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六年目・春
新緑の季節というものは何度経験しても目に眩しい。
緑色でざわめく世界は精気に満ちていて、一人で歩くには少しだけ刺激が強い季節だった。
例年ならヴァルツにねだられなければ、外に出る事は無いのだけれど。今年は妙に活発的な年下の恋人が、やたらと私の手を引いて外に行こうと誘った。
全く、犬のような男だ。当の犬よりもはしゃいでいるのだから、笑えるような、微笑ましいような、甘い気分になってしまう。
「ちょちょちょちょ、ロウト! だめ! それ多分花だから食ったらだめ!」
その犬男は、今日はヴァルツではなく新しく家族に加わった小さな獣にかかりきりだ。茶色い毛並みのウサギは、廃校になる小学校で飼われていたものらしい。
誰も飼う人が居ないからとウチに持って来られた時に、私が断らない事をきっとこの男は知っていたに違いない。猫を新しく飼うべきか、一年迷って、結局決意できなかった私には、丁度良かったのかもしれなかった。
「丹羽さん、ロウトそっち行った……! 捕まえて!」
「嫌だよ自分でどうにかおしよ……部屋の中じゃ大人しいもんなのに、ユウヒと外に出ると、途端に元気になるねぇロウトは」
「いやいや何縁側の老人ぶってるんすか! こいつ案外悪ガキっすよ花壇がやられる……!」
そんな事を言うけれど、ロウトを連れて出たのは当の悠緋だったし、貰って来たのも悠緋だ。
悠緋はこの春から町に引っ越し、正式にペンションの仕事についた。というか、良子さんがついに引退を決めたらしい。その仕事を、悠緋は継ぐ事にしたのだそうだ。
「亜美ちゃんがやんのかなって思ったんですけど、なんか向こうで就職決まりそうだって言うし。向こうに彼氏出来たって言うし。イズミさんは縁故で就職決まっちゃったって言うし。なんだよじゃあ俺がやるよって立候補したら案外するっと決まっちゃったんですよねー。まあ、料理はちょっと怪しいんで、行く行くは俺のお嫁さんに手伝って貰わないと困るんですけど」
ウサギを抱きながらにこにことそんな事を語るから始末に悪い。
私は相変わらず湖畔の家から出るつもりはこれっぽっちもなくて、そりゃ悠緋を受け入れたけれど、町に降りるつもりはない。けれどこの男の隣を誰かに譲るつもりもないものだから、男二人が運営するペンションってどうなんだいと、苦笑することしかできなかった。
実家の農家は大丈夫なのかと心配したものの、そちらは妹が旦那さんと一緒に継ぐらしい。レタス育ててるより俺はこっちの仕事の方が好きだったんですよと、悪びれる様子もなく悠緋は笑った。
「まー、親父には、結構がっかりされましたけど。あとお前の相手を早く連れてこいってめっちゃ言われてて良子さんが必死にがんばってくれてます」
「申し訳ないったらないよ……全く良子さんまで巻き込んで……」
「いやだってばれたもんはしゃーないっす……まーあんだけ泊まりにいってりゃそらばれるって話ですけど、ホント丹羽さんが良子さんと仲良い世捨て人で良かったですよー。なんか、怒られるより引かれるより感動で抱きしめられたとか新しすぎて反応に困ったし。丹羽さん思ったよりこの辺の人に愛されてますよね。結構俺、丹羽さんによろしくねって言われますよ、買い物とかしてると」
「町公認のゲイカップルになりそうで怖いよまったく……おまえさんが隠そうとしないのが悪いんじゃないかい」
「隠してますよ、これでも! でも一緒に居ると楽しい嬉しい大好きが滲みでちゃうんですー」
「……三十路超えた男に、酔狂なことだよ」
「会った時からずっと、丹羽さんは奇麗だし格好良いしかわいいし大好きだからしゃーない」
うへへと笑う男は、出会った時から比べれば外見は少し落ち着いたのかもしれない。雰囲気も随分と、大人びた。けれど中身は真っ直ぐと無邪気なままで、相変わらず言葉と感情が甘い。
私は相変わらず天の邪鬼で、好きだとストレートに言われても、そうかね良かったねと視線を逸らせてしまう。けれどそれもてれ隠しだとばれてしまっている今は、あまり意味のない虚勢かもしれなかった。
やっとロウトを捕まえた悠緋は、疲れたと喚いてウッドチェアーに座りこんだ。
ペンションの納屋の奥に仕舞ってあったというガーデンチェアセットは、すっかり垣根の下のカラスの庭に馴染んでしまった。暑くない季節以外は、冷やかしの女子高生や主婦たちが割と気に入って使っているようだ。
冷たく淹れたローゼルをグラスに注いで出してやると、ありがとうございますと、爽やかな笑顔が返ってくる。
「そういや、こいつの名前なんでロウトなんです?」
やんちゃなウサギの毛並みを撫でながら、悠緋は首を傾げる。元々の名前は空太郎だか空次郎だか……とにかくそんな名前だったが、私が勝手に改名してしまった。
グラオもそもそもは違う名前だったに違いないが、最終的には呼べば鳴くようになった。ロウトと呼び続けて居れば、きっとこの子もロウトになるはずだ。私の名前がすっかり丹羽になってしまったように。……人生は、いくらでも新しくなる。
「ドイツ語で『赤』の意味だよ。グラオが灰色、ヴァルツは黒のシュヴァルツから取ってるからね」
「……ロウト、どっこも赤くねーけど……?」
「ウサギと言ったら目が赤い生き物じゃないか。まあ、それと、アタシとお前の名前を取って、という意味合いかね」
「名前? ……俺は確かに緋の字は赤っすけど。丹羽さんは?」
「丹色というのは赤色の事さ。アタシは本当はね、真庭人里って言うんだよ。ひとりなんていう名前、好きになれるわけなくてね。魔女が付けてくれた名前が庭の字から転じての丹羽さ。赤は、元々好きな色だしね」
「……俺と丹羽さんの字から取ったってなんかそれ子供の名付けみたいっすね……」
「まあ、似たようなもんだろう。貰い子だけどねぇ、やんちゃでかわいいウチの子さ。大切にしておやりよ」
足もとでうずくまるヴァルツの頭を撫でてやりつつ、甘酸っぱいお茶を飲むと、ちらりと視界に映る男が悶えているのが分かった。
自分はストレートに言葉に恋を乗せる癖に、本当に何度言っても、私の愛を信じやしない。
「……そんなにチョロけりゃ、そりゃばれる」
それもまた可愛く思えて、あははと笑うと、足元でヴァルツが同意するようにワンと吠えた。
これは悠緋の親御さんに、息子さんの足を踏み外させて申し訳ありませんと、頭を下げる日も近いのかもしれない。けれど決して手放す気になどなれなかったから、私も惚れていると苦笑した。
歳を取って、私も少しは柔らかくなっただろうか。悠緋と出会って、変わっただろうか。あまり、自覚はないのだけれど。
「……笑って、生きていきたいねぇ」
そんな事を呟く私に唐突にキスをしかけてくる男がかわいいと思えるから、この男と一緒に年を取ることも悪くないのかもしれないと思った。
――湖畔の孤独な赤い魔女が、赤い男に絆された話。
終
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