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第10話

 楼主が弟を従えて戻ってきたのは、二十分ほどが経過してからだった。  能面を外した彼は、和装に身を包んでいた。 「蓮華(レンゲ)だ」  と、楼主が短く言った。  その言葉で、ゆうずい邸の男娼としての体裁を整えるべく、わざわざ黒装束から着物に着替えさせたことが知れた。  蓮華、と新たな名をもらった男は、広い肩幅をおどおどと竦め、嫌々をするように首を横に振った。 「ぼ、ぼく、ちがう……」  大人びた頬のラインに反するように、怯えを孕んだ黒い瞳を落ち着きなく動かして、蓮華が左手を伸ばした。  助けを求めた先は、般若だった。  蓮水(ハスミ)は、こちらを一度もまともに見て来ないその姿に、胸をぎりぎりと締め付けられる思いがした。  黒い(つむぎ)の裾を掴まれた般若が、先ほど蓮水にしたように、やわらかな仕草で蓮華の短い髪を撫でている。 「おまえは今日から、あのひとのところで暮らすんだよ」  般若が指先で蓮水を示して、そう語りかけたけれど、蓮華は頑なに首を振って、「違うもん」と繰り返した。 「ぼ、ぼくの(うち)はここだもん。あのひと、なに? ぼくをどうするの?」    泣きべそをかいている蓮華を余所に、楼主と飯岡は契約書を交わしていた。  書類に記された文言と、その金額を確認した飯岡が、 「蓮水さん」  と呼んでくる。  意識は蓮華に残したままで、蓮水は顔を振り向けた。  飯岡が、整えられた爪先で、トントンと紙面の下を弾いた。 「こちらに署名と捺印を」  秘書に促され、蓮水は碌に中身を確認せずに、そこに記名する。  財部(たてべ)蓮水。  慣れぬ名字を、ぎこちない文字で書いた。    記入してすぐに、視線を蓮華へと戻した。  大柄な男は、華奢な般若にしがみつくようにして泣いていた。  それを見た途端、頭にカッと血が上った。  蓮水は憤然と彼らに駆け寄ると、強引に二人を引き離した。  弟の名を呼ぼうとして息を吸い込み……もうこれは弟ではないのだと思い出して、強引に音を変え、 「蓮華っ」  とかつて自分に与えられた花の名前を口にする。  蓮華が首を竦め、蓮水の体を突き飛ばそうとしてきた。  咄嗟にその両肩を掴み、蓮水は離れまいとちからを込めた。 「蓮華。おまえは今日からオレと一緒だよ。オレは、蓮水。おまえの兄ちゃんだ。オレは……」 「やっ、嫌だっ」  蓮華が体を捩って、こぶしの形に握った右手で、ドン、と蓮水の胸を叩いた。  容赦のないちからだった。  息が一瞬ぐっと詰まる。  けれど蓮水は両手を離さなかった。 「こら! 暴力はダメだって言ったろう? おまえはちからが強いんだから、絶対に叩いてはいけないよ!」  般若の叱責の声が飛んだ。  蓮華が情けなく眉を下げて、「だって……」と唇を尖らせた。その仕草が、子どものそれで……見ている蓮水が悲しくなった。    蓮水はふと、握りっぱなしの蓮華の右手が気になり、胸元をさすりながら問いかける。 「おまえ……なに持ってるの?」  盗られるとでも思ったのだろう、蓮華がものすごい早さで右手を腰の後ろへと回して、蓮水からそれを隠した。  般若が面越しに嘆息を漏らす。 「この子の宝物だよ。邪魔になるようなものじゃないから、持たせてあげな」  言われなくても、蓮華が持っていきたいものがあるなら、なんでも持たせるつもりだった。    蓮水は……蓮水よりも弟のことをわかっていると言わんばかりの般若の態度に、腹の奥が焼け付くような嫉妬を覚えた。    離れていた年月を、早く埋めたい。  焦る気持ちが湧いてくる。  蓮水はその苛立ちを、ため息とともになんとか外側へと逃がした。  蓮華の身請けは呆気ないほど簡単に終わった。  蓮華が本物の男娼であればもっと煩雑な手続きが必要なのだ、と聞いてもいないのに飯岡が教えてくれる。  この男は蓮水の身請けにも立ち会っていたから、その過程をつぶさに知っているのだった。  蓮華はずっと泣いていた。  嫌だ、行きたくない、とごね続けた。  裏口につけた車へと、その蓮華を連行(まさに連行という表現が相応(ふさわ)しかった)したのは、般若の後ろに控えていた、怪士(あやかし)面の男だった。  蓮華の体格も良かったが、この怪士には敵わない。 「あの子は足は悪いけれど、毎日の荷運びでちからだけはあるんだよ。おまえなんて吹っ飛んでしまうから、気を付けるんだね」  怪士に引きずられてゆく蓮華の後をゆっくりと追いながら、般若がそう囁いてきた。  弟は……幼いころの弟は元気いっぱいで走り回っていたような子だったが、蓮水を叩いたり、他の子どもをいじめたりするような真似は一度もしなかった。  だから、蓮水は薄く笑って、「大丈夫ですよ」と応じた。  後部座席に押し込められた蓮華の隣に、蓮水は体を滑り込ませた。  蓮華がドアに縋りつき、ガタガタと揺する。  飯岡の指示で、運転手が即座にチャイルドロックを掛けた。 「た、たすけてっ、たすけてっ」    幼い口調で、蓮華が叫んだ。  窓ガラスの向こうには、般若と怪士、そして楼主が立っている。  楼主の、感情を伺わせない深い色の瞳と、蓮水の視線がかち合った。  男が顎をこする。なにかを告げようと、薄い唇を動かした楼主から、蓮水は目を逸らせた。  やめるならいまだぞ、と言われると、思った。  弟ではない、精神年齢が子どもの、大の大人を引き取ろうとする蓮水のことを、愚かだと思っているのがわかる。  楼主も、般若も、恐らくは飯岡も、蓮水のことを愚かだと笑いたいのだろう。  けれど蓮水にはもう、この男しか居ない。  弟のためにだけ、生きて……弟のためにだけここまで来たのだ。  蓮水にはもう、この男しか居ないのだった。  蓮水はそっと手を伸ばし、こちらに背を向けてドアを乱暴に開けようとしている蓮華の、短い髪を撫でた。  蓮華は振り向かない。  泣きながら、なんとか車から降りようとしている。  般若がひらりと手を振った。    それを合図に車が動いた。 「ああっ」  蓮華が悲痛な悲鳴を上げた。  嫌だ、行きたくない、と泣き続ける湿った声が、車中をしばらく埋め尽くしていた……。        

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