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第53話

 髪を、撫でられている。  さらさらと。  さらさらと。  蓮水(ハスミ)の隣にはぬくもりがあって、それはぴたりと蓮水に寄り添ってくれていた。  ごそり、と蓮水が小さく身じろぐと、反射的な動作で右手がぎゅっと握られる。  手を繋がれているのだと、朧気(おぼろげ)に蓮水は理解した。    蓮華(レンゲ)が、蓮水の手を、握ってくれている。    とすると、頭を撫でているのは飯岡だろうか。    蓮華と散々交わった後の体は泥のようで、覚醒は中々訪れない。  ふわりと浮上した意識はまたとろとろと溶けだして、蓮水は宙に浮くような心地の中で、飯岡の手の感触と、蓮華の体温を感じていた。 「本当はあなたが憎かった」  ぽつり、と呟きが落ちてきた。  飯岡の声が、耳ではなく蓮水の内側に直に響いているかのように、広がる。  本当はあなたが憎かった。  正範(まさのり)さんに抱かれているあなたが、憎かった。  けれど同時にいとしくもあった。  誰に抱かれていても空っぽなあなたが、哀れで、可愛そうで、いとしかった。  あなたは『レンゲ』で……もうひとりの私なのだと、そう思っていました。    知ってましたか?  正範さんは、社葬が行われる前に、すでに私が荼毘(だび)に付していた。  あのとき、棺桶の中は空っぽだった。  ……と言ってもあなたはずっとぼんやりしてましたから、なにも気づいてなかったでしょうね。  彼の遺体は、私が火葬しました。  私の入れたれんげの花と一緒に、彼は灰になった。  蓮水さん。  正範さんを殺したのは、私なんですよ。    あの日の早朝に、心臓の発作を起こした彼に……私は薬を与えなかった。  あのひとは、私の見ている前で苦しみながら死にました。  私が彼を、見殺しにした。  もういいだろうと、思ったんです。  もういいだろう。  もう、私だけのものになってもいいだろう、って……。  正範さんが父である以上、私は二度と彼とは交われない。  あのひとも苦しんでいましたが……きっと、私の方が苦しかった。  あのひとはあなたを私の代わりにしたけれど、私には、あのひとの代わりなんていなかった。  誰よりも近くにいるのに、愛し合うことだけができない。  苦しかったですよ。  それでも、あなたが居て良かったと思ったことも、一度や二度じゃない。  あなたを介して私は、正範さんに抱かれることができたのだから。  蓮水さん。  正範さんのお墓もね、空っぽなんですよ。  位牌もお骨も、もう私だけのものだから、私だけしか知らない場所に埋葬してるんです。  あなたとはもう、正範さんを共有しません。  彼は私だけのものになった。  私が欲しかったのは正範さんだけでしたから、他の財産はすべてあなたに遺してあげなさいと、私が正範さんに言ったんですよ。  だからあなたが引き継いだものは、すべてあなたのものだ。  私に返すなどと言わずに、受け取っておきなさい。  もちろんそれなりのお金は生前分与でいただいますので、私のことは気にしていただかなくて結構ですよ。  ……そういえば契約書の話をしていませんでしたね。  私と正範さんの間で交わされた契約書に書かれていたのは、たったひと言だけなんです。  正範さんが、あなたに資産のすべてを託すと遺言状を書いたとき、私宛の契約書も更新されました。  なんて書かれていたと思いますか?  しあわせになれ、ですって。  馬鹿げているでしょう?  私のしあわせを奪った張本人が、私のしあわせを祈るなんて。  本当、馬鹿みたいだ。  でも私には、彼の気持ちがよくわかりました。  私自身、祈っていた。  財部(たてべ)正範が壊してしまった、男娼の『レンゲ』のしあわせを。  ……蓮水さん。  『レンゲ』がしあわせになるところ見せていただき、ありがとうございます。  あなたと私は、べつの人間だけれど……たぶん、『レンゲ』という男娼はあなたと私で、ひとりだったんですね。  蓮華さんに抱かれているあなたは、きれいだった。  とても、きれいでしたよ。   これで正範さんに良い報告ができます。   あのひともきっと、喜んでくれる。      ねぇ、蓮水さん。  れんげの花言葉はご存知ですか?  私はこれを知ったとき、なんの皮肉だと思いましたが……あなた方を見ていると、とてもしっくりきました。  あなたと蓮華さんは、私と正範さんで築けなかった関係を、築いていくことができるんですね。  あなた方でなければ築けない……愛を。  蓮水さん。しあわせになりなさい。  蓮華さんと二人で、しあわせになりなさい。    常になくやさしくやわらかく響く飯岡の声は、子守唄を奏でるかのようだった。  蓮水は揺蕩(たゆた)う意識の中で、それを聞いた。    蓮水のこころに、ある予感が満ちてくる。    それは、別れの予感だった。    蜂巣(ハチス)の窓から差し込む朝の白い光で、蓮水は目を覚ました。  起き抜けから、意識はクリアだった。  隣では蓮華が眠っている。  顔を巡らした。  六角形の、室内に視線を走らせる。      飯岡蓮月(ハヅキ)の姿は、どこにも見当たらなかった……。    

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