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第13話

 財部(たてべ)の所有しているマンションの一室に、蓮水(ハスミ)蓮華(レンゲ)を連れ帰った。  財部の屋敷には、弟を連れて行きたくなかったから。  屋敷の至るところで、蓮水は財部正範(まさのり)に抱かれており。  その姿を使用人たちにも見られていたのだった。  蓮水は彼らに軽蔑されている。  それは、財部の資産のすべてを蓮水が継いだことでますます露骨になっており、あの屋敷に蓮水の味方は誰ひとりとして居ない。  そんな場所に、蓮華を立ち入らせたくなかった。  高層マンションの最上階。  かつて育った家のように田んぼや山々からはかけ離れた、都会の眺望を楽しめる場所を、蓮水は敢えて用意した。  蓮華のためというよりは、自分が、あの家を思い出したくなかったからだ。  その点で言えば、淫花廓での暮らしは精神的に厳しかったと思う。あそこは……純和風な造りになっている場所が多く、畳を踏むだけで蓮水は、空中で揺れる両親の爪先を思い出して吐き気に襲われたものだ。  弟もこのような場所に居るのならば、泣いたり(うな)されたりしているのではないか、と、あの頃の蓮水は心配していたけれど……弟は、その記憶をきれいさっぱり忘れていたのだから、安堵すればいいのか落胆すればいいのか、気持ちの整理がつかない。  運転手は先に帰し、蓮水と蓮華、そして飯岡が部屋へと入った。    ビー玉を車の窓から捨てた蓮水に対する怒りがまだ治まっていないのだろう、蓮華は飯岡の背後から時折恨みがましい視線を向けてくる。  今日からこの部屋で二人で暮らすというのに……早くも亀裂の入ってしまった関係が修復できるのか、蓮水は陰鬱な気分でため息を飲み込み、無理やりに作った笑顔を弟へと向けた。 「蓮華。今日からここがおまえの家だよ」    西日に照らされ、オレンジ色に浮かび上がるリビングを、手で示して。  蓮水は明るい声でそう告げた。  唇を動かすたびに、蓮華に殴られた左の頬が痛んだ。  赤く腫れあがっているだろうそこを見て、飯岡がカウンターキッチンの向こうへと回り、冷蔵庫の冷凍スペースから小さな保冷剤を出してきた。   「冷やしてください」  秘書に言われて、蓮水はそれを受け取ると、唇の端に押し当てた。  じんじんと疼いていたそこに、保冷剤の冷たさは気持ちよかった。    蓮水の頬が腫れている原因が自分だということが気まずいのだろうか、蓮華が男らしく整った眉をぎゅっと寄せ、広い肩を縮めた。  居心地が悪そうに身じろいだ彼を、蓮水は手招いた。 「蓮華、おいで。おまえの部屋はこっちだ」  蓮華を呼びながら蓮水は、弟のために整えた部屋について考えた。  まさか弟が幼いままで精神の年齢を止めているなど想定していなかったため、家具やカーテンなどはシックな色合いのものを揃えている。  だが、この蓮華が十歳前後なのであれば、昔の弟の部屋のようにキャラクター物などを揃えたほうがいいのだろうか?  蓮華がここでの生活に慣れたら、一緒に買い物に行こうか。  これから弟と生活ができるのだ、と考えれば気持ちが浮き立ってきて、蓮水は作り笑いではない笑みが口元に浮かぶのを感じた。    けれど。 「ぼ、ぼくの(うち)じゃない」  と、蓮華が首を横に振ったから。  微笑は一瞬にして掻き消えてしまう。 「ここ、ぼくの(うち)じゃないっ! ぼく帰るっ」  叫ぶなり蓮華が踵を返し、玄関に猛然と向かっていった。しかし、右足が悪いのですぐに飯岡に追いつかれる。  飯岡が背後から蓮華の肩を掴んだ。 「しばらくはここで過ごすよう、楼主からも言われたでしょう?」  諭すような男の言葉に、蓮華が泣き出す直前のような表情で、顔を振り向けた。 「しばらくっていつまで? 何日ぐらい? いつまで我慢すればあそこに戻れるの?」    畳み掛けるように質問を繰り出され、飯岡が返答に窮する。   「おまえはずっとオレと暮らすんだよ」    蓮水は我慢できずに声を割り込ませた。 「蓮水さん」 「おまえはもうあんな場所に戻らなくていいんだ。おまえの家はここだよ」 「蓮水さん」    飯岡に遮られつつも、蓮水はそう言い放った。  体の前で両手をぎゅっと握りしめた蓮華が、唇を噛んで蓮水を睨みつけてくる。 「お、おまえ、嫌いだっ」    蓮華が叫んだ。  ワナワナと手を震わせて、地団駄を踏み、節の高い指を蓮水に突き付けて。 「き、嫌いだっ! 嫌いっ!」  子どものように、そう繰り返した。  そして、飯岡の手を振りほどくと玄関のドアに飛びついた。    ガチャガチャとドアレバーを揺すり、二箇所の鍵のつまみを回す。  飯岡が咄嗟にドアガードを倒した。  蓮華が扉を思いきり押す。しかしガードが邪魔して開かない。   「蓮華っ」  蓮水はドアと格闘している男を羽交い絞めしようと両腕を回した。  蓮華が嫌がって体を捻った。  そのまま、ものすごいちからで蓮水は突き飛ばされた。  踏ん張り切れずによろめき、廊下にどさりと転がる。  頭が壁に当たった。  派手な音に驚いた蓮華が、ピタリと動きを止めた。  蓮水は痛みに呻きながら、起き上がろうともがいた。 「蓮水さん。動かないでください。どこを打ちました?」  蓮水の傍らに膝をつき、体を屈めた飯岡が、動こうとする蓮水を押し留めてくる。  それを無視して、蓮水は立ち上がった。  玄関では蓮華が立ち尽くしている。  自分の暴力の結果に驚いたのだろう。  そういえば車中で蓮水を殴ったときも、怒りに駆られながらも彼は、二発目のこぶしを振り下ろそうとはしなかった。  血を流している蓮水に、それ以上の暴行は加えようとしなかったのである。  蓮華の中にはちゃんと、弟が居る、と蓮水は思った。  やさしくて、明るくて、兄ちゃん兄ちゃんと懐いてきた弟が。  ちゃんと、存在しているはずだ。    別物ではない。  蓮華と弟はべつの存在ではない。  蓮水は、自分に言い聞かせるように内心で呟いた。    けれど、ゆるせない。  蓮華を擁護する声に混じって、冷え冷えとした意識が浮上してくる。  蓮水から離れたがる蓮華を、ゆるせない、と。  蓮華は蓮水のものだ。  弟と暮らすために蓮水は……今日までを、生きてきたのだから。  蓮水はふらふらと立ち上がった。 「蓮水さん」  追ってくる飯岡の声に、振り向きもせずに。  蓮水は歩いた。  リビングに戻り、左手奥のカウンターを回って、キッチンスペースへと入る。  流しの下の収納を開き、そこから目当てのものを取り出した。  蓮水はそれを右手に持つと、再び玄関へと戻った。 「蓮水さんっ」  飯岡が、蓮水が手にしているものを見て、ぎょっとした表情をする。  沈着冷静が常態の秘書が慌てた顔をするのが面白くて、蓮水は唇を歪めた。 「おまえがどうしても出ていくと言うなら」  蓮水は握ったそれを、顔の高さまで持ち上げ、蓮華との距離を埋めた。  蓮華が怯えた目をして、じり……と下がる。  彼の背が、扉に当たった。   「おまえが出ていくと言うのなら、おまえの左足の腱を切る」  静かな口調で、蓮水はそう言って。  手にした包丁の刃を、男の足下へと向けて、ピタリと構えた。 「歩けなくなれば……おまえはここに居るしかない」    弟をここに閉じ込める。  蓮水の、傍に。    二度と離れ離れにならないように……。        

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