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三年目・冬

 携帯に表示される『公衆電話』の文字に、正直感慨すら覚える。  そんな文字が表示されたのは、多分、生まれて初めてだ。 「誰だかわっかんない電話って、取るの結構勇気要りますよねー。まあ、今回の公衆電話は丹羽さんだってわかってたけど。今は家電もナンバーディスプレイ当たり前じゃないっすかー」  いい加減運転にも慣れてきた雪まみれの道を、若干の低速でのろりと走る。いつおじいちゃんサプライズがあっても良いように、駅前の商店街は三十キロ以上出さないと決めていた。  特に肉屋前がこの町のホットスポットだ。隣が小さいコンビニめいた日用品店で、その隣が菓子屋だから大概の人間が利用するし、横断歩道が遠いからってバンバン横切ってくる。  のろのろとウインカーを出し、のろのろとハンドルを切ると、珍しくぐったりとした面持ちの丹羽さんが答えた。 「ウチの電話はいつだって誰からの呼び出しだかわからないよ」 「……丹羽さんちまだ黒電話なんすか。いい加減変えましょうよ。ていうか携帯持ってくださいよ」 「電波が入らないじゃないか」 「キャリアによっちゃ入るらしいっすよ。亜美ちゃんの携帯はいけるって言ってた。丹羽さんちネットもなけりゃテレビもないじゃないっすか。せめて携帯くらい持ってたらいろいろ便利だと思うけど」 「ラジオは入るよ。それに、読み終わった新聞を良子さんが回してくれる。世界のニュースを知るには、ラジオと二日前の新聞で十分さ」  丹羽さんはどうやら、少し、遠出をしていたらしい。  疲れてるなら喋んなくても良いのに、相変わらず無駄に律儀な人だ。というか俺も、疲れているのわかっているんだから静かにしておきたいのに、そこに丹羽さんがいると、どうも、口が勝手に動いてしまう。  丹羽さんと会ってから俺は、自分が喋ることが好きな方の人間だと気がついた。この人と居ると、うっかりずっと喋りっぱなしになる。  単に丹羽さんが聞き上手だという以外にも、確実に理由があるよなと認めたのは、今年の十二月にいつものように雪をかきわけ、いつものように今年もよろしくお願いしますと挨拶して、十か月ぶりの控え目な笑顔を見た時だった。  あーだめだ。これはだめだ。もうだめだ。惚れている。完全に俺はこの人に惚れている。そう気がついた。  鼻が痛くなる寒さに凍えて居た筈の指先は無駄にあっつくなるし、頬も痒いし、なんか顔見て居られなくなってものすごい不自然に視線を逸らしてしまって、その先に偶々居たヴァルツに逃げてしまった。  俺の熱烈なてれ隠しを含めた歓迎を受けて、ヴァルツはちょっとわけがわからないからおちつけよみたいな顔してた。  その横で寄り添ってたグラオは、相変わらず俺フリークで、待ってましたとばかりにすぐになーなー纏わりついてきた。かわいい。やばいかわいい。でも俺はグラオよりも背中に感じるにやにやした視線の方が気になって仕方なかった。  丹羽さんは他人の感情を読み取るのがうまいから、まあ、きっとばればれなんだろうなと思う。でも避けたりしないし、迷惑そうでもない。だからまあ、うん、とりあえずは今のところ許して貰っている気分になって、勝手に熱を持て余しながら俺は垣根の上のカラスに通った。  話してるとテンション上がる。笑ってくれると嬉しいしどきりとする。見つめられると心拍数上がるし情けないくらい緊張する。どうして好きなのか考えても、それが丹羽さんだからだという結論しかでない。  一応、男だということは理解してる筈だけど、いやでもどうだろう丹羽さんって、なんかもう『こういう生き物』っていう感じだしなぁ。  赤い髪の世捨て人は、携帯買いませんか誘惑をスパッと切り捨て、ウチのペンションで預かっていたグラオとヴァルツの話をねだった。  結構マジで疲れているらしい。普段はだらりと世話をしている丹羽さんが愛犬と愛猫を構うのは、ストレスがたまった時だと笑っていた事を思い出した。  なるべくゆっくりと車を走らせ、ペンションに寄りグラオとヴァルツを回収し、今朝がた死ぬ気でめちゃくちゃ除雪したけもの道を怖々と走る。サイドミラーが何度か枝に引っかかったが、どうにか車を木に擦らせることなく、垣根の上のカラスに辿りつくことができた。  俺や亜美ちゃんなら、この小道をぜえはあ息を乱しつつ歩くこともできる。でも、左足を少し引きずる丹羽さんに、そんな事をさせるわけにはいかない。  猫を抱いた丹羽さんは、白い息を吐いて雪の上に立つ。  荷物を持った俺はそれに続き、首輪も紐も無くても従順な賢い黒犬を呼んだ。最近、ヴァルツは呼べば反応してくれるようになった。それも、少しというかかなり嬉しい進捗だ。 「……魔女は、下界に降りるもんじゃないねぇ」  しん、と冷えた店内に丹羽さんの声が響く。冷たい店は、俺にとっては不思議な感じだ。いつだってここには丹羽さんが住んでいて、暖かいストーブとオレンジ色の光で満ちている。雪の反射のせいで暗くはないけれど、吐いた息は外と同じく白いままだ。  三日前に、少し旅をしなくてはいけなくなったからと、珍しく丹羽さんは旅行鞄を担いで町を出て行った。  そんな事は初めてで、しかも良子叔母さんも亜美ちゃんも、丹羽さんが電車に乗るなんてと驚いていたから余計に心配で、いや別に公共機関使えるのかとかそんなお年寄り対応の心配じゃなくて。  ……帰って来なかったらどうしよう。って、ずっと、そんな何の根拠もない不安ばかりが押し寄せていた。  だって丹羽さんって、猫と犬さえ引き取り手が見つかれば、それであとは残すものなんてない、とか考えてそうじゃんか。  普通に生活している時でさえ、雪に埋もれて死んでないかなと心配になるのに。ふらりと旅に出るなんて、自殺かなにかかと不安になってしまうのも仕方が無いことだ。  丹羽さんはいつも、柔らかく喋る。けれどその実丹羽さん自体が、明るい性格かと言えばそうでもないと言う事を、俺は察している。とても柔らかい、とても後ろ向きな人だ。  だから駅に着く予定の約束の時間に電話が来た時、安堵で一回へたり込んでしまった。叔母さんと亜美ちゃんは大学とアパートとかの手続きで外出していた。携帯握って床にへたり込む俺を見て居たのは、ヴァルツとグラオだけだ。  旧式のストーブに火を入れて、小さな電球だけ灯す。奥のテーブル付近だけが、オレンジ色に照らされた。 「良子さん達が帰ってくるのは、夕方かい?」 「あ、はい。何もなければ六時のバスで帰ってくるって言うんで、電車が遅れないようなら迎えも要らないって話でした。まあ、荷物もそんなにないし、アパート決めてくるだけだって言ってたから」 「亜美が大学生ねぇ……年月なんてもんは、本当に、さっさと通りすぎちまうもんだね。あの小うるさい少女が居なくなると、寂しくなるね。また、アタシの家を賑やかす人間が居なくなるし、良子さんは一人になる。……ペンションは閉めるのかい?」 「どうかな。お手伝いさんを雇って、まだ続けるか、それとも閉めて料理教室を開くかって話で、よく親子で揉めてるけど」 「料理教室になっちまったら、ユウヒはお払い箱じゃないか」 「……雪かきに来ますよ。月一くらいで。ついでに垣根のカラスの小道も車が入れるレベルにして帰りますんで」  まだ不確定な未来を語りながら、ふらふらと丹羽さんはキッチンに立つ。なんか、本当に疲れているみたいで重心が怪しい。  疲れているならゆっくり休んだらいい、と言ったのに、丹羽さんはいいから座れと奥のテーブルを指さした。 「アタシは義理がたい人間でも、配慮に富んだ人間でもないからね。自分が一番だよ。嫌な事はやんわりと回避するし、駄目なもんは駄目と主張するさ。だからアタシが帰れと言わない限りは、おまえさんはそこで猫で戯れてたって構わないのだからね」 「いやまあ、俺も帰ったところで一人なんで、居て良いなら居ますけど。お茶くらいなら俺が淹れますよ?」 「冗談はおよしよ。ゆっくりとお茶を淹れるのは大切な時間さ。心がね、とん、と平らになる。お茶を淹れるのがアタシの目的。おまえさんに振る舞うのはついでだ」 「……もうちょっと歯に衣着せてくださいよ」 「おや、難しい言葉を覚えたもんだ。若人も学習するものだね」  やっと柔らかく笑うものの、やっぱり少し、視線に影が残る。  お湯を沸かした丹羽さんは、珍しくティーポットではなく急須を用意する。暫く猫を抱きながら眺めていると、いつもの陶器のカップに、黄金色の液体が注がれ、とん、と机に置かれた。  花のような、さっぱりと甘い香りが漂う。でもなんか、花とは違う硬さっていうか。  素直にこれなんですかと訊けば、目の前にやっと腰を落ち着けた丹羽さんは、黄金色のお茶を一口含み、息を吐いてから烏龍茶だよと言った。 「え。ウーロン茶って、結構なこげ茶色ですよね?」 「日本で普及してるウーロン茶はそうだね。これは中国茶。凍頂烏龍茶っていうお茶でね、ゆっくりと落ち着きたい時にわりと飲むんだ。味もさっぱりとしている割に、コクが残る。舌に残る甘さがあるだろう?」  勧められて一口含み、独特のお茶っぽい苦みの後に残る甘い感覚と、ふんわり香る清々しい香りに思わず息を吐いた。  あ、俺これ好きだ。実のところ烏龍茶の独特な苦みと香りが苦手で、酒の席以外で飲む事はないんだけど。これはなんだろう、緑茶に近いのかもしれない。飲みやすいし、なんていうか、きっちりしているのに柔らかい。  そんな感想をそのまま述べれば、疲れていた丹羽さんの顔が少し綻んだ。 「おまえさんの言葉は、なんだかこう、いいねぇ。素直で感覚的で、おもしろい。まっすぐなのに懐がでかいんだから、たいした若人だよ」 「それ、褒められてるって認識して平気っすか?」 「褒めているとも。ゆっくりと中国茶を飲むときに、湯のみ二つ分用意したのは初めてさ」  なんだそれもしかしてすごい事なんじゃないのか。今すごいこと言われてんじゃないのか俺、ってそわそわしだす前に、丹羽さんはため息をついた。そんな重い息をつかれると、正直、俺のちんけな恋心とかどうでもよくなってしまう。また、不安になってしまう。  お茶うけに出されたサンザシのドライフルーツを噛みつつ、どうしたんですかと訊いていいものか悩む。  訊くのは怖い。聞いていいのかもわからない。でも、溜息を言葉にしてくれたらいいのになと思う。  そんな俺の葛藤を知ってか知らずか、丹羽さんは独りごとのようにぼそりと呟いた。 「……母親に会って来た」  とても低い乾いた声だった。丹羽さんの声はいつも、心地よく乾いている。気持ちよく耳になじむ。けれどこの時の声は掠れて、泣きだしそうで、刺さるような痛さだった。 「ははおや……」 「うん。福島に住んでいるんだけどね。どうやって調べたのか、ハガキが届くようになった。こんなところまで逃げても、追いかける執念というものは、すごいものだね。そこまでの情念があれば、もっと前向きに生きていけるだろうに」  丹羽さんにだって家族がいる事は頭ではわかっていたが、いざ口に出されるとあまりにも想像できなくて、言葉に詰まる。  丹羽さんの母親。丹羽さんを産んだ人。 「……あんま、仲良くない、感じですか?」  お茶をすすりながら、そんな有体な言葉しか言えない自分が歯がゆい。もっと、うまい事話を聞ける人間になれたらいいのにって、久しぶりに自分の若さを実感した。  それでも丹羽さんは、苦笑い一つで許してくれる。 「仲良くないんだよ。酒が好きな人でねぇ、仕事でも飲んで、家でも飲んで、その度に泣いて殴って罵倒して、次の日はけろりとしている。アタシの事をペットだと思っていたのかお荷物だと思っていたのか、それともあれが愛だったのか、そんなことは分からないけれど。とにかく、アタシの中の記憶にあるあの人は、いつだって理不尽で苛々していた。父親なんてものは最初から居なかったよ。唯一の肉親で、一番憎い人が、母親さ」  滔々と、一定のテンションで丹羽さんは言葉を零す。その話は多分、その言葉よりも壮絶で、とんでもないものなんだろう。  想像しかできない。想像すらできない。  言葉がうまく選べなくて、結局、事実の確認しかできない。 「追いかけてきた、ってことは、一度縁は切ったんですか?」  丹羽さんは、滔々と喋る。 「何度か、切ったつもりが切れなくてね。愛されていたのか、少しでも金をむしり取りたかったのか、わからないけれど。繋がる縁を切りたくて、こんなところまで来ちまってねぇ。そこの湖のほとりに立ったらね……すごいね、自殺する人間の心境が分かっちまったんだ。ああ、面倒だなぁと思って、息をするのも面倒になった。そしたら唐突に、背中を叩かれて、アタシは本当にそのまま湖に飛び込んでしまいそうな程びっくりしたんだよ」  それが、辺鄙な湖のほとりで小さなハーブ屋を営む、垣根の下のカラスの前の主人の老婆だったのだという。知らなかった。この店は、丹羽さんの前に、先代の主人がいたらしい。  すっかり丹羽さんの趣味だとばかり思っていた店名も、元々そのおばあさんが付けたものだと言う。彼女もまあ変わり者で、魔女だなんて呼ばれていたから似たようなものさと、赤い魔女は静かに笑った。 「彼女の言葉は、それはそれは柔らかくてね。歳を取ると言う事は、こんなにも柔らかくなることなのかと、久しぶりに泣いたものさ」  丹羽さんが泣くなんて、想像がつかない。いつでも遠くをぼんやりと見つめるこの人が、誰かを憎んで、誰かの言葉に癒されて泣くなんて、不思議だ。 「誰にも話して来なかった人生を、一晩かけてゆっくり吐きだしてね、言葉の浄化力を思い知ったよ。吐きだす、というのは、まさにそのままの意味だね。身体から、少しずつ出て行くんだ。ずっと、誰に言うでもなく、ため込んでいたものを吐きだして、喉が渇くと彼女が淹れてくれた赤くて酸っぱいハーブティーを飲んだ。なにせ二十数年間の人生、ほとんど母親と二人で過ごしてきたもんだから、話すことは山ほどあった」  一晩かけて話をして、泣き疲れて話し疲れた頃に、垣根の上のカラスの女主人は、からりと笑って『捨てちゃいなさい』と言ったのだという。 「アタシはびっくりして、目をぱちぱちとして、なんて答えたらいいのか迷った。彼女は楽しそうに笑ってね、言ったものだよ。『捨てちゃいなさい、そんな人。貴方の愛が可哀想。彼女が見向きもしなかった、貴方の愛が可哀想』……ああ、本当にそうだなぁ、と思ってねぇ。すっぱり、捨てようかと思えたんだ。捨てるというのはね、忘れるということだよ。あの人に関する全てを、失くすということ。憎しみもね、憤りもね、愛もね、未練もね、怒りもね、全部忘れようと思ったんだ。でもそれを全て忘れてしまったら、アタシには何も残らなくてねぇ……空っぽな男一人、居候にしてくれたのが湖畔の魔女だった」  その日から、丹羽さんは魔女の助手となった。  不自由な足で雪をかき、町に降りて買いだしをして、魔女の為に料理を作った。犬の散歩をした。そのうちに香油作りを覚えた。そして魔女が老いてその一生を閉じる時には、丹羽さんが、この店の魔女になった。 「人が死ぬのをはじめてみたよ。そこに居た人がひとり、どこにも存在しなくなる。辛くて悲しいことさ。それでもアタシはきっと幸せな方だね。とても大事な人に、貴方に会えて楽しかったと、最後に笑って貰えたのだからね。……ユウヒの、祖父母は健在かい?」 「……ばあちゃんは同居してます。じいちゃんは俺が小学生の時に、死んじまったけど」 「そう。大事におし。命なんて、ころっと消えてしまうものだらかね」  一息ついた丹羽さんは、カップのお茶を少し含んで、また少し、重い息を吐いた。言葉にして身体から吐き出す、と言っていたけれど。きっと今、それをしているんじゃないかなと思うから、俺は黙って甘くて優しいお茶を飲んだ。  いつの間にか抱いていたグラオが丸くなって眠っている。ヴァルツは、丹羽さんの足元にそっと寄り添っていた。 「アタシはあの人を捨てたんだ。だから、いくらハガキが届こうが、電話が来ようが、無視をしていたさ。今更愛を語られても、苛立つのはやめた。その後で金を無心されても、何食わぬ顔でやんわりと断れた。最後にヒトデナシと罵られてもね、もう何も感じなかったんだ。でもね、駄目だね、電話なら平気でも、会ってしまうと駄目なんだね」  丹羽さんが、福島まで出向いたのは、見舞いが目的だった。  数日前にかかって来た母親からの電話は、病での入院を告げるものだったという。どうしても親族の同意書が必要だと、縋られたのだという。それがないと手術ができないと泣いて乞われ、そんなことはないだろうということはわかっていても、もしこのまま死ぬのなら最後に顔を拝む機会かもしれないと、丹羽さんはふと思ったのだという。  人の命はころっと消えてしまう。さっきの、丹羽さんの台詞が頭をよぎる。 「嫌な再会だったよ。まあ、こうしたああしたと、細かく言うつもりはないけどね。随分と、病院の方にも迷惑をかけたかもしれない。あの人の恋人だという人も、居たけれど、アタシを見て目を点にしていたよ。……アタシだってね、顔を見た瞬間、金ならないよと言う息子なんざ嫌だ。でも、そんな息子にしたあの人が、アタシはもっと嫌だ」  丹羽さんの、根源は母親なんだろうか。  丹羽さんが一人でこんなところで、孤独と向かい合って生活しているのは、その人が原因なんだろうか。  左足を引きずるのは、うまく歩けないのは、その人が関係しているんだろうか。  訊きたいことは喉まで出かかって、それでもうまく言葉にならなくて結局飲んだ。ただ、お疲れ様したと小さく呟いた。 「うん、久しぶりに、疲れたよ。どこもかしこも、人間ばかりでげんなりした。アタシは本当に人間が苦手なんだね。寂しい湖畔で一人、ぼんやりと生きるのが丁度いい。それなら誰にも迷惑はかけやしない。……ああ、アタシは怖いんだね。あの恐ろしく憎い女の血が、アタシに流れているのがとても怖い。だからね、アタシは一生ひとりで、静かに、暮らしていけたらそれでいいんだよ」  だから、と丹羽さんは続ける。 「だから、アタシに惚れてもだめだよ」 「……………………やですよ。諦めませんし」  初めて、言葉でかわされて、思わず言葉に詰まって、泣きそうになったけど堪えた。  ただ、顔は上げられない。今、丹羽さんがどんな顔をしていても俺は泣くと思った。  思ったから、顔をあげずに我慢したのに、丹羽さんが苦笑した気配がして、それがどうにも優しくて、ぼろりと涙が零れて慌てて両手で隠した。  涙のついでに我慢した筈の本音が漏れる。俺は子供だ。二十三歳の、馬鹿な子供だ。 「なにそれずっるい……そんな話聞いたら我儘言う勇気ないっすよー……でもすきなひといないならおれでいいじゃん~~~……」 「我儘言ってるじゃないか。そういう問題じゃないなんてこと、知っているだろうに。おまえさんは、見た目よりも頭がいいし、きちんと感情を読む人間だって、アタシは知っているよ」 「…………ずっるい。丹羽さんずっるいよ」  酷い、とは言えなかった。正直ひでえと思ったけど、でも、勝手に好きになってるのは俺の方だし、丹羽さんに迷惑だと言われなかっただけマシだとう。  無理だよ、とは言われたけど、やめろとは言われなかった。諦めろとは言われなかった。  疲れた顔の丹羽さんと、泣き顔の俺が向かい合ってる図は、ちょっと、カオスだ。結構な修羅場に見えるかもしれない。  でもここには眠ってる猫と、静かな犬しか居ない。誰も見て居ない。静かな、魔女の家だ。 「いいっす別に勝手に諦めないんで……丹羽さんが、いつか、おまえがいてくれないと嫌だよって言うような、男になります……」 「そもそもアタシは男だけれど、それは分かっているのかい」 「わかってますよ、この前そこで着替えてたじゃん死ぬほどどきどきしたんすからねばーかばーか」 「……おや重症だ。こんな貧相な男の身体に興奮するだなんて、おまえさんは物好きだねぇ」  やっとふわりと、いつもの声で笑ってくれて、俺の耳もちょっとは役に立ったのかなと思うけど、なんか最終的に流れで振られた身としては良かったのか悪かったのかわからない。  丹羽さんの吐きだした言葉は、二十三歳の俺には重すぎて、なんかうまい事消化できなかった。それでも聞いた事にも話してもらった事にもきっと、意味はあった筈だ。  言葉にすることは、大事だと言う事を、俺だってこの三年で学んでいる。更に歳を重ねれば、もう少し、うまい事消化できるようになるかもしれない。  歳を取る事は柔らかくなる事。丹羽さんはそう言っていたけれど。 「俺も、柔らかくなりますかね……?」  少し温くなった烏龍茶を飲みほし、暖かな毛並みの猫を撫でていると、新しいお茶を淹れてくれた丹羽さんがさらりと髪を揺らして首を傾げた。 「どうだろうねぇ。それ以上柔らかくなられたら、アタシは何処を掴んだらいいのか、わからなくなりそうだよ」  なんだそれは褒められているのかけなされているのかどっちだ。イマイチ判断つかなくて眉間にしわを寄せたら、丹羽さんが吹き出したからからかられていたのかもしれなかった。  三年目の冬の終わり際、丹羽さんの過去を知った。ついでに微妙に振られたけれど、我儘な子供は、諦めようなんて一切考えて居なかった。

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