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第3話

 ケーキの箱やらお菓子の袋やらを持つ手をぎこちなく動かして、カードキーを差し込む。  微かな電子音とともに、カチャリ、と解錠された音が響いた。    ドアを開けるのには、少しの勇気が必要だった。  蓮水(ハスミ)はドアレバーに掛けた手にちからを込めた。  玄関は、暗かった。  廊下も。その奥に続くリビングも、灯りはついていない。  ため息を落として、蓮水は室内へと入り込んだ。  ぴっちりと閉ざされている遮光カーテンを、勢いよく左右に開く。  この部屋は、高層マンションの最上階に位置しており、夜景を楽しむための大きな窓には、いまは西日に赤く染まったうつくしい空が広がっていた。  荷物を置いたテーブルには、出社する前に作っておいたおにぎりが、そのまま手つかずで残っている。  蓮水はラップ越しに、冷たい感触のおにぎりに触れ、眉をきつく寄せた。  傷つくな、と自分に言い聞かせる。  こんなこと、大したことじゃない。  傷つくようなことじゃない。  だから、傷つくな。  肩を大きく上下させて深呼吸をした蓮水は、ケーキの箱だけを袋から出して右手で抱え持つと、リビング横の部屋をノックした。 「入るぞ」  声を掛けて、ドアを押し開ける。    リビングからの灯りが、室内を照らした。  空き巣でも入ったかのような惨状に、蓮水はまたため息をこぼす。  開きっぱなしのクローゼットから引っ張り出された衣類が散乱し、買ったばかりのゲーム機は床に叩きつけられたのか画面が割れ、部品が飛び散っていた。  それをした張本人はと言えば、ベッドで頭から布団をかぶり、丸くなっている。  隠れているつもりなのだろうか。  蓮水はこんもりと盛り上がった布団へと、声を掛けた。 「蓮華(レンゲ)」  大げさな動作で、布団の山がびくりと跳ねた。 「蓮華。おいで。お腹が空いただろう? ケーキを買ってきたよ。一緒に食べよう」  やさしい声を意識して、蓮水は彼へと話しかける。  もぞり、と身じろぎをした蓮華が、顔を上半分だけを覗かせた。  アーモンド形の黒い瞳の周囲が、涙でびしょびしょに濡れている。泣いていたのだ。 「お、おなか、空いてないっ」  喉に絡んだような声を、蓮華が発した。  とうに変声期を終えた、大人の男の声だ。  それが、不釣合いな辿々(たどたど)しさで蓮水を拒む言葉を口にした。 「あ、あっち行けっ。出てけっ。来んなっ」  セリフとともに枕が飛んできた。  蓮水の肩に枕がバフっとぶつかった弾みで、ケーキの箱が揺れた。  あ、と思ったときには箱は床へと落下していた。  ぐしゃり。  実際に聞こえたわけではないけれど、生クリームとスポンジが崩れる音が生々しい映像と一緒に脳裏に流れた。  蓮水は数秒、角の潰れた箱を凝視していた。  あまりに蓮水が直立の姿勢で固まっていたからだろうか……蓮華が息を飲んだ。  ひゅっ、というその呼吸音につられて目を向けると、蓮華が罰の悪そうな表情を浮かべていた。  唇が、「ご」の音に開こうとする。  ごめんなさい、と謝ろうとしているのだろうか。  しかし躊躇して途中で曖昧に閉じた蓮華の口元を見て、蓮水は思わず笑ってしまった。  くくっ、と喉奥を震わせながら、箱を拾い上げて。 「おいで、蓮華」  と、もう一度彼を手招いた。  蓮華が首を横に振った。 「ぼく、そんな名前じゃない……」  弱弱しい声で抵抗する蓮華へと、蓮水は言葉をかぶせた。 「それでもおまえは、蓮華だよ。おいで」    潰れた箱を抱えたまま、蓮水はベッドサイドまで歩み寄った。  蓮華の体を覆っている布団を、片手だけで引き剥がす。先ほど箱を落としてしまったことを悔いているのか、蓮華は悄然とした様子で渋々とベッドから降りてきた。  背を丸め、肩を落とし、しおしおと立ち上がった男の背は、高い。  体つきもしっかりとしていて、蓮水と並ぶと二回りほども逞しかった。  濃く、シャープな形の眉と、通った鼻筋。頬から顎にかけてのライン。蓮華の顔はどこをとっても男らしく整っている。  けれど、切れ長の二重の瞳はおどおどとしており、パチパチと瞬きをする様などはどこか子どもっぽさを孕んでいた。    蓮水が自分のものよりもずっと太い筋肉質な腕を、とん、と叩くと、蓮華がぎょっとしたように肩を引く。  蓮華は蓮水を怖がっている。  蓮華よりも華奢で上背のない、女のような顔をした蓮水を、怖がっている。  それは蓮水が最初に、恐怖で蓮華をこの場に縛りつけたからだ。     「行こう。お菓子もいっぱい買ってきたんだ。夕飯は、おまえの好きなものを作ってあげる」 「ぼ、ぼく……」  蓮華が両手をぎゅっと握りしめて、涙目で蓮水を見つめてきた。  蓮華の方が背が高いから、並び立つ蓮水はいつも上を向かなければならない。   「ぼく、元の場所に帰りたい……」  べそべそと、蓮華が泣いた。  こぶしで目をこする、子どものような泣き方だった。 「お菓子いらないから、元の場所に帰りたい……」  ちからなく、蓮華が訴えた。  蓮水は笑った。  それ以外にどんな表情をすればいいのか、わからなかった。 「おまえの帰る場所はもう、ここしかないんだよ、蓮華」  幼稚園児にでも言い聞かせる口調で、囁いて。  蓮水は蓮華の手を握った。  片手には、ケーキ。  もう片方の手は、蓮華の大きな手に絡めて。    蓮水は男を促して、リビングへと移動した。  蓮華は泣きながらついてきた。  ず……ず……と、右足を引きずる歩き方で。  蓮水の後ろを、ついてきた。   

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