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第12話

 子どもの頃の記憶は、脳内で再生させすぎて、もはや色褪せている。  けれどあの……両親が心中したあの日の記憶だけは、忘れたくても忘れることができなかった。  夢にも、繰り返し現れる。  ぶらぶらと宙に浮く、両親の爪先は。  田舎だった。  家の周囲には田んぼや畑しかないぐらいの、田舎だった。    学校は遠かった。  片道を、子どもの足で30分かけて歩いた。  手をつないで歩く弟が寄り道をするものだから、それ以上の時間を要することもままあった。  1つの石ころを交互に蹴って家まで帰れるか。  田んぼのあぜ道を目を閉じて歩けるか。  しょうもない遊びを思いついては、弟はそれを蓮水(ハスミ)にもするようねだってきて……蓮水はいつも、溌溂と明るい弟に引きずられるようにしてあちこちを連れ回された。  蓮水の家は、農家だった。  収入は不安定で家業が上手くいっているとは到底言えなかったが、蓮水は4月の終わりに、まだ水を張る前の田んぼにレンゲの花が咲き乱れ、ピンクと緑に染まるのを見るのが好きだった。  流行りのゲームも買えないような家で、弟と二人、金のかからぬ遊びをする。嫌だと思ったこともない。  弟もまた、あれを買ってこれが欲しいなどのワガママを、ほとんど口にすることがなかった。    満たされていた。  しあわせだったと、思っていた。  けれど、その空間は、ある日音を立てて崩れた。  両親が詐欺にひっかかり、巨額の借金を背負ったのである。  必ず儲かる上手い話がある、と、いま思えば馬鹿のような口車に乗って、言われるがままに借金の額を増やした両親は、相手が詐欺師だったことがわかると絶望した。     娯楽もない田舎町なので、噂が回るのは早い。  蓮水は、近所のおばちゃんが憐みの目で「あなたのところ、大変ねぇ」と言ってきたことで、家がただならぬことになっていることを知った。    借金の取り立ては、紳士的ではあったが執拗だった。  朝昼晩、時間を問わずに誰かが家を訪れてくる。  怒鳴ったり、暴力を振るわれたりはしなかった。  両親に金を返す意思があったからか、それとも、徐々に段階を踏んでいくつもりだったのか、スーツを着た男たちは、剣呑な雰囲気を漂わせてはいたが、乱暴な振る舞いはしなかったように記憶している。……少なくとも、蓮水や弟の前では。  日に日に暗くなってゆく両親の顔を見ているのが嫌で、蓮水は弟と一緒に外で時間をつぶした。  れんげの花が、咲く時期であった。  ピンクのような紫のような可憐な花を、弟が(いらずら)に摘んでゆく。  ミツバチが蜜を集めて回るのを、蓮水は見るともなく眺めていた。    これからどうなるのだろう。  そんな不安が、漠然と幼い胸の内にあった。  けれど蓮水が浮かない顔をしていると、弟が心配するから。  蓮水はこのときも、いつも通りの表情を心掛けていた。   「兄ちゃん、兄ちゃん」  呼ばれて、れんげ畑の中に居る弟を振り返る。  小さな手に、摘んだ花を握って。 「かんむり作れる?」  弟が、無邪気に問うてきた。  花の冠……そういえば以前、同級生の女の子がシロツメクサを使って作っていたけれど……あれはどうやって編んだのだろうか。  蓮水は首を傾げてそのときのことを思い出そうとしたけれど、よくわからずにあきらめて首を横に振った。 「作れないよ」 「え~、な~んだ」  弟が唇を尖らせて、花を未練もなくぽいと投げ捨てた。 「冠を、どうするの?」 「え?」 「冠を作って、どうしたかったの?」  蓮水の問いかけに、弟が「あげようと思ったの~」と間延びした声で答えた。 「誰に?」     蓮水は重ねて尋ねながら、近所の女の子の誰かだろうかと考えた。  過疎化の進むこの田舎町には、子ども自体が少ない。  弟のクラスメイトの女の子も、十人に満たないぐらいで……その内の誰に弟が惹かれているのか、興味を覚えた。  けれど弟は。  えへへ、と顔全体に明かるい笑みを浮かべて。 「ひみつ~」  それだけを答えて、あぜ道の方へと駆け上がって行った。  ふと見れば、太陽が西に傾いている。  ちらと振り仰いだ自宅の方には、今日は黒塗りの車は停まっていなかった。  借金取りの男たちは来ていないのだ。  ならば、戻っても大丈夫だろう。  蓮水は弟を追おうと、足を踏み出した。  靴の裏に、やわらかな土の感触。  そこに、なにか違和感を感じて、右足を浮かせる。  半ば地面に埋まった、緑色の球体が見えた。  蓮水はしゃがみ込むと、指先で土をほじった。  ころりと丸いそれを、つまみ上げる。  ビー玉だ。  ズボンの腰のあたりにこすりつけて、土を拭う。  きれいになったそれを、空へと掲げてみた。  太陽の光が、きらりと反射する。  虹のプリズムが蓮水の目を射た。  きらり、きらり。    蓮水はもう一度、地面を探した。  草の間を掻き分け、他にも埋まっていないかと視線を走らせる。  あった。  同じ色のビー玉が、もうひとつ。  蓮水はそれを、同じようにズボンで拭って、弟を呼んだ。  あぜ道の上から顔を覗かせた弟を手招くと、小さな体が転がるように駆けてくる。  蓮水の傍らまで走ってきた彼が、ふっくらとした頬を紅潮させてこちらを見下ろしてきた。しゃがみ込んだままの蓮水よりも、立っている弟の目線の方が高い。   「手、出して」    蓮水が促すと、弟がもみじのような手を広げて蓮水へと差し出してきた。   「はい、あげる」  蓮水はそこへ、ビー玉をころりと乗せた。  弟が「わぁ」と歓声を上げる。 「どうしたの、これ?」 「そこに落ちてた。誰かが捨てたのかも」 「へぇ……きれいだねぇ」  先ほどの蓮水と同じように、弟がビー玉を光へと透かして。  えへへと笑みをこぼした。 「見て。もうひとつ。おまえとオレとで、ひとつずつだね」    蓮水は自分の分のビー玉を弟へと見せてやった。  弟が、手に持ったそれと蓮水のものとを比べて、 「おんなじガラス~」  と言って笑った。 「え?」 「おんなじ色だから、おんなじガラス~。兄ちゃんとぼくとで、一個ずつ~。おんなじものを、一個ずつ~」  妙な節回しで即興の歌を歌う弟の髪を、ぐしゃぐしゃとかき回して。 「帰ろうか」  と、蓮水は言った。  うん、と頷くなり弟が走り出した。  そして、蓮水を振り向いて。 「兄ちゃん、早く~」  と蓮水を呼ぶ。  急かされて、蓮水は立ち上がった。ずっと屈んでいたからだろうか。くらりと眩暈がおこる。  ふらついた足の下でれんげの花がつぶれた。  あ、と地面に目を向けるよりも早く、右手に絡んでくる熱があった。  待ちきれずに駆け戻ってきた弟の手のぬくもりだった。    兄弟はそれぞれ、片手にビー玉を握り。  もう片方は、お互いの手を握って。  並んで、家路を辿った先で……。  そこで、両親の首吊り死体と対面したのだった……。  両親は、ふたりきりで死んでいた。  まるで、子どもの存在など忘れてしまったかのように。  最初から二人きりだったとでも言わんばかりに。  ふたりで仲良く首を吊って。  両親の体は、先ほどの蓮水たちと同じように、手を繋いでいた。  指を絡ませ合った手首には、赤い紐が絡まり、しっかりと縛られていた。  ……あの世でも、離れないようにだろうか。  ぶらり、ぶらりと揺れている爪先を見つめながら。  畳に染みた汚物の匂いの中で、蓮水は。  自分たちは置いて行かれたのだと、悟った。    父と母は、蓮水と弟を置き去りに、自分たちだけで旅立ったのだ……。  蓮華(レンゲ)が……。  後部座席で泣いている、この弟が。  薄情な両親のことも。  蓮水のことも、忘れてしまったくせに。  ビー玉だけを、宝物だと言って持っていたことが、ゆるせなかった。    蓮水のことは、忘れたくせに。  あんなガラス玉は、大事にするのか。  蓮華のせいじゃない。  蓮華の罪じゃない。    それはわかっていたけれど、気持ちのやり場がなかった。    蓮水は殴られた頬の痛みにうめくふりで顔を覆って、ひとり泣いた。   

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