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一年目・冬
ごめんなさいね、と笑う時、叔母さんの声は少しだけ尻すぼみになる。
「冬の間は閉めちゃおうかって、迷ったの。でもねぇ、この前ほら、テレビの旅番組で特集されたでしょ? それがね、思ってたよりも、反響があったって話でねぇ……秋からずっと予約が途切れなくなっちゃって。ごめんなさいね、ユウちゃんも忙しいのに」
まったりと喋るのは多分性格で、謝るのも性格というか癖なんだろうなぁと思う。最初は一々謝んなくていいですよ、と訂正していたけれど、何度言っても結局ごめんなさいねと苦笑されるので、イイエーと笑って流すようになった。
あの厳つい親父の姉とは思えない。とんでもないまったりさを持ち合わせた叔母さんと、それを顕著に受け継いだ娘の亜美ちゃんの二人では、確かにペンションの管理など出来そうにもない。男手云々以前の問題なんじゃないかと思う。
まだ働き盛りだった叔父さんが急逝したのは、たしか春先だった。それからひと夏、二人で切り盛りしてきたというのだから、驚きだ。なんだかんだ言ってもしっかりした人なんだろうなぁと適当な想像をしていたのだけれど、一緒に暮らして三日目で『いや大丈夫かなこの家族運が良かっただけじゃないのかな』と思い始めた。
良い人なんだけどなんとなくうっかりしている細い良子叔母さんと、いい子なんだけど何処となくおっちょこちょいな高校生の亜美ちゃんは、ある意味良いコンビで、非常に周りをハラハラさせる。
「いや、もう、全然暇なんで。冬はハウスの管理だけだし、親父もまだまだ現役だし、結局去年はコンビニバイトしてたんすよ。実家でバイトしてるより断然ありがたいっす」
たった数分歩いただけで肩に積もった雪を払いのけながら、長靴の雪を、地面をダンと踏んで落とす。うちの方も雪は積もるけれど、豪雪というわけでもない。
わーすげえ真っ白だーなんて感動したのは初日の最初の一時間で、その白いふわふわした物体はそういや元々は水なんだよなぁという事を思い知り、早くもこの冬の労働が不安になった。
それでも、家に居るよりはマシだというのは本音だ。
そこそこのデカさとはいえ、家族以外の従業員がほぼ居ない農家業の最盛期は雪が降らない季節のみで、冬は途端にニートみたいな扱いになる。大学中退でのこのこ実家を継ぐことを決意した農業見習い男子には、冬の微妙に肩身の狭い境遇は辛いものがあった。半人前は、どうも、どっしりと構えていられない。
情けない気分でレジを打ち自宅でごろごろしているより、建設的に身体を動かした方が良いに決まっている。その上住み込みで三食まかない付きという条件に、なんの不満があるだろう。
不満なんて一切ない。あるとしたら、目の前の風景を奇麗に埋め尽くす真っ白い雪に対する不安だけだ。あと叔母さんまじで経営できてんのかなっていうお節介な不安も若干あるけれど。
とにかく寒い。白い。やばい。安請け合いしたかもしれない。いやでも家でオカンの温い視線に耐えているよりは……うん。叔母さんの『ごめんなさいね』を笑顔で流している方がやっぱりマシだ。
「しっかしほんと雪すごいっすねぇ……歩道とかもう埋まってるじゃないっすか」
初めての買いだし作業を終えて、慣れない4WDをひいこらと車庫に入れ、シャッターを閉めようとしたらもう雪が積もっていてまた除雪だ。
スコップ片手にそんな事を洩らすと、叔母さんはのほほんと荷物を運びながら白い息を吐いた。
「町役場の除雪は車道しかしてくれないの。昔はねぇ、子供も沢山いたから、青年会でやってくれたものだけど」
「まあ、大変なのはなんとなく察してますけど、じいちゃんばあちゃんがめっちゃ車道歩いてて、ほんっと轢きそうで怖い……なんか、思ってた以上に雪積もってて、大変なんだなって。……そんなとこにわざわざ観光に来る人間もすげーっすけど」
「スキー場までの交通も良くなっちゃったからねぇ。ちょっと辺鄙なとこで静かにゆっくり泊まりたい、っていう方、今多いみたい」
「はぁ。人間ってよくわかんないっすよね。家に一人で居たって静かなのに」
「まぁまたユウちゃんったら……たまには外に出て、自然を満喫したいってよく皆さん仰るのよ」
言ってることは分からんでもないが、わざわざ外に出るならもっと華やかで楽しい場所に行けばいいと思う。自然を体験したいなら真夏のキャンプがお勧めだ。少なくとも俺は、わざわざこんな豪雪地帯の小さな町に泊まりたいとは思わない。
いや叔母さんのペンションの良し悪しはともかく、コンビニまで車で三十分(じいちゃんトラップを避ける時間と点滅信号の譲り合い時間込み)の田舎に観光に来て何すんだっていう疑問は、暫くは払拭できそうにない。
こんな事を零せば、親父には『お前がまだ若造だからだ』と一笑されてしまいそうだ。如何にも人生経験豊富かつ、厳つい外見の割に社交性も持ち合わせているハイパーな親父は、いつだって俺の行動を鼻先で笑う。
確かに俺は浮ついた人生送ってるし、農業だってまだ楽しいとかやりがいがあるとか思えていないし、ピアスの穴もふさがっていないし、髪の毛はパーマかかって尚且つ茶髪だ。どう見ても現代の駄目な若者なわけで、正々堂々と親父に言い返す言葉もない。正論だわなぁと思っているので別に親父がムカつくとかそういうんじゃない。至極正論だ。
俺はまだ二十一歳の若造で、人生何が目標かもよくわかってなくて、とにかくコンビニでレジを打ちたくなくてホイホイと叔母さんのペンション管理手伝い話に乗っかった。
恋人も居ない。というか大学時代に居たけど別れた。出会いも無い。結婚しようとかしたいとかもまだわからない。なんとなく、ニートが嫌で親父の仕事を手伝っている様な若造は、駄目な男なんだろうなぁと思う。
そんな駄目な若造が、田舎のペンションの魅力に気がつく日は来るんだろうか。静かな雪景色を眺めながらまったりと珈琲を飲む瞬間は嗜好である、とか俺が言い出したら面白いだけだと思うけどな。
そんなことはともかく、やっとシャッターを閉める事に成功した頃には、食材や灯油は叔母さんが運び終わってしまっていた。男手の意味とは。……きちんと雪かきにも慣れて、全部俺がしますよって良い笑顔で親指立てられる男になりたい。
「おかりなさいー。おかあさん、ご予約の清水さん、電車が遅れてるから五時ごろになりそうだって」
パタパタと駆けてきた亜美ちゃんは、叔母さんが運んだ小麦粉を抱えながらお出迎えしてくれる。
わりとかわいい子なので、昔から懐いてくれて嬉しいんだけど、勿論身内扱いなので仲のいい兄妹みたいな感覚だった。どうやら学校の先輩に片思いなうらしく、そこらへんはちょっとこそばゆい話題なので叔母さんも俺も地味に突っ込まないでいる。
「あらら。風が強いとね、すぐ止まっちゃうんだから。嫌よね、電車って。じゃあ時間が空いちゃったし、どうしましょう。掃除も全部終わってるし……食後のプリンを、パウンドケーキに変えましょうか」
「賛成~あたしクランベリーのパウンドケーキがいいなー」
「買い置きのドライフルーツはレーズンしかないと思ったけど」
「丹羽ちゃんのとこに貰いに行けばいいんじゃない? 丹羽ちゃんちなら絶対あるよ。おかあさん、この前ローズマリーが無くなりそうだって言ってたじゃん。ユウくんもさ、丹羽ちゃんに挨拶しとかないと。この町に住んでて、『湖畔の赤い魔女』を知らないなんてモグリだよー」
「モグリってなんだよ……てか何、その中二病っぽい名前」
折角帰って来たのにまた出るの? マジで? と思ったけれどこれも仕事だ。亜美ちゃんは年下女子高生だが、これでも俺的には先輩である。先輩の言葉に逆らうわけにはいかない。
ペンションの料理は叔母さんが全てこなしていて、メインは自家製のパンと香草のオーブン焼きだ。それにいかにも手作りな割にそこそこうまい焼き菓子がつく。
手作り菓子ってあんまりおいしくないから好きじゃない派だった俺も、叔母さんのパウンドケーキは悔しいがうまいと思う。しっかり焼ききってあって、しっとりというよりはぎっしりとしていてうまい。
ちょっとだけ首を傾げて悩んでいた叔母さんも、結局はそうねえなんて同意してしまう。どうやら俺は、もう一回雪の中へ旅立たなくてはいけないらしい。
「丹羽ちゃんのところには、近々行くわと言ってあるから、うん、そうね今日とりに行ってもらおうかしら。亜美、案内してくれるでしょ?」
「えー。あたしが行くの? 道真っ直ぐなんだからユウくん一人で平気じゃない?」
「道って言ったって、すっかり雪で消えちゃってるじゃないの……ねえ、ユウちゃん」
ねえと言われても、その湖畔の魔女宅が一体どこら辺にあるのか見当もつかないおれは、曖昧に『はぁ』と声を出すことしかできない。
なんだ、魔女さんはやっぱり辺鄙な場所に住んでるもんなのか? なんだよ道が消えるって、どういうことだ。絶対にそれさっきの歩道の話とは別物だろう。
若干不安になって『車でいけるところなんです?』ととても控え目に伺ってみると、苦笑した叔母さんがそれがねぇと首を傾げた。
「そんなに遠くもないの。でも、お車はちょっと、入れないかしらね。雪が無ければどうにか、行けなくはないんだけど」
「歩き……」
「大丈夫ー二十分もあれば着くから! 行って帰ってくるだけなら一時間だよー」
軽々と言い放った亜美ちゃんは、そう言えばバスと電車と徒歩を駆使して毎日隣の市の高校に通っている猛者だった、という事実に気がついたのは、じゃあ、まぁ、やることもないし魔女に会いに行く? と心を決めて歩きだしてからの事だった。
深々と雪が積もる世界は確かに幻想的だが、如何せん、道が無い。それは比喩でもなんでもなくて、鬱蒼と立ち並ぶ木々の合間に若干の空間があるから、きっとこれが道だったもんなんだろうなぁとわかる程度だ。
あとは真っ白。どこもかしこも、平らに白い。
ずぼ、と足を踏み出すとその都度埋まる。長靴をひきぬくにも案外力がいる。地面に積もった雪は軽くはない。少し質量のない泥の中を進んでいるようなもんだ。
とにかく歩きにくくて下ばかり見ていると、伸びた枝が頭を打つ。その度に亜美ちゃんがけらけら笑うが、それに突っ込んでいる元気も余裕も無かった。
「……雪嫌いだわ俺……」
やっと開けた場所に出て、なんとなく民家っぽい建物が見えてきた時には、ペンションを出てから三十分は経っていた。三十分雪をかきわけ歩いた俺は、極寒の世界とは打って変わって汗だくだった。
「ひ弱ぁユウくん。雪かきは結構平気なのに、歩くの遅くない?」
「慣れてないんだよ、こちとら平地の民だぞ……」
「別に山でもないよこの辺なんて。丹羽ちゃんのお茶飲みたかったけど、ちょっと時間食っちゃった。あ、ほら、あれあれ。アレが魔女のおうち」
「いやまあ他に見当たらないからそうだろうとは思ってたよ解説ありがとうな……んで、魔女さんは、なんで魔女さん? 魔法使えんの?」
「魔法かー使えそうだけど、どうかなー。でも丹羽ちゃんの言葉ってちょっと魔法っぽいかも」
「なんだそりゃ。……占い師か何か?」
「あ、占いもやってくれるけど。本業は違うよー。もう説明すんの面倒だからさっさと店に入って本人に会えばいいんだよー割とヒトを選ぶけどさ、多分丹羽ちゃん、ユウくんのこと嫌いじゃないと思うんだー」
「よくわからんけど、そうなの?」
「うん。丹羽ちゃん、馬鹿みたいに素直な子が好きって言ってたからー」
それは亜美ちゃんの事なんじゃないかと思ったが、馬鹿にされていたような気もするし、そのまま言い返したら悪い気がして笑って小突いといた。まあ、素直っていうのはきっと褒め言葉だ。ありがたく受け取っておくことにする。
ぶっちゃけ疲労が半端なくてもう喋るのも面倒で、言われた通りにさっさとその『店』とやらの前に立った。
雪に埋もれるように建つ家はレトロで確かに魔女の家の様だ。煙突が付いていても不思議に思わない。その玄関先には積もった雪の重みで今にも取れそうな看板が吊られていた。
「……『垣根の上のカラス』?」
どうしよう。思っていた以上に中二病っぽい名前で反応に困る。うまいコメントも思い浮かばなくて、まあいいやとりあえずさっさとクランベリーとなんか香草貰って帰ろうと思い、木製のドアについた取っ手をノックする亜美ちゃんに続いた。
インターフォンとか無いのか。ていうか電気通ってんのかな。なんだかそれさえも不安になる。
しん、と静まり返った森の中にノックの音が響く。少しだけ待って、その後古そうな、キィ、という音を立てて、その扉が開いた。
暖かい空気と一緒に、不思議な匂いがふわりと香ったような気がした。
「……おや、亜美じゃないか。良子さんがヒトをやったとか言うもんだから、またアタシは配達ついでのヒデさんかと思ったよ」
中から顔を出した人間に、思わずかける言葉を忘れ、凝視してしまった。
いや、他人に対していきなり『人間』とかいう呼称使うのどうかと思うけど、その時の俺は、この人が人間であるということ以外わからなかった。
赤い魔女の顎まで伸びた髪は、確かに赤い。俺も一回そんな色にしてもらった事がある。チェリーレッドとか、そんな感じに頼むとこんな感じになるよなという色だ。別に、アニメキャラみたいなものすごい赤でもない。さらりと流れる髪の毛に、赤茶けた色はよく似合っていると思う。
問題は髪の色じゃない。男にしては奇麗だし、女にしては身長高いし、でも声は掠れた低さだし。……要するに性別がわからない。
大変不審な顔を晒していた自覚がある。
軽い世間話を繰り広げる亜美ちゃんの後ろで固まったままの俺に視線を移した魔女は、別段顔をしかめるでもなく感情の薄い顔を傾げた。
「で。ヒデさんの代役の彼は何者さね。亜美の彼氏にしてはちょっと、垢ぬけすぎやしないかい」
鼻が高いし肌も白いし外人ですって言われたら納得してしまうかもしれない。どうしよう人種も危うく思えてきた。ちゃんと日本人なのかな魔女の人。日本語は喋ってるけども。
「彼氏じゃないよーやだよユウちゃんが彼氏とか。どっちかって言ったらお兄ちゃん。ていうか丹羽ちゃん寒いから中入れてーもしくはさっさと渡してよ荷物~おうち帰ってパウンドケーキ作んなきゃなのー」
「はいはい、我儘だね全く、かわいいね亜美は。お茶は飲んで行かないのかい」
「うーん飲みたいけど、パウンドケーキ優先。あ、ユウくんは飲んでいきなよ丹羽ちゃんのお茶。あと自己紹介とかしたらいいんじゃないかな。あたし帰ってパウンドケーキ作るから。来た道真っ直ぐだから道案内いらないよね?」
「え。え? いや、俺も一緒に帰、」
「じゃあ丹羽ちゃんユウくんをよろしくー。ユウくんは夕飯までに帰ってきたらいいよー。丹羽ちゃんの話面白いしお茶美味しいから、楽しんでね」
じゃあねと踵を返した女子高生は、驚く程の早さでさくさくと雪道を歩いて行ってしまう。魔女が扉を開けたままなのに、ちょっと待てと追いかけるわけにもいかず、結局俺は一人取り残されてしまった。
ええー……いやいや、何これ困る。俺別にコミュ障じゃない筈だけれども、いきなり知らない人の家に放置とか、流石にテンパる。もさもさと降る雪の中、茫然と立ちすくんでいると、赤い魔女は一歩中に引き下がった。
「……あの子は本当にいつも唐突だしわけがわからなくて面白いね。まあ、寒いだろうし、お入りよ。……とって食いやしないよ」
そんな風にささやかに笑われて、あ、良かった一応表情変わるタイプの人間だと、若干安心した。
亜美ちゃんと喋っていた時は本当に表情筋動いてなかったから、ヒトを食うタイプの魔女さんかなって危惧していた。少なくとも、大人の愛想笑いは出来るらしい。
ていうか言われて気がついた、確かに寒い。えっちらほっちらと歩いてかいた汗が冷えてきて、手袋の中の指先も凍えてきた。
微妙に乗り気はしなかったが、お言葉に甘えてちょっとお邪魔することにした。叔母さんと亜美ちゃんの会話から察するに、中々のお得意さんみたいだし、この冬何回か訪れる必要があるのなら、自己紹介は確かにこなしておいた方がいいのかもしれない。
いきなり知らないヒトとお茶というのも変な話だ。
不思議な状況ではあったが、そんなことより男なのか女なのかどっちなのかというぐるぐるで、緊張が若干薄れていた。
招き入れられて良く見たら、渋いチェック柄のロングの巻きスカートを纏っていて、ああもう本当にどっちだよ……その巻きスカート、ギリギリ男でもありかなっていう感じの色だし余計に悩む。黒のハイネックのセーターの上から、ストールを巻いているから胸があるのかどうかもわからない。
魔女は流れるような動作で奥のテーブルを勧めた。手前と奥に一つずつ、ウッドテーブルが置かれている。
室内は明るく暖かく、思っていた以上に広い。カウンターの向こうはキッチンらしく、後ろの棚には乾燥した草が詰まった瓶が並べられていた。
「……お茶屋さん、ですか?」
そう言えば香る匂いは、花というか、紅茶っぽい。内装が喫茶店の様だったから、そう思ったのかもしれない。こんなとこに喫茶店作って客なんか来るのかは疑問だ。
なんとなしに口にすると、カウンターの中に入った魔女が笑った気配がした。俺は店内をぐるぐると観察していて、表情なんか見てなかったけれど、あ、今笑ったのかなとわかる程度に、その人は感情を零すのがうまかった。
「半分くらい正解かね。垣根のカラスはしがないハーブ屋さ」
「ハーブ……あー、良子叔母さんがそういやハーブがどうとか、言ってたような。ホールだかボールだかはスーパーに無くてって」
「ホール。粉やみじん切りにしないで、葉そのままの状態のものの事だね。良子さんは良客で良い生徒だよ。一度教えればすぐにモノにする。パウンドケーキなんか、彼女の方がうまいくらいだ」
「え。あの激うまいパウンドケーキの元祖って、えーと……にわさん? なんです?」
そうだよ、と頷かれて余計に謎が増す。ハーブ屋なのにケーキが焼ける魔女とは、一体何者なんだ。
「牡丹の丹の字に羽で丹羽さ。あだ名だけどね。名前を訊いても?」
「あ。ええと、すいませんユウヒです。小宮悠緋。悠久に緋色っす。良子さんの弟の息子で要するに親戚で、えーと、冬の間だけペンションの手伝いを」
「ああ。そう言えば、昭継さんがお亡くなりになったんだものね……一人手どうするのかと思っていたら、こんな立派な甥っ子が居たわけか。それで、ユウヒくんはどっちだかわかったかい?」
「え、何が……」
「アタシの性別」
テーブルの上に湯気の立つカップを出し、俺の目の前の椅子に座った丹羽さんは頬杖をついてにやりとした。……流石に不躾に見過ぎたのかもしれない。恥ずかしい。いや恥ずかしいと言うか申し訳ないというか。
にやにやしている顔からは不快感は伝わって来ない。もしかしなくても、もう何度も繰り返してきた事なんだろう。
いやだってホントあんた何者かわからなすぎる。多分男でも女でも美形な部類で、多分年上なんだろうなってことくらいしかわからない。
ぐっと言葉に詰まったものの、ゲームをしかけられたような気分になって、謝るより先ににやにやした丹羽さんを見つめ返した。
「……………おと、こ?」
声が低めだから、多分、男だ。と思って、恐る恐る口にした。
「おや、正解だ。まあ、今の世の中ジェンダーは随分自由になってきているしねぇ。オネエタレントなんていうものも居るんだ、まあ、こんななりの男が居ても驚かないか」
「いやいや十分驚いてます。伝わってませんか。めっちゃ驚いてるしめっちゃビビってます」
「食わないって言ってるだろうに」
くすくすと笑われて、なんでこの人こんなに表情がないのにこんなに感情が漂うんだと、不思議に思う。つん、と冷たい顔に見えるのに、纏う空気がどうにも柔らかい。
なんとなく一番の疑問が晴れて、気持ちが落ち着いたら、喉が渇いた。無駄な労働とヘンな緊張で、口の奥がカラカラだ。
目の前に出されたカップは、緑っぽい色の陶器だった。ティーカップというよりはマグカップっぽくて、その中には赤い液体が湯気を立たせていた。
「……これ、紅茶っすか?」
恐る恐る声をかけてしまうのは、丹羽さんがよくわかんないからだ。悪い人じゃない様だということと、男だってことくらいしか情報は開示されてない。
当の魔女は俺の反応を楽しむかの様に、さらりと赤髪を揺らして首を傾げた。
「紅茶とはちょっと違うけどね、世に言うハーブティーってやつさ。ローズヒップとハイビスカス。奇麗な赤だろう?」
「はあ。なんか、毒々しいというか、これ、飲んで平気な色っすか……?」
「平気さ。着色料も何も入っていない。これが本来の色なんだからね。まあ、ちょっとカップの色も相まって薄暗い赤になっちまってるけど、硝子のティーカップでお洒落に出したところで、有り難がってお洒落だなんだとはしゃぐ女子でもないだろうし。このカップはね、貰い物で気に入っているんだ。取っ手が歪んでいて味がある」
確かに、手作り感のある朴訥としたカップだ。ハーブティーというだけでお洒落感があるし、小さく麗しい容器で出されたら、作法だなんだと気にしてしまいそうではあった。
歪んだカップは不思議と手になじむし、冷えた指に伝わる温度もちょうどいい。両手で支えて一口含む。なんだかとんでもない赤色をしているその液体は、想像よりも酸っぱくてさっぱりとしていた。
「……ハーブティーって、もっとこう……むあっとしているかと思ってた」
素直にそんな感想を告げる。魔女は軽い笑い声をあげて、自分の前にもカップを置いた。デザインは違うけれど、似たような細長い陶器のカップだ。取っ手がないので、カップというか湯のみというか、なんつーかぐい飲みっぽい。
「いいね、おまえさんの言葉は分かりやすい。確かに、ハーブと言えばジャスミンやらカモミールやら、香りのイメージが強いだろうねぇ。アタシはね、この赤い飲み物が比較的好きでね。口寂しいと時折淹れるのさ」
「へぇ。……赤、好きなんすか?」
「好きだとも。赤い魔女なんて呼ばれるのは本望だね。ヒトの根本は赤だよ。流れる液体も赤。目をつぶってそこに透けるのは滲む赤さ」
歌うように喋る丹羽さんを眺めながら、すっぱ甘い液体を呑み込む。あっついジュースと言った感じで、慣れると確かに飲みやすい。紅茶の苦みというか独特の味が苦手だったから、結構びびりつつ口をつけたんだけど、確かに紅茶とは別物だ。
「こんなとこで、ハーブって、売れるもんなんすか」
窓から見える景色は真っ白で、思わずそんな本音が漏れた。暖かい部屋と適度な疲れと不思議な赤いお茶は、警戒心を溶かしていく。
「さあ、どうだろうね。アタシはそもそもここ以外で商売をしたことはないから、立地による利益の差はわからないかな。繁盛してるかどうかでいえば、そら閑古鳥が鳴く日もあるけれど。案外、雪が薄い日は賑やかだよ。お茶とスパイス以外にも、石鹸と精油もある。それに請われれば手相占いもする」
「……何者ですか、丹羽さんって」
「何者に見える?」
「…………なんかよくわかんない奇麗なオカマの人」
「あはは! いやいや、そうさね、間違っていないなぁその通りだ!」
ユウヒは素直でなかなかいい、と言われ、それさっきも亜美ちゃんに言われたしやっぱり少しからかわれている感あったけど、悪い気分はしなかったし。黙って残りの茶を飲んだ。
湖畔の赤い魔女とやらは、思ったよりもとっつきにくい人じゃなかった。どうやらちゃんと人間らしい。人種はわからないしオカマなのかゲイなのか普通の女っぽい男なのか、そういうのも結局よくわからないけれど。
まあ、悪い人じゃないっぽい。あとこの人の淹れる不思議な味のお茶は、俺もわりかし好きだった。
するりと喉を通る時の酸味がきもちいい。飲み終わる頃にはもうちょっと飲めるよなーと思う程になっていて、それがばれたのかなんなのか、お代わりを勧められた。
悪い人じゃない。でも、やっぱよくわからない。多分だけど、俺とは別の世界を生きてる気がするからかもしれない。妙に落ち着いた雰囲気で、世間とは別の場所で生きてるみたいな。世捨て人っていうのかな。そういう、普通じゃない感じがする人だ。
まあ、特別仲良くしなきゃいけないこともないだろうし、たまに荷物を取りに来るくらいなら穏便に付き合っていけそうだ。
なんとなくそんな評価を勝手に下しているときに、ふいに、足元に何かが触れてアホみたいに飛びのいた。
「……っ!? え、ちょ……っ、何……っ」
「ああ。……どこに行ってたかと思えば」
思わず椅子の上に飛び上がる俺を横目に、丹羽さんがふわりと表情を崩す。そしてよっこらせと年寄りくさい掛け声とともに、俺の椅子の足元からでっかいふわふわしたものを抱え上げた。
猫だ。結構でかい。白い毛並みに茶と黒が混じった、典型的日本猫のお手本みたいな柄だ。
「グラオ、新しいお客さんだよ。良子さんとこのお手伝いさんだってさ。またどうせ来るだろうから、今のうちに顔を覚えておくといい」
「…………その猫、グラオなんつーイケメンな名前なんすか……どうみてもタマなのに」
「まあ失礼だね、見てごらんよこの麗しい灰の目を。奇麗だろう? タマだなんてありふれた名前をつけるのは勿体無い。灰色の目が奇麗だから、この子はここに来た時からずっとグラオだよ」
後々知った事だが、どうやらドイツ語で灰色の事をグラオと言うらしい。これも後々の話で、ドイツに縁でもあるのかと尋ねたところ、特別思い入れもないがグレイなんていう英語よりも趣があるじゃないかという、適当なのかお洒落なのか判断に困る解答が返って来た。
「こんな辺鄙なところで、猫と二人暮らし?」
「犬も居る。ヴァルツはちょっと人見知りでね。隣の部屋が彼の城だ。素敵な三人暮らしさ。静かだし、何もない」
確かに何もない。あたりは雪ばかりで、音さえも積もる雪に吸い取られて消えて行くようだった。
どさり、時折響く雪の落ちる音と、ストーブにかけられたヤカンの湯が沸く、しゅんしゅんという蒸気の音しか聞こえない。
何もないと言えば、確かに何もない。雪と猫と犬と、乾燥した香草にまみれた不思議な湖畔の家。そこに丹羽さんは、一人と二匹でそっと暮らしている、らしい。
やっぱり俺は、この人がよくわからないと思った。
まあ、適当に仲良くしとこう。時々お茶を飲むくらいなら、悪くないかもしれないし。あとさっきはいきなりでびっくりしたけれど、俺は結構猫好きだ。正直グラオ目当てに通ってもいいくらい、触りたくてたまらない。
猫いいなーウチ、親父が猫アレルギーで飼えないんだよな。もうちょい通ったら、俺に懐いてくれたりすんのかなグラオ。それならこいつにも賄賂を買わなきゃいけないだろう。今度スーパー行く時に、猫用のおやつを眺めて来ようと心に誓う。
丹羽さんの腕の中でふよふよと髭を動かす愛おしい生物に手を伸ばしたら、思いっきり逃げられてしまったけれど。
「……アイツは面食いだからね。照れてるだけさ」
それは俺がそこそこイケメンって褒めてもらえてるんだろうかどうなんだろうか。ていうかやっぱ丹羽さんってゲイなんだろうかどうなんだろうか。……いやそんなん、俺にはどうでもいいことか。うん。
ストーブとお茶ですっかりあったまった身体をまた、雪道に晒すのが嫌で、ちょっとだけ帰りたくないなーと思った。
雪の街に来た一年目。これが、丹羽さんと俺が初めて会った時の事だった。
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