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第4話

 蓮華(レンゲ)、と蓮水(ハスミ)が一方的に呼ぶ男は、淫花廓(いんかかく)と呼ばれる場所に居た。  淫花廓は現代の遊郭で……現世から隔絶されたような空間に於いて、独特のルールで運営されている……いわば売春宿であった。  淫花廓の大きな特徴と言えば、従業員のすべてが男性ということだろうか。    広大な敷地の中央には人工の川が流れ、その川を挟んで古い旅館のような建物が二棟並び立っている。  大きな方を、ゆうずい邸。  小さな方を、しずい邸と、呼ぶ。  それぞれ邸では男娼たちが暮らしている。    ひと口に男娼と言っても、その役割はゆうずい、しずいによって違っていた。    ゆうずい邸には、その名の通り雄蕊(おしべ)……すなわち、客を抱く立場の男娼が。  しずい邸には雌蕊(めしべ)……客に抱かれる立場の男娼が所属する。    男娼の身の回りの世話や雑用などをする下働きの者たちも当然ながら敷地内に住み、彼らは総じて男衆(おとこしゅう)と呼ばれていた。  淫花廓の男衆は全員が揃いの黒衣に身を包み、頭髪はきれいに剃り上げ、能面で顔を隠している。だからパッと見は誰が誰かわからない。  能面には何種類かあり、かぶる面によって与えられる役割が違うようであった。    蓮水がこの淫花廓に久方ぶりに足を踏み入れたとき、彼は初めてゆうずい邸へと通された。  しずい邸とは調度品から内装から、なにもかもが違っていて、物珍しさにキョロキョロしてしまう。  蓮水の背後には、秘書の飯岡(いいおか)が付き添っており、彼もまた興味深そうな目で周囲を観察している。  ……否、飯岡が見ていたのは蓮水の様子だろうか。    二年前まで淫花廓がしずい邸の男娼として身を売っていた蓮水が、古巣に戻ってどのような顔をしているのか、面白半分に伺っていたのかもしれない。 「よう」    そんな短い挨拶とともに受付へと姿を見せたのは、着流しの男だった。  淫花廓の主である。名は知らない。  懐手した指にトレードマークのような煙管(キセル)を持って現れた楼主は、唇の端で笑って蓮水を出迎えた。 「久しぶりじゃねぇか、」  耳に馴染んだ、懐かしい名で呼ばれ、蓮水は眉を寄せた。 「その名は捨てました。いまはもう、元の名に戻っています」  蓮水の言葉に、楼主が小さく鼻を鳴らした。  レンゲ、というのは蓮水の源氏名だ。  しずい邸の男娼は、花の名前が楼主によって与えられる。  蓮水は、本名に『蓮』の字が入っていたので、単純な連想で『レンゲ』と名付けられたのだった。  そもそも蓮水が淫花廓に売られたきっかけは、両親の残した借金だ。  遊郭内ではありふれた話で……しずい邸の男娼の大半がそのような過去を背負っている。だから、ひとに話しても同情も引けない程度の身の上話だったが、蓮水が他の男娼と違ったのは、売られてきたのは、ということであった。    蓮水の両親は、借金を苦に夫婦二人だけで心中をした。  発見したのは蓮水と……三つ年下の弟だ。    敷地だけは無駄に広い、田舎の自宅の、古びた畳の上で。  両親は、首を吊っていた。  ぶらぶらと揺れる爪先は、いまでもくっきりと目に焼き付いている。  父と母の死後、わけもわからぬうちに蓮水たちは淫花廓へと売られた。  移動する車の中で、弟の手をずっと握りしめていたような気がする。  弟は七歳、蓮水は十歳の頃のことだった。  連れてこられた淫花廓で、兄弟は引き離された。    弟は蓮水の手に爪を立て、必死に縋り付いていた。  蓮水の左手の甲には、そのときの傷がうっすらと残っている。  号泣する弟へと、蓮水は血を吐く思いで叫んだ。  必ず迎えに行くから、待っていろ、と。      それからの蓮水は、弟との再会だけを目的に、過酷な境遇を乗り越えた。  弟は川を挟んだ向こうのゆうずい邸に連れていかれたのだと聞く。  だから毎日、格子のついた部屋の窓からゆうずい邸を眺めた。  弟の姿はおろか、そこで暮らすという男娼の姿すらも見えない、あちらからもこちらの様子を窺えない、そんな造りになっているのは百も承知だったが、それでも蓮水は、その日課を辞めることはできなかった。  あの建物のどこかに弟が居る。  弟は泣き虫で我が儘だったから、早く迎えに行ってやらないとベソをかいて拗ねているかもしれない。    ひとりで身を縮めて泣いている弟を想像するだけで、胸が(よじ)れるように痛んだ。  蓮水は、(おきな)面の男衆の手によって体を開かれることを覚え、水揚げの日に男の味を覚えた。  それ以降はどんな客に当たろうが文句も言わずに相手をした。  金を貯めて、淫花廓を出て……弟を迎えに行くのだ、という目標だけが生き甲斐だった。  しかし、蓮水の努力は中々実を結ばなかった。  指名が思うように増えなかったのである。  つまり、固定客があまりつかない。    面白みがないのだ、と客から言われたことがある。  顔は整っている。  抱き心地も良い。  ただ、味気ないのだ、と。  手前(テメェ)は陰気なんだよ、とは楼主の言葉である。  客は人形を抱きに来てんじゃねぇんだ。  レンゲならではの魅力を出してみろ。  楼主に発破をかけられ、蓮水なりに頑張ってみたけれど、なかなか業績は上がらない。  常に上が(つか)えていた、という理由もあった。    レンゲが(くるわ)に上がった頃、アザミという名の男娼が常に頂点に君臨していた。  アザミが見世に姿を現すだけで、赤い花が咲いたのではないかと錯覚するほどの圧倒的な存在感で、客の視線を奪っていた。    そのアザミが男娼を引退する、と聞かされたときは、しずい邸に激震が走ったものだ。  誰がアザミを落籍(ひか)せたのか、噂が噂を呼んで、しずい邸の中は蜂の巣を突いたような大騒ぎになっていた。    アザミが去り、蓮水はいまが正念場だと思った。  早く淫花廓を出て弟を迎えに行く。そのためには、太客を掴み金を稼がなければならない。  蓮水はアザミのおこぼれに預かり、がむしゃらに働いた。  しかし、アザミの後釜に座れたのはレンゲではなく、アオキであった。    アオキはそれまで、特に目立つ存在ではなかった。  しかし、ある日を境にめきめきと頭角を現すと、あっという間に人気男娼の地位についていた。  噂では、楼主の秘密の手習いを受けたらしい。  蓮水はそれを小耳に挟むと、自分にもアオキと同じことをしてほしいと楼主へ直談判に行ったが、無駄足に終わった。    アオキはアオキ、手前(テメェ)は手前だ。  素っ気なく言い放ち、唇から紫煙を吐き出した男を、蓮水は睨むことしかできなかった。

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