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第6話

 淫花廓の主は、蓮水(ハスミ)と向かい合って座椅子に座ると、脇息に左の肘を預けて体を傾けた。  シャープな頬のラインを歪めて、片頬で笑う男の唇には、黒い煙管(キセル)がある。  刻みタバコからは、どこか甘いような香りが漂ってきていた。 「無理だな」  感情の読めぬ瞳に、蓮水を映して。  楼主が淡々と口にした。  蓮水は眉を吊り上げて座卓を挟んだ向こうに座る男を睨みつけた。 「なぜです。金は払うと言ってるじゃないですか」  廓に居た頃の名残で、楼主に対して敬語で問いかけながら、蓮水は卓上に置いた通帳を男の方へと滑らせた。  財部(たてべ)正範(まさのり)の財産のすべてを相続した蓮水である。金なら、余るほどにあった。  男が鼻を鳴らして、煙管の吸い口でこめかみを掻く。  胡坐(あぐら)をかいていた片膝を立てて、楼主は片目を眇めた。 「金の問題じゃねぇんだ」 「なら、なんですか」 「手前の言うような男娼は、淫花廓(ここ)には居ねぇって言ってんだよ」  蓮水は愕然とした。  一瞬、ポカンと口を開け……それから(まなじり)を吊り上げて怒鳴った。 「嘘を吐くなっ!」  立ち上がりかけた蓮水の肩を、隣で正座していた飯岡(いいおか)が抑えてくる。 「蓮水さん、落ち着いて」 「うるさいっ。弟を返せっ!」    振り回した腕が、茶托に乗った湯呑に当たった。  ガチャンと音がして、お茶が盛大に零れた。  楼主がチッと舌打ちを漏らし、両手を打ち鳴らす。  すぐに襖が開いて、翁面を着けた男衆が姿を見せた。 「般若(はんにゃ)を呼べ。あと、ここを片付けてくれるか」 「はい」 「悪ぃな」  翁へと短く告げた楼主が、おもむろに立ち上がった。  まだ紫煙を上げている煙管を、灰皿の上にことりと置いて。  着流しの袖を揺らして懐手した男が、髪を振り乱している蓮水を見下ろし、顎をしゃくった。 「ついて来い」  男に誘われるままに、蓮水は腰を上げた。  お茶でびしょ濡れになった通帳を、飯岡が手に取り、ハンカチで適当に拭ってからハンドバッグの中へと仕舞い、蓮水の後ろに従った。    ゆうずい邸を出た蓮水は、そこから放射線状に延びる石畳の道を、楼主について歩いた。  蜂巣(ハチス)、と呼ばれる六角形の小屋が、人工の池や庭園を挟みながら点在している。このあたりの造りは、ゆうずい邸もしずい邸も変わらないのだな、と蓮水は思った。    ふと、カラコロと軽やかな下駄の音が追いかけてきていることに気付く。  足を止めた楼主につられて、蓮水を歩みを止め、振り向いた。    足早にこちらへと近づいてきているのは、般若(はんにゃ)面の女……いや、淫花廓に女性は居ないはずだから男性だろうか……と、怪士(あやかし)面の巨躯の男だ。  その二人は、この遊郭にあって、ふつうの男衆とは違っていた。  まず、般若の面の男衆を、蓮水はこのとき初めて見た。  蓮水がしずい邸に居た頃、噂には聞いていた。しずい邸の一室には相談室というものがあり、どうやら相談役は般若面を着けているらしい、と。  しかし蓮水は、他人に聞かせるような相談事などひとつもなくて、相談室を訪れることはなかったのである。  般若は、その面だけが特別なのではなかった。    淫花廓の男衆は皆、揃いの黒衣を身に着けている。しかしこの般若がまとうものは、女物の黒い(つむぎ)だ。それが、ほっそりとした肢体に見事に似合っていた。  さらに般若の頭部には、艶やかに豊かな長髪があった。  男衆は全員剃髪しているものと思っていた蓮水は、そのことにも驚いた。  蓄髪がゆるされているのは、般若だけではない。  般若の背後に付き従うように控えている、逞しい怪士面の男にも、短く刈り上げた毛が見てとれた。   「ひとを呼び出すなら、行き先ぐらい明確にするべきじゃないかい?」  とろりとした声音が、恐ろしげな鬼女の面の下からこぼれる。蓮水はその声に聞き覚えがあるような気がして、眉を軽く寄せた。  楼主が詫びのひと言も告げずに、 「紅鳶(べにとび)はどうした」  と般若へ問うた。  細い肩を竦めて、般若がてのひらを上へと向ける。 「あんたが背負(しょ)い込んだ面倒事だ。あんたが片付けろ」 「なんだと?」 「時期楼主さまからの伝言だよ。僕はあの男の言葉をそのまま伝えただけ。苦情なら、紅鳶に直接言うんだね。伝書鳩の真似事は、これ以上はごめんだよ」  楼主が顎先を掻き、チッとまた舌打ちをする。 「……ったく。どいつもこいつも仕様がねぇな」  苦くこぼした男は、これみよがしなため息とともに蓮水を流し見てきた。 「来な。般若、手前もだ」  楼主に鋭く呼ばれ、般若が諦めたように小さく鼻を鳴らした。 「あなたが僕にさせたいことはわかるけれど……」 「わかってるならつべこべ言うんじゃねぇよ」 「まぁ、知った顔のよしみだからね。仕方ない」  般若の言葉に、蓮水は内心で首を傾げた。  知った顔、とはどういう意味か。  彼は蓮水の知り合いなのか。……もしくは、飯岡の。  ちら、と飯岡の顔を伺ったが、整った顔をした秘書は口元にあるかないかの笑みを浮かべたまま、感情を伺わせぬ横顔を見せていた。       楼主の先導で、蓮水たちは敷地の奥へ奥へと歩を進めた。  いつしか、蜂巣の連なりもなくなっていた。  あまり整備されているとはいえない道ではあったが、タイヤの跡があることから、普段は車で移動しているのかもしれないと察せられる。 「この先は物資管理庫だよ」  不意に、般若が話しかけてきた。  その声が呼び水となったかのように、視界を遮っていた木々の向こうに、白壁の大きな建物が見えた。  倉庫にいったいなにがあるのか……疑問に思った蓮水へと、般若が甘い声で囁いてくる。 「管理庫で物資の運搬をする男衆は、担当が細かく決まってるんだよ」  いったいなんの説明なのか、蓮水が興味を見せたわけでもないのに、般若が語り始めた。 「在庫の管理なんかはコンピューターで行っているけどね、物を運ぶのは単純に人力が必要だから、ちからのある者、真面目でさぼったりしない者、言われたことだけを従順に行える者……そういった男衆がここの担当になるようだよ」  指折りで望まれる人材の特徴を上げた般若が、面の奥の瞳で蓮水を覗き込み、言葉を付け足した。 「あとは……他の場所で使えないような……単純作業しかできない、知能の劣る者」  さらり、と般若の長い髪が揺れる。  ゆるく波打つそれを、手櫛で背中へと流して。  般若が蓮水の肘の辺りを掴んできた。  気づけば、目の前に管理庫の扉があった。    扉の左右には、見張りなのだろうか、黒衣の男衆が二人控えている。  彼らが頭を下げてくるのに、楼主が鷹揚に頷いて応えていた。    般若が、蓮水の体をぐいと前へ押し出す。   「開けてごらん」  甘い声が蓮水を誘った。  蓮水は扉に手を掛け、重いそれを、ゆっくりと開いた……。  

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