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五年目・冬

「今年もよろしくお願いします」  奇麗に頭を下げたイズミさんは、髪の毛の長さがちょっと短くなったくらいしか変わりがない。  一年って、案外さっさと過ぎて行く。そう感じるようになったのは、年を取った証拠なのかもしれない。 「どうも、よろしくお願いしますー。今年は、あんまり雪降らないってどっかのニュースでやってたけど、本当だといいね」 「本当ですかね。ああいうのって、どこまで信じていいのかわからないし……でも雪が降らないと、悠緋さん来てくれないじゃないですか」 「うーん、でも最近はさ、本業よりもこっちの仕事の方が力入って無いかって親父に言われるくらいで……なんか勝手に焦り出して見合いとか組まされたよー」 「ああ! そんな裏事情だったんですか。なんだか、悠緋さんがお見合いしたとかいうから、良子さんと一緒に、結婚して正式におうちを継いじゃったら、雪かきはじゃんけんで当番制かしらなんて言っていたんですよ」  ふふふと笑うイズミさんは、今日はナチュラルメイクで唇が少し明るい色だった。なんか去年より可愛くなった気がするけど、多分気のせいじゃないと思う。恋って奴は本当に人間を元気にするらしい。  ……俺は、応えられないんだけどね。好きな人がいるからね。  じわじわとイズミさんから寄せられる好意は非常にわかりやすくその上いじらしく、あー女の子ってかわいいなと思う。思うけど、この雪の町に来ると俺は真っ先に会いに行きたい人がいた。  良子叔母さんに挨拶をして、荷物を運びこんで、軽く今後の予定を立てる。まあ、こっちに来た日は大概一日フリーだ。本格的な仕事が始まるのは明日からという予定を組んでから、俺は一度脱いだ長靴を履きなおした。  相変わらず森の中の小道は雪に埋まっていて、本当にこの先に家があるのか不安になる。二十分の道のりをえっこらとかきわけて、記憶の通りにそこに立つ魔女の家を見て、やっと安心できた。  垣根の上のカラスは、きちんとそこに存在する。もしかしたら夢とか妄想とか幻想とかじゃないかなって、ここに来るまでに一度は思う。春も夏も秋も、携帯を持っていない丹羽さんからメールが入ることなんかないし、電話もかかって来ない。お盆前に一枚、達筆な暑中見舞いが届くくらいだ。  丹羽さんの暑中見舞いは毎回、押し花に香油が垂らしてあって不思議なハーブの匂いがする。おふくろがすっかり気に入ってしまって、俺宛てのハガキなのに勝手に取りあげて額に入れて飾っていた。  別に個人的な用件とか書いてないからいいけどさ。俺が返すハガキには、絵なんか入る余地が無いほどぎっちりとどうでもいい文句が並んでいるんだけど。丹羽さんはきっと苦笑しながら、夏の庭で読んでくれている筈だ。  相変わらずチャイムがないドアをノックして、雪で落ちそうな釣り看板の下に立つ。あーこれ、今年も補強しないと駄目だなー針金明日買って来よう、と思いつつ、その扉が開くのを待った。潰れてしまいそうな程白い雪で覆われている家の雪かきをする日取りも考えなければいけない。  来週は少し予約が少ないって言ってたから、まあ、その頃だなぁと思いつつ白い息を吐いていると、キイ、と扉が開いた。  俺を見た丹羽さんが、なんでか目を丸くする。あれ、今日こっちに来るって話は、多分良子叔母さんがしてるはずだけど、もしかして伝わってなかったかな?  そう思って首を傾げると、丹羽さんは、かみ、と呟いた。 「……かみ?」 「色が変わってる。……随分と、落ち着いたじゃないか」 「っあー。そうだ、染めたんだった。いやだって、二十五歳農家の息子が明るい茶髪ってどうかなって思いまして。別に俺はそれでいいと思ってたんスけど。あのー、オカンが見合いにそれはナシだってうるっさくて」 「……ああ、そういえば、したんだっけね、見合いね。まあ、とりあえずお入りよ。すぐに帰らなければならない用事も、ないんだろう?」  そう言って割といつも通り扉を開いてはくれたんだけれど、なんだか妙に態度が硬い。いつもは真っ直ぐとこちらを見る目も、視線を逸らし気味だった。  ……都合悪かっただろうか。でも、駄目な時は本当に来客があるからとか用事があるからと断ってくれるのが丹羽さんだ。家にあげてくれると言う事は、別段急ぎの何かがあるわけではない筈なんだけど。  もしかして俺の髪色が壮絶に似合わなくてフォローの言葉を探しているとかそんなんじゃないだろうな。比較的毎年明るい茶髪やら金髪やらチェリーピンクやらだった俺の髪は、今は落ち着いたアッシュグレーだった。  黒にしろと両親には言われたけれど、絶対に似合わないからと抵抗した。アッシュグレーも正直不安だったけど割と似合ってんじゃないかなと、思ってたんだけど。  駄目だったかな。それとも他の理由かな。全然わからない。ほぼ十カ月ぶりに会ったわけだし、態度が余所余所しい原因なんて、思い当たる筈もない。  結構な不安感を抱えたまま、入口にいたヴァルツをひと撫でし、ストーブの前に丸まったグラオにただいまと笑いかける。眠そうな老猫は、灰色の瞳を開いてなーんと鳴いた。 「お茶のリクエストはあるかい? 中国茶以外なら、なんでも大丈夫だよ」 「え、まじで? じゃあローゼル。俺、丹羽さんの淹れてくれるローゼルちょう好きっす」 「……コツも何もないだろうに。他のお茶に比べたら、ハーブティーなんて簡単な趣味さ」 「そうなのかもしんないけど。いやでもやっぱ、丹羽さんと向かい合って飲むのがいいんですよ。あ、今年もよろしくお願いします」 「うん、ああ……滞在するのかい?」 「え。しますよ。仕事ですから。良子さんのペンション別に閉めないでしょ? 俺そんな話聞いてないし普通に雪が溶けるまで労働しますけど」 「……アタシはまた、結婚でもするのかと」  ティーポットから赤い液体をカップに移し、机の上に置きながらも、丹羽さんは視線を逸らす。  え? と思って覗きこめば、その顔はみるみる気まずそうに歪んでいった。 「あんまり見るんじゃないよ……だっておまえ、すっかり落ち着いた男に見えるもんだから。見合いの話も秋口だっただろう。ああ、腹でも括って家を継ぐのか、と。随分と、相手さんは乗り気だったそうじゃないか」 「え、なんでそんなん知ってるんすか」 「良子さんに聞いたよ。雪が無けりゃアタシだって自分の足で出かけるし、他人とお茶したりするんだよ。良子さんはご近所さんだからね。……もう今年は来ないかもねなんて、笑っていたのがこの前の事さ」 「いやいや。結婚しませんって。お断りしましたし丁重に。俺やっと本業の農家もなんとなくこう、やり方掴んできた上でなんか天職じゃない気がしてきたところなんですよ。農家で嫁貰ったら転職も出来ないじゃないっすかっていうか俺毎度口うるさく口説いてますけどまさか伝わって無かった?」 「……三カ月もすれば人間なんて簡単に心変わりするもんだよ」 「わかりました、じゃあ今度から冬以外の間は一カ月ごとに電話入れます。ていうか携帯勝手に買って送りますからもう普段は使わないでいいんで俺からの日常会話受信用にしてください。つーか、もー……ちょっと、いきなりパンチきっついですよなんなのびっくりした……」  本当に何かしたかと思って冷や冷やした。人の心も三カ月なんて丹羽さんは言うけど、ほんとその通りの危惧をした。  俺は別に、迷惑がられたりしてなかった筈だし、なんだったら徐々に受け入れられているような気がしていた。でも離れている十カ月の間に、何が起こったかはわからない。イケメンとか美女とかが颯爽と現れて、丹羽さんを掻っ攫って行かないとも限らない。人生何が起こるかわからない。  ヘンな緊張と安堵で、思わず長い息をつく。懐かしい香りの赤いお茶を飲んで、甘酸っぱい味に満たされて力が抜ける。  気まずそうにカップに息を吹きかける丹羽さんが、やっとかわいいと思える余裕が戻ってきた。  好きな癖に。結婚するのかとやきもきするくらい、俺の事気になる癖に。どうして素直に落ちてくれないんだろうかこの人は。 「そんなに可愛いのにまだ駄目とか卑怯……」 「……察しておくれよ、こちとら十年は孤独装って生きてきたんだ。でかい顔して飄々としているけどね、腹ん中は野良猫さ」 「じゃあ待ちますから。絶対待ちますから、懐いて心開いて俺の手の上から餌食ってくれるまで待ちますし俺はずっと口説いていきますから。あともうちょい頑張って人間的にも自立します。……でも今の勘違いで挙動不審な件結構心臓に悪かったんでお詫びでお手付きさせてください」 「なんだいその物騒なお詫びは……」 「何年片思いしてると思ってんですか。ちょっとくらい餌くれたっていいじゃないっすか。……襲ったりしないから」  我ながら説得力の無い口説き文句だと思った。丹羽さんが嫉妬とかするから、テンションがおかしくなってしまっていた。だってかわいい。すごくかわいい。なんだこの年上天使か、いやまあどっちかって言ったら魔女なんだけど。  渋々、と言った風に俺の隣の椅子に移動してきた丹羽さんは、一回だけだよと小さく呟く。 「口を離すまでが一回でしょ?」 「……死んでしまうよ、馬鹿」  それは息が苦しい的な意味なのか、それとも心臓が持たない的な意味なのか、問わずに腰を抱いて唇を塞いだ。  丹羽さんの薄い唇は、奇麗な手と一緒で、さらりとしている。薄く開いた口を舌で割ったら、甘酸っぱいローゼルの味がした。 「…………ん、……っ、」 「………にわさん、すっぱい…………」 「お前だって、同じもの飲んでるだろうに……ローゼルの、せいだよ」  自分で一回と言ったのに、丹羽さんは唇を離した後にもう一回俺の首に手を回してきたから、誘われるままにキスを再開した。  熱い舌が絡んで、まずい、興奮する。漏れる息が耳に甘い。こんな甘いキスをされたら、これから事あるごとにねだってしまいそうだ。  世捨て人だとか、野良猫だとか自分で言う癖に、縋ってくる息は甘いなんてずる過ぎる。  唇をやっと離した後も密着した身体を離すのがもったいなくて、頬をすり寄せて抱きしめてしまう。一瞬ビクッとした丹羽さんも、ゆっくりと息を吐いてから力を抜いてくれる。  好きだな、と思う。やっぱり俺はこの人が好きで、この人の空気が好きで、言葉が好きで、いつか好きだよと言われたい。でも、待っててねと言われたからには、無理を言って困らせたくはないから。 「待ってるからね」  赤い人を抱きしめながら柔らかい髪の毛に唇を落とす。顔をあげようとしない魔女は、それでも小さく頷くのが分かった。  五年目の初めはこんな感じで幕を開けて、次の日からは、やっぱりいつも通りに過ぎて行った。  いつも静かなヴァルツと、気がつくと徘徊しているグラオと、時々甘い駆け引きをする赤い魔女。最初の頃は俺が翻弄されていてばかりだったけれど、最近は俺も言葉をしかけることが多くなった。  丹羽さんは唐突なスキンシップに弱くて、時々髪の毛を撫でるとものすごく赤くなる。言葉では煽ってくる癖に、抱き寄せると静かになった。  キスは、再会の日以来してないけど。抱きしめるくらいならいいかなって、勝手に思って隙ができると引き寄せて居たら、最終的に抵抗もされなくなった。  諦められたのか慣れたのか、その辺はわからない。まあ、悪い傾向じゃないだろう。  あと何年待つのかなぁ。恋愛だけが人生じゃないし、丹羽さんだけが俺の全てじゃないけれど、でも、今のところはこの人がいるこの雪の町に、やっぱり毎年通うんだろうと思う。  五年後くらいには、流石に観念してほしい。きっと今年も両親が躍起になって結婚を勧めてくるだろうから。  いつも通りの冬だった。  そして雪が溶けて、俺は口うるさい両親の元に帰り、また次の冬を待つ筈だった。少なくとも、また冬に、と言って別れた時はそう思っていた。  丹羽さんから突然の連絡が入ったのは、さよならまたねと手を振った、その一ヶ月後の事だった。

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