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四年目・冬

 ぼんやりと薄暗い部屋に、オレンジ色の光がともった。 「うん、はい、すいません……うーんブレーカーじゃないんでなんかこう、断線的なもんかもしれなくて俺じゃちょっとわかんないんですよね。丹羽さん置いてくわけにもいかないし、背負ってくわけにもちょっといかないんで……朝になったら業者に連絡してみますんで」  相変わらず重い黒電話の受話器を置いて、冷えた指先に白い息を吹きかけた。  後ろのテーブルに座った丹羽さんが、ふわりと苦笑する気配がする。いつものように頬杖をつき、いつものストールよりも厚い生地の毛布を肩にかけている。 「停電くらい、なんてことないさ。夜は電気を消して寝るもんだろう」 「そうは言ってもですね……やっぱ、心配じゃないですか。俺何度か震災体験してて停電一週間とか食らったことありますけど、人間案外ちまちま電気に頼ってますよ。こんな時に限ってストーブも壊れてるし。ハプニングだらけで逆に面白くなってきましたよ」  丹羽さんからストーブが壊れたらしいと連絡が入ったのは昼すぎの事で、雑用を終えた俺が垣根の上のカラスでもうエアコン買いましょうよと丹羽さんに迫っている時に、素晴らしいタイミングで照明が落ちた。  ほれみたことか、電気なんて宛てにならない、なんて言われたけれど古いストーブだって結果壊れてるんだから意味無い。  よくよく考えればテレビもパソコンもない丹羽さんの家で電気を使うのは照明くらいだし、寝る時はストーブだって切っている筈なんだから凍えて死ぬって事はないだろう。  でも、心配だというのは本当だ。丹羽さんは案外ささいな事でメンタルが傾くから、一人で暗闇に残して帰るなんてことはやっぱりできない。  白い息を吐く丹羽さんの前には、小さなオイルランプがゆらりと光を灯している。 「停電なんて、久方ぶりだねぇ。ユウヒが帰った後だったら良かったのに。また、素晴らしいタイミングで明かりが落ちたもんだ」 「俺的には帰る前でほんと良かったです。びびったけど。いきなりまっ暗になんだもん。いやそこまで暗くなかったけどグラオがめっちゃビクッとしやがったから俺も釣られて慌てちまった……」 「ふはは、中々の声をあげて居たものねぇ。いやー愉快だった。暗闇が怖い子供かと思ったよ。夜が怖いなんてのは、ウチの臆病な猫だけで十分さ」  なあグラオと、俺の横から離れないグラオに、丹羽さんの手が伸びて毛並みを撫でるのが見えた。夜行性の猫の癖に、グラオは夜が苦手らしい。 「ねこなのに……」  思わずそう漏らすと、丹羽さんがグラオを抱きあげて笑う。 「どうもね、人の家で生まれた猫なんじゃないかと思うんだよ。ヴァルツが雪の中で拾ってきた時には首輪なんざ無かったし、どこの野良猫かと思ったんだけどねぇ。もう老猫さ。歳を取っても嫌いなものは嫌いなんだろうね。夜はヴァルツにぴったりと寄り添って寝る」 「なんだそれかわいいな……。ていうかお前ほんとヴァルツのこと好きなー」  俺が来ると纏わりついてなーなー鳴く癖に、気がつくとヴァルツに寄り添っている。本命はそっちかと思うと悔しいような、微笑ましいような気分だ。  グラオは毎晩、好きな子と一緒に寝てるのか。そう考えると、それもまた地味に羨ましい。  俺と丹羽さんの関係は相変わらずで、のらりくらりとかわされつつも、拒否はされないみたいな生殺しのような状態だった。去年の終わり頃は、その生殺しにまだ慣れなくてテンパったり憤ったりしてたけど、ひと夏、丹羽さんの居ない季節を過ごすと妙に落ち着いた。  隣で笑って、言葉を返してくれることの大切さっていうか。贅沢さっていうか。あーもう丹羽さんが俺の隣で柔らかく笑ってくれるならなんでもいーや、みたいな気分になりつつある。  そら抱きしめて良いならそうしたいし、好きって返してもらえたら嬉しいし死ぬかもしれないけどさ。ぬるーく、言葉遊びみたいに翻弄されるのも案外楽しいと思える余裕みたいなものが少しずつ、俺の中にも出てきたらしい。  二十代もついに半ばだ。まだまだ学生気分が抜けてなかった最初の年に比べたら、そりゃ、多少は大人になってないとと思う。実際成長してるのかと言われたら微妙なところだけど。  コンロで湯を沸かし、丹羽さんは珍しくココアを淹れてくれた。シナモンとラム酒を垂らされたそれは、甘い香りと湯気を立たせている。  少しだけ迷って、向かいじゃなくて隣に座った。寒いのを理由に近くに座る事を、丹羽さんは苦笑一つで許してくれる。 「良子さんのところは、大丈夫だったのかい?」  すっかり冷えた指先に、あったかいカップの熱がじわりと伝わる。割と猫舌な丹羽さんは、口をつけるまでに何度か息を吹きかけるんだけど、その仕草までもなんかいいなーと思ってしまうから、恋って奴は恐ろしい。 「大丈夫だって話でした。まあ、今日はお客さんの予約一組だけだし、俺は送迎と力仕事要員なんで夜はあんま、必要ないんですよね。今日はイズミさんも来てたし」  俺と丹羽さんの関係は相変わらずだったけれど、周りの環境は少しだけ変化していた。  例年通りペンションを続けるから、今年もよろしくねと良子叔母さんから連絡が入り、いい加減慣れ親しんだ町に辿りついたのは雪が降り始める十二月だ。四年目ともなると、商店街のじいさんばあさんも俺の顔を覚えているらしく、軽率に声をかけられるようになった。  亜美ちゃんが隣県の大学に進学してしまったので、ペンションは閉めようかどうしようかと、良子さんは随分と悩んだらしい。特別儲かるような仕事でもないし、パートと料理教室をかけ持ちした方がいいんじゃないかと言う良子さんに、ペンションを続けてほしいと言ったのは亜美ちゃんだった。  結局叔母さんは今年もペンションを続けることに決め、冬の体力要員に俺を、そして亜美ちゃんの代わりのお手伝い要員にイズミさんを雇った。  イズミさんは割と小奇麗な女性で、化粧したら美人だろうなっていう感じの人だ。俺よりひとつかふたつ下で、両親の介護で町に戻って来たらしい。いつもきっちりと黒髪を結わえていて、細かい作業も黙々とやる真面目な人だった。  その割に結構喋ってくれるから、俺は比較的良い同僚として付き合っているんだけど。  どうも、イズミさんの名前は丹羽さんには鬼門らしく、そのささやかな機嫌の変化が、どうにも、やっぱり、こう、うん……えーそれどういう意味かな、どうなのかな、って思ってしまうわけで。  丹羽さんは本当にすべからく人間に対してフラットというか一歩引いていて、そうそう悪口を言ったりしない。悪口言う程他人に干渉しないからだろう。  だから、他人に対して微妙な顔をすることって稀なことで。その変化が、やっぱり俺は気になってしまう。  不安と期待が混じったようなヘンな気持ちで、ラム入りのココアをずるずると飲む。甘い匂いの割に味はさっぱりとしていて、うまい。 「…………なんだい。言いたいことがあるなら口で言ったらいいじゃないか」 「え。えー……いや、だって、なんかこう、……どっちだろうなーってここんとこずっと思ってて」 「何が」 「イズミさん。……丹羽さんって、イズミさん苦手なんです? それとも逆に好きなんです?」 「……おまえさんは本当にストレートにぶちまけてくるねぇ。その、妙な度胸は一体何だろうね……ちらちらと好意をちらつかせていた頃が懐かしいよ」 「だって丹羽さんちらちらしてもずばっと言っても、結局似たような反応すんじゃん……じゃあなんか、思った事そのまま言った方が、俺の精神が楽だなーって思って。で、どっち?」 「……言わない。おまえさんを喜ばせるだけだから」  うわーなにそれかわいい。  ふい、と顔を逸らせてしまう丹羽さんの横で、俺はココア噎せそうになった。  丹羽さんは確か七つ上だから、今年幾つだ三十一歳か? 学生の頃の俺からしたら、三十代の男なんておっさんだと思っていたけど、実際自分が二十代すぎると、三十路なんてまだまだ若いよなって思う。  思うし、若い云々とかじゃなくてなんというか、丹羽さんはかわいい。やっぱりこの人は魔女というのは伊達じゃない。男とか女とか大人とか子供とか、そういうカテゴリーで分けられない。丹羽さんは、何年たっても、どんだけ歳を取っても、多分『丹羽さん』という生き物だ。  つーか今の言葉そのまま解釈すると俺に都合がよすぎるんだけどどうなの丹羽さん。  俺はさっき良子さんに『今日多分帰れないんで丹羽さんとこ勝手に泊めてもらいます』って連絡をしたばかりだ。たかが二十分の道のりとはいえ、夜中に雪道を一人歩くのはしんどいし、相変わらず雪はもさもさ降っているし、暗闇と寒さの中に丹羽さんを一人残すなんて嫌だった。  帰れと言われなかったから、泊まってっていいんだと思ってる。実は泊まるのとか初めてなんだけど。そのどきどきも相まって、段々寒さとかわからなくなってきた。  丹羽さんは、恋をする気なんかないんだと思う。  じゃあもう、恋に落とすしかないじゃん? なんて恥ずかしい事は勿論言えないから心の中だけの決意だ。  一人で生きようとしている世捨て人を、どうやって口説いたらいいのかなんてさっぱりわからないから、俺はもう押すしかない。結構図々しく通ってはお茶を飲んでるし、世話を焼いてるし、もうすっかり丹羽さん専用の物資配達員だった。  ほとんど毎日顔を合わせて居ると、情が移るものなのか。ちょっとだけ、最近丹羽さんは俺に甘い気がする。言葉の端々が、気のせいかなぁ、ちょっと痒い。 「なんか、丹羽さんが常々言ってるアレ、最近ほんと分かって来た……」 「アレってなんだい。きちんと言葉におしよ」 「それそれ。言葉ってすごいねってやつ。……言葉ってすごいよなー、日本語ってすごいよ。ちょっと、零すだけで、切なくも甘ったるくもなっちゃうんだもん。あ――――……うー俺やっぱ帰ろうかな今ちょっとお手軽にテンション上がって好きな人襲っちゃいそう……」 「若人はチョロいねぇ、もっとじっくりと腰を据えて口説きなさいよ……襲ったところで気持ちのいいもんじゃないだろうに。何度も言うけどね、アタシは見た目はそこそこ、まあ、見れなくもないし、女のようだけどね。きちんと男ですからね」 「存じてますって。丹羽さん結構身長あるし骨っぽいじゃん。手の甲とか、完全に男だし。ていうか顔も別に女の人って感じじゃないっすよ。奇麗な男の人って感じ。鼻がすっと通ってて、唇が薄くて、美人だしかっこいいから好きだなーって」 「…………若人はチョロいし怖い。真っ向からそんな事を言えるのは、若さかね性格かねぇ……」  怖い怖いと言いながら、視線を逸らすのはどう見てもてれ隠しでかわいい。俺は丹羽さんの歪曲した言葉に踊らされて熱をあげてしまうけれど、丹羽さんは俺のストレートな言葉に弱いようだった。まあ、言うのも結構恥ずかしいのであんまりこの戦法は使えない。  でもさ、イズミさんの話をする度にちょっと機嫌が悪くなる丹羽さんのその理由が、友情か恋情かはわかんないけど嫉妬っぽいから、そんなんもう俺はテンションおかしくなっちゃうって話だ。  じわじわと口説いていきたいし、じわじわと落ちないかなー落ちたらいいのになーもういいじゃん俺にしなよって思ってるけど。いざ、こんな風に甘い言葉で翻弄されると、慌ててしまって余裕がなくなる。やっぱり俺はまだ、子供だ。俺も三十代になれば、丹羽さんみたいに落ち着くんだろうか。……全然、想像ができない。 「ところでおまえさん、本当に泊まっていく気かい?」  やっと飲みごろまで冷めたらしいココアを飲みながら、丹羽さんがふと思い立ったように問いかける。 「え。だめっすかね。駄目なら頑張って帰りますけど」 「駄目じゃあないけども。……まあ、元々アタシと魔女の二人暮らしだったからね、部屋は空いちゃいるが、布団は処分しちまったような気がするんだよねぇ……夏ならその辺にころがしとくんだが。流石に、朝起きたら冷たくなっていたなんてことになったら、目覚めが悪すぎるじゃないか」  それは俺も嫌だ。布団に入っていたって寒い季節なのに、床でなんか寝れる筈もない。 「あー。ええと、帰った方が良い的な?」 「まあ、別に、狭くても良けりゃ同衾してもアタシは構わないけれど」 「どうきん…………え。え? 同じ布団で寝るってこと?」 「アタシは別に、ペットと床を共にするようなもんさ。まあ、おまえさんがどう思うかは気にしないことにしていてやるよ。不埒なまねをしたら雪の中に叩きだすけどねぇ」 「……拷問じゃね……?」 「さあどうだろうね。おまえさんがどこまで本気か知らないが、タナボタか拷問か。試してみるのも一興じゃないか」  にやにやと、悪い笑みを浮かべて魔女は頬杖をつく。完全にからかわれているちくしょうさっきはあんなに素直に嫉妬晒してきたくせに……。  そんな赤い魔女の挑発にうっかり乗っかってしまい、自分の首を締めるのもまた、俺が若いからかもしれない。 「ええと、どこまで触ったらアウトです? そこんとこ大事なんで最初にきっちり決めときましょ、きっちり」 「どこまでってねぇ……友人以上の事は駄目だろう」 「友人と同衾とかしないからわっかんないっすよ。髪の毛はセーフ? 俺多分、目の前に丹羽さんの髪の毛があったら、触っちゃうよ。ていうか今だって我慢してんのに」 「……おまえさんは本当に、言葉の零し方がうまいねぇ」  口元を手で隠しているのは照れているからだろうか。呆れたような視線だけど、声が甘いから褒められているんだと解釈した。 「匂いを嗅ぐのはアウト?」 「それ、亜美に同じ事できるかい?」 「なにそれ変態じゃないっすか」 「じゃあアウトだ」  あははと笑って、丹羽さんはグラオを抱きあげる。夜が怖い老猫は、すぐに主にすり寄ってなーんと鳴いた。  甘えるのがうまいなお前はホントに。俺だってその膝枕堪能したいよ。多分骨が痛いだろうけどそういう問題じゃない。 「今日は、明りが無いのに、騒がしいねぇ。一人増えると、随分と賑やかなものだね、ねぇグラオ」  今日は夜なんざ怖くないだろ? と話かけられ、灰色の目の猫は、気持ちよさそうに喉を鳴らした。  結局俺は物置から発掘した寝袋で一晩を明かしたんだけど。  夜中におやすみと声を掛けられた時に、頬を何かが掠った。アレは指先だったのか唇だったのか、暗くてよく見えなかった。  次の朝からも丹羽さんはいつも通りで、朝から甘くないパンケーキを焼いてくれて珈琲を淹れてくれた。いつかおはようのちゅーとかできんのかなーって妄想してみて、あまりの痒さに勝手に机に沈んで呆れられたりもした。  まだまだ俺は青い。四年目は、そんな風にざわざわと勝手に翻弄されつつも、比較的まったりと過ぎて行った。

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