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エピローグ

 蜂巣(ハチス)の入り口の傍に籠が置いてあり、そこに二人分の着替えが入っていた。  あの卒のない秘書が、去り際に手配したものだろうと予測がつき、蓮水(ハスミ)は小さく笑ってしまった。    よく眠っている蓮華(レンゲ)を揺り起こして、身支度を整える。  体は少し怠かったけれど、こころはスッキリとしていた。  蓮華にもらった麻紐の冠は元の箱に仕舞い、蓮水はそれを大事に胸に押し抱き、蓮華と一緒に蜂巣を出た。  ゆうずい邸まで続く石畳の上を歩いていると、その途中に般若面の男衆が立っていた。彼は蓮水を見て吐息のような笑い声を漏らすと、そのままなにも言わずに蓮水たちを先導した。  カラコロと、般若の下駄が軽やかな音を立てる。  般若に伴われて辿り着いたのは、ゆうずい邸の応接室だった。  そこには楼主がいつもの仏頂面で煙管を吹かしていた。  男の鋭い瞳がじろりと動き、蓮水と蓮華を交互に見た。 「あの男は今朝早くに出て行ったぜ」  白い煙とともに楼主の口から放たれたセリフに、蓮水は静かに頷いた。    半分眠りながら聞いた飯岡の独白は、夢なんかじゃないとわかっていた。  別れを告げられたことも、わかっている。   「どうすんだ」  楼主に短く問われ、蓮水は蓮華と視線を見交わせた。  蓮華が顔中でくしゃりと笑う。 「迎えに行きます」    揺らぎなく、蓮水はそう答えた。   「蓮華とも話しました。飯岡が居ないと、オレたちはしあわせになれないから……だから、迎えに行きます」 「居場所はわかンのか」 「知りません。でも、探します」      飯岡の行先は恐らく、財部(たてべ)正範(まさのり)墓所(ぼしょ)だ。  社葬後に弔われたところではなく。  飯岡しか知らない、本当のお墓。  彼はそこへ、『レンゲ』の報告に向かったはずだった。  墓の場所はわからない。  けれど、探す。  そうできるだけのちからが、蓮水にはある。    煙管を咥えた唇が、にやりと歪んで。 「ちょっとは真面(まとも)なツラになったじゃねぇか」  と、楼主が片目を細めてそう言った。  蓮水は男へと深く頭を下げた。蓮華が蓮水の真似をしてお辞儀をする。 「蓮華、行こう」  蓮水が促すと、蓮華が笑顔で頷いた。 「そう呼ぶのか?」  不意に問われ、蓮水は楼主の顔を窺った。  煙管に溜まった灰を落としながら、特段の興味もなさそうに男が尋ねてくる。 「、呼び続けるのか?」  蓮水は小さく息を吸い込んだ。    実の弟と体を繋げることに対する罪悪は、まだ完全には払拭できていない。  たぶん、これからも迷い続けるだろう。  もしもこの先、蓮華の記憶が戻ったら。  彼はきっと、蓮水を恨む。  兄と肉体関係を持ったことを嫌悪するかもしれない。  それに……記憶を失ったままであったとしても、蓮華がこころ変わりしないとは言い切れなかった。  彼はこれまで、淫花廓や蓮水の用意したマンションの一室といった、ごくごく狭い世界しか知らなかったから。  これからたくさんの新しい体験をし、そこでたくさんの出会いを得るだろう。  そのときには、蓮水の存在が枷になるかもしれなかった。    『蓮華』ではなくて。  弟の名前に戻してあげた方が、彼にとってはいいのかもしれない。    けれど、蓮華が。 「おれが『蓮華』だから、ハスミに好きって言ってもらえるの。おれもハスミが好きだから~。だからおれ、『蓮華』のままでいいの!」    そんなふうに笑って、明るく言ってくれたから。  もう少しの間……彼が蓮水の傍に居てくれる間は、蓮華と呼び続けようと、決めたのだった。  楼主へと蓮華が、きらきらした瞳で話かけている。 「おれといーおかが~、ハスミをしあわせにするの! それで、ハスミとおれが、いーおかをしあわせにして~、いーおかとハスミが、おれをしあわせにしてくれるんだよ!」    楼主が肩を揺すって笑った。くつくつと、可笑しげに。 「存外、手前(テメェ)が一番真理に近いのかもしれねぇな」 「しんり?」 「手前が正しいってことさ」 「おれ、正解?」  えへへ、と蓮華が微笑んで、黒々とした瞳で蓮水の方を見てきた。  蓮水は彼に笑みを返すと、再び楼主へ一礼をしかけ……ふと思い立って男へと尋ねてみた。 「あなたは、れんげの花言葉を知ってますか?」 「あん?」 「いえ……少し気になって」  蓮水が口ごもると、楼主が指で顎をこすりながら立ち上がり、扉の外で控えていた翁面の男衆へと「おい」と声を掛けた。  何事かの指示を受けた翁が小走りで立ち去り、筆記用具を携えてすぐに戻ってきた。彼からなにか耳打ちされた楼主が頷き、元の席に着くと男衆から受け取った筆ペンで白い用紙にさらさらと文字を書きつけた。  楼主は自身で書いたそれを一度眺め、 「餞別だ」  と言ってひらりと蓮水へ放った。  空中に舞ったそれを、蓮水よりも素早く反応した蓮華の手がキャッチする。  蓮華はその紙を蓮水の前に広げてくれた。  蓮水はまじまじと、流麗な文字を見つめた。れんげの花言葉が、刻まれていた。 「ありがとうございます。……蓮華、おまえのお守りの中に入れてくれる?」 「うん」  蓮華が首元の紐を手繰り、ビー玉の入った小さな巾着を取り出す。  蓮水は小さく折りたたんだ紙を、そっとその中に押し入れた。   「もう行きます。お世話になりました」  楼主へと最後の挨拶を口にして、蓮水は蓮華と並んで部屋を出た。 「もう戻って来るんじゃねぇぞ」  ぶっきらぼうな声が背中にぶつかってきて、蓮水は声を殺して笑った。蓮華も笑っている。 「蓮華。おまえは本当に『れんげ』だったよ」 「どういう意味?」 「飯岡に会ったら、教えてあげる」 「うん! 早く迎えに行こうね~。いーおかもさびしくて泣いてるかもしれないし~」 「はは……飯岡が泣くかな?」  他愛のない会話を交わしながら、どちらからともなく手が伸ばされ、指が触れた。  そのまま絡め合い、しっかりと握りしめる。  隙間なくぴったりと合わさったてのひらから、蓮華のぬくもりが伝わってきた。  蓮水は蓮華と手をつないだまま、足を踏み出した。  眩しくもうつくしい、箱庭の外の世界へと……。    『箱庭に、ひとり~淫花廓~』 終幕  れんげの花言葉  『あなたは私の苦痛をやわらげる』  『こころがやわらぐ』   

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