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五年目・春
部屋は薄暗く、そしてしんと冷えて居た。
まだ桜が咲くには一週間くらいある。花見の席でも肌寒いくらいの地方だ。四月の半ばまでは、暖房を使わないと寒いのに、丹羽さんは冷たい部屋の真ん中で、静かに椅子に座って床を眺めていた。
その先には、毛布の上に横たわる、白い獣の姿があった。
いつも俺がこの店に入ってくると、なーなーと煩く鳴きついて離れない、愛しい獣だった。
白い毛並みに黒と茶色のまだらが散って、どう見てもタマって顔をしているのに、グラオなんていうこじゃれな名前の三毛猫。その名前の由来になった灰色の奇麗な瞳は、今はもう、閉じられたままだ。
「……老衰だよ」
低い乾いた声で、丹羽さんが呟く。ヴァルツは、その足元にそっと寄り添っていた。
「冬前から、少し弱ってはいたんだ。ここのところ吐いてばかりいたから、病院に連れて行こうと思ったんだけどね、嫌がって、逃げてしまった。勝手な解釈だけどね……この家で、死にたいのかと思うことにして、覚悟は決めて居たんだ。でも、いざその時が来ると、駄目だね。……アタシは、全然駄目だ。覚悟なんか決まっちゃいない。無理にでも、嫌でも抱え上げて、薬を飲ませて、そしたら苦しくてももう少し一緒にいれたんじゃないかって」
丹羽さんの声に、感情が滲みだす。坦々と言葉を紡ぐ人なのに、今はもう、その声は涙に濡れていた。目は真っ赤で、もしかしたら泣いたのかもしれない。俺は、鼻の奥に感じる痛みに耐えながら、グラオの亡骸に触れた。
ごわごわしてて、なんだか変な感じだった。生きて、俺の膝の上で居眠りしている時とは、全然ちがう。ああもう、これはグラオじゃないんだな。……死んだんだ、って思って。震える息を吸って、涙を堪えた。
「……苦しんだ?」
「少しだけ。でも、すっと軽くなるように、息を引き取ったよ。もうそれからは、冷たくなるだけさ。魂が抜けると、肉体は、冷たくなるだけなんだね。……わかっていたのに、それがどうにも辛くてね。最後に、会わせてあげなくちゃと思って……いきなり、びっくりしただろう。親御さんにも、後で謝らなくちゃいけない。朝っぱらから沈んだ声の男が、飼い猫が死んだなんて電話してくるなんて、迷惑以外の何者でもないだろう」
「電話、くれて良かったです。俺が来なかったら丹羽さん、ずっと、冷たい部屋で泣いてたでしょ」
「……そうかもしれない。グラオの為じゃなくて、アタシの為に、アタシはお前を呼んだのかもしれない」
そっと、丹羽さんの隣に立つ。赤い髪の毛を撫でるように手を添えると、ことんと頭が倒れてきた。それを支えるように、抱きしめる。
丹羽さんの声は、いよいよ震えた。
部屋は寒い。とても寒い。
「ユウヒ。――…グラオが、死んでしまったよ」
「うん」
「小憎らしくて可愛い子だった。餌をやる時だけ殊勝に皿の前で待つんだ。さあ寄こせって顔してね。それがまた可愛くて、アタシはちょっと多めに皿によそってしまう。そんな風にしてたら段々太ってきちまって、ダイエットフードって奴に変えたらね、血相変えて怒ってね……機嫌を取るのが大変だった。猫の癖に、ヴァルツとやたら仲が良くて、夜はヴァルツの隣じゃないと寝れない程だった。……なーなーと、煩くて。勝手で、可愛い子だった」
「うん。……可愛かったね。大好きだった」
「大好きだった。――大好きだったんだよ」
俺の腕の中で、丹羽さんは泣いた。声もなくぼろぼろと涙を零すこの人の背中を、俺は撫でて自分の涙をどうにか飲んだ。
丹羽さんはずっとこの小さな家で、グラオとヴァルツと生きてきた。そしてなんとなくこれからも、ずっと、そうやって生きて行くものだと俺は思っていた。多分、丹羽さんもそう思っていた筈だ。
人は死ぬ。生き物は死ぬ。でも、実際にその時が来ないと、実感なんて沸くもんじゃない。
暫く丹羽さんは泣いて、その間俺はずっと背中を撫でて居た。
涙が止まってからも、暫くは無言だった。最初に声を出したのは、珍しく鳴いたヴァルツだった。
くーん、と鼻を鳴らして、丹羽さんの足に鼻をこすりつける。珍しいその仕草にまた涙腺を刺激されてしまう。ほら、また丹羽さんの目が赤くなっている。
「一人になっちまったね、ヴァルツ。相棒が居なくなって、寂しいね」
黒い犬を撫でて鼻をすする美人にティッシュボックスを渡し、ついでに俺も堪え切れなかった鼻水をかみながら、丹羽さんがいるじゃんと返す。
「それはそうだけど。あの子はね、やっぱり、ヴァルツの半身だったと思うんだよ。こんな魔女一人じゃ、あの子の半分も賑やかにできない」
「新しい猫を飼えばいいじゃないですか。代わりってわけじゃないけど」
「嫌だよ。新しい命は怖い。無くした時に、こんなに泣くのはやっぱり嫌だ」
ああ、そういう人なんだろうな、と思う。
丹羽さんは人が怖くて、生き物が怖い人なんだろうな。優しくて、甘い人だから、こうやっておいて行かれると心が耐えられないんだろう。だからきっと、誰の事も懐に入れず、静かに一人で生きて行こうとしている。
それがこの人の生き方なんだから、俺なんかが口出しする事じゃないんだけれど、でもやっぱり、寂しいと思うから。
「……でも、ヴァルツが寂しいよ。ずっと隣にいた煩い相棒が居なくなって、平気なことなんかないですよ。……一人は寂しいです。丹羽さんは、俺を呼んでくれたじゃん。……今、一人じゃないじゃん」
ぎゅっと抱きしめる手に力が籠って、そしたらまた泣かせてしまって、丹羽さんが落ち着くまで、ヴァルツと二人でただ待った。
雪に埋もれて居ない垣根の上のカラスを訪れるのは、初めてだった。周りの木々はまだ葉をつぼみにしていて、殺風景ではあったけど、初めて、店の後方に見える湖を見た。
そう言えば冬は氷と雪で真っ白で、何処もかしこも平らな平地にしか見えなかったと思う。丹羽さんが湖畔の魔女と出会った湖は、思ったよりも近くに存在していたらしい。
暫くして落ち着いた丹羽さんと相談して、グラオは火葬してもらい、庭に埋める事にした。業者はすぐに来てくれて、すっかり冷たくなったグラオは、丁寧にビニールに包まれて引き取られて行った。
業者に連絡をとるついでに、飛び出してきた家にも電話を入れた。丹羽さんの家の黒電話は相変わらずちょっと音質が悪い。
事細かに説明する元気もなかったので、友人の家族にちょっと不幸があって、今日はこっちに泊まるからと連絡した。……まあ、間違ってはいないと思う。
誰が何と言おうと、グラオは丹羽さんの家族だった。
目の前から猫が居なくなると、本当にグラオは死んじゃったのかなって不思議になる。いつだってこの家には丹羽さんが居て、グラオが居て、ヴァルツが居たから、そのどれかが欠ける事は、本当に不思議な事だった。
やっと立ち上がった丹羽さんは、いつものようにふらりとキッチンスペースに立つ。
疲れて居るんだから休んだら、なんて野暮な事はもう言わない。お茶を淹れるということは、丹羽さんにとって、日常に戻る大切な行事だと言う事を、俺は知っていた。
心が、とん、と平らになる。そう言っていた事を思い出す。愛猫の分だけ欠けた丹羽さんの心を、赤いハーブが、とんとんと、慣らしてくれるのを、心地よい水音を聞きながら願った。
いつものカップに、いつもの赤いハーブティーが注がれる。
ふわりと明るい匂いが、湯気と一緒に香った。
「……丹羽さん、赤好きですよね。わりと、身の回りのものに赤多いし」
なんとなく思い立って、そんなどうでもいい事を口にする。微妙に泣いたせいで、頭がぼんやりしているし、暫くはグラオの思い出を振り返るのは辛かった。
「うん。……元々赤が好きでね。ランドセルも赤をねだって、気持ち悪い子だと母親になじられたもんだよ。可愛いものと人形と赤い花が好きで、顔もまあ、それなりに奇麗だったもんだから、母親の愛人たちにはお人形さんみたいだとちやほやされたね」
「……思ってたより結構根深い赤好きだった」
「そうかもねぇ。その頃から、アタシの性は少し、ぶれていたのかもね。別に、赤が好きだから女性的ってわけじゃないんだろうけどさ。今じゃあすっかり振りきれて、男か女かもわからない赤い魔女だ」
「でも別に、ゲイとかじゃないんでしょ丹羽さん」
「……初めての相手は男だったけどね。母親の愛人の男だった。それが見つかって激怒したあの女に、泣くまで殴られ足の骨を変な具合に折っちまったんだが……まあ、男としては丁度いい穴があったなくらいの気持ちだったんだろうよ。恋のようなものは何度かしたけれど。どうだったかな、もう、忘れてしまった」
ぼんやりとお茶を見つめる丹羽さんの視線は遠い。隣に座れば良かったな、と思った。そしたら手を握ったのに、いつも通り、向かいに座ったのは失敗だ。
「母の周りには性が溢れていたからね。だからかね、男とか女とか、そんなものとは関係なく、アタシというものを確立させたかったのかもしれないねぇ。その結果、いたいけな若人の五年を、棒に振らせてしまったわけだけれど」
「ちょっとちょっと、何これから振るみたいな前振りしてるんですかやめてください俺は諦めてもないし後悔とかしてないんすからね」
「知ってるよ。後悔してる男が、猫が死んだと泣く男を抱きしめに、わざわざ駆けつけるもんか。そのくらいは自覚しているとも」
すこし呆れたような声は多分、てれ隠しだ。
丹羽さんはゆっくりと息を吐くように喋る。
「もう少し、早く、おまえさんに全部渡しちまえばよかったのかもねと、ここん所ずっと後悔していたんだ」
俺はただ、暖かいカップを握りしめながら、その言葉の続きを待つ。
「春になるともう冬が恋しい。夏なんて耐えられないほどで、秋は一日一日、雪が降る日を数えて待つ日々だった。……恋しくてたまらなくて、やっぱり携帯電話なんて無くていいと思ったよ。そんなものがあったらね、すぐにでも会いたいと言ってしまいそうだった」
喉がからからなのは、緊張しているからだ。さっきちょっと泣いたせいもあるかもしれないけれど。
丹羽さんはゆっくりと、滔々と喋る。こんなときでも、焦った様になんか聞こえない。
赤い魔女は、滔々と、切々と、お前が居ない夏がつらいと吐きだす。お前が笑う冬が恋しいと、吐きだす。
「隣に居てくれないか。……寂しいからじゃないんだよ、アタシはどうも、おまえさんじゃないと駄目らしい」
そんな風に、絞りだすようにいうもんだから。俺はもう、感極まってもう一回泣くとこだった。
いつか丹羽さんが心を許してくれた時には、格好良く笑って、もう一回格好良く告白決めたいとか思ってたのに。グラオが死んで、俺の心もボロボロで、そんでこんな、いきなり言われてもう駄目で、うまく顔がつくれなくて机に顔埋めてなんとか『はい』とだけ声を絞り出した。
どうにか喋ろうと思うのに声が震える。だめだ、格好悪い。
「…………こちらこそ、お願いします。隣に、居てほしいです。丹羽さんの隣が良いです」
一緒にお茶を飲んで、ゆったりと喋って、そんで一緒にいろんなものを共有したい。静かな雪の日も、セミが煩い夏の日も。四季を二人で感じたい。
そう思えるから、丹羽さんの事が、好きなんだと実感した。
顔が熱い。テンパってて、なんだかよくわからない。これはもう一回頭冷やして出直してきた方がいいんじゃないかと思うのに、あーあー唸ってると丹羽さんが少しだけ眉を下げたのがわかる。
「……え。帰るのかい? ……まあ、急に呼びつけたからね、帰るのならば、止めないけれど……」
「え、残念なんです?」
「……そりゃそうだろう。好きだとちゃんと打ち明けたじゃあないか。アタシの恋情をなんだと思ってるんだい」
「いや、あの、なんか、うん、好きになってもらって嬉しいやっほいが先行しててあんまり感情が追いついて無くて……なにそれ丹羽さん俺と一緒に居たいってこと?」
「だからそう言ってるだろうに」
何度も言わすんじゃないよ馬鹿、と罵られて、今度こそどんな顔をしたらいいのか分からなくなった。
ちゃんと俺の事が好きな丹羽さんって言うのは、思ったよりも、威力がすごい。ほんのちょっとだけグラオの件で弱ってるせいもあるのかなとか思ってたんだけど、なんか、それはあんまり関係なさそうだ。
悲しいし、辛いし、何かが欠けたような感覚は当分取れそうにない。暫くはグラオの居ないこの店に入る度に、ティッシュボックスが必要になりそうだ。俺が泣く度にきっと丹羽さんも思い出して、その度にお茶を淹れてくれるような気がする。
心を平らにする、俺たちの行事だ。
「でも俺寝袋ちょっとしんどかったんですよね……」
「阿呆。どこの誰が恋人を寝袋に突っ込みますか。狭いと煩くても布団に引きずり込ませてもらうよ、まったく本当に自覚がないね……片恋に慣れ過ぎじゃないかい」
「だって、五年好きだった人が、いきなり恋人になったって言われても。うわーうれしい、って思うだけで実感が……」
「膝の上に乗ったらいいのかい?」
「……乗ってくれるなら大歓迎でおいでしますけどとりあえず夕飯の買い物行きません? なんか、ひと段落したら、腹減った……」
少し残っていたお茶を飲み干して、背筋を伸ばした。丹羽さんは昨日の夜からろくなものを食ってないとか言うから、やっぱり何より飯が先決だ。
料理をして、食べたら寝て、そしたら少しは実感が沸くかもしれない。明日にはグラオも帰ってくる。庭に埋めるなら、その穴も掘らなきゃいけない。
「とりあえず休みの日にまた来ます。ていうか休みの日に通います。あとやっぱ携帯買いに行きましょう。俺、丹羽さんにおやすみとかおはようとかメールしたいもん」
「……口説き文句がうまくなったもんだね。軽率に楽しそうだと思ってしまうアタシもアタシだ」
御老体向けの機種にしておくれよとため息を吐かれて、その愛おしさに笑った。
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