で蓮水に奉仕をさせたり蓮水を抱いたりしていたものだから、その恥態を指を咥えて眺めるだけだった役員たちの間では、蓮水は恰好の玩具なのだった。
会長にしたみたいにしてみろよ、と言って。
男たちは蓮水で遊ぶ。
元男娼である蓮水になら、なにをしてもいいのだ、という共通の認識が彼らの間には存在した。
抵抗はできない。
多勢に無勢である、という以上に、蓮水には逆らえないだけの理由があった。
金が要る。
ひとをひとり、養うだけの金が。
そして蓮水は。
いまの地位に居るだけで、好きに使える金が、うなるほど手に入るのだ。
そのためなら、レイプされたって構わない。
目を閉じて、ほんの数時間我慢すればいいだけの話だ。
男娼だった蓮水は慣れている。
体を開かれることに、慣れている。
だからこれは商売だ。
あの場所と同じことを、ここでもすればいいだけだ。
現代の遊郭、と呼ばれるあの場所……。
俗世から隔絶された、赤い欄干の橋を渡った向こうに佇む、『淫花廓 』という娼館。
蓮水はそこで、身をひさいで生活をしていたから。
金のため、と思えば割り切れる。
淫花廓 に居た頃となにも変わらない。同じだ。
同じなのに……こころのどこかが擦り切れたような気分になるのが、不思議だった。
「あなたが引きこもることをやめれば、少なくとも複数人を一度に相手しなければならないような……無茶なことはされないと思いますが」
「おまえは他人事 だから、なんとでも言える。どうせならオレの代わりにあいつらに抱かれろよ。そうすればオレも少しは出社する気になるかもね」
蓮水の皮肉を、年上の男が鼻で笑った。
「財部翁 との契約に、その内容は含まれておりません」
出た、と蓮水は思った。
飯岡の決め台詞だ。
契約にその内容は含まれておりません。
それを言いさえすればたいていの相手が沈黙することを、飯岡は良く知っている。
契約以上のことはしないし、する意思もない、ということは、普段の飯岡を見ていればよくわかる。
蓮水の身の回りの世話、というのは契約書に記されているようで、先ほど蓮水の髪を拭いてくれたのも、その業務内容の一環なのだった。
爽やかなのは見てくれだけで、根性は捻じ曲がっているな、と蓮水は思った。
「とにかく、次の役員会までオレはここへは来ない。買い物をしてから帰るから、車を回しといて」
蓮水は秘書へとそう言って、
「それぐらいは契約の範囲内だろ?」
と憎まれ口を叩いてやった。
飯岡が様になった仕草で肩を竦めて、整った顔に苦笑を浮かべた。
「もちろんですよ、ご主人様」
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