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大凶

 耳元でアラームが鳴っている。  朦朧とした意識の中で瞼を開けた俺は、そこが自分の家のベッドの中だということを知った。結局あの後、ちゃんと帰ることができたのか。よく覚えてないけど、路上で寝ることにならなくて良かった。  アラームを止めて、眠気を振り切ってベッドを抜けなければいけないのは分かっている。だけど、どうしても起き上がれない。 「う……」  体が重い。朝が弱いのはいつものことなのに、どうして……手足が言うことを聞いてくれない。頭の奥がズキズキと痛む。脳天に釘を刺されたみたいだ。 「起きなきゃ……」  意思とは裏腹に、力が全く入らない。異常な事態に焦らなきゃいけないのに、その気力すらも沸き上がってこないのはどうしてなのか。頭の中で葛藤を続けているうちに、何か巨大な力に引き寄せられるようにして再び意識が遠のいてゆくのを感じた。  まるで泥水の中で喘ぎ泳いでいる気分だ。息苦しいのに、どこか心地好い。  次第にふわふわと体が浮かんでいくような錯覚に陥った。雲の上まで体が浮上し、それが次の瞬間、猛烈な勢いで急降下してゆく。耳元で高度計がうるさく警戒音を放っている。  ――――。  スッと落ちるような感覚があって、俺は目を覚ました。 「あ……」  耳元で鳴り響いていた電子音は、着信を受けたスマホが放つ音だった。慌てて時計を確認すると、時刻は既に昼過ぎになっていた。  着信――きっと事務所からだ。俺が無断欠席したから……どうしよう。  雀夜や松岡さんと顔を合わせるのが気まずい。出ようか迷っているうちに着信音が途絶え、部屋の中が静寂に包まれた。画面を見ると、不在着信が十件以上きている。登録されていない番号――やっぱり事務所からだろう。 「やばいな……。ちゃんと連絡しないと」  ほんの一瞬、このままフェードアウトしてしまおうかなんて考えも浮かんだけれど、すぐに打ち消した。それは許されることじゃない。何より、雀夜に一生会えなくなってしまう……。  俺は心の中で覚悟を決め、一つ深呼吸してから着信履歴の番号を選択し、ボタンを押した。 「………」  三コールもしないうちに、相手が出た。 〈もしもし……〉  松岡さんの声じゃない。低くてしわがれた男の声だ。 「あ、ええと。桃陽ですけど……ごめんなさい、仕事……」 〈は? 何言ってんだお前〉 「えっ?」  間違えた? 事務所からじゃ、なかった? 「……あの、どちらさんですか。番号登録してなくて、ちょっと分かんないんですけど」  多少警戒しながら問いかけると、端末の向こう側でヒヒヒ、と男の笑い声がした。  耳障りで、汚らわしくて、大嫌いな笑い声――その声の主の顔が脳裏に浮かんだ瞬間、俺は慌てて片手で口を塞いだ。胃液が逆流してくる。脳が沸騰しそうになる。腕にも背中にもびっしりと鳥肌が立ち、目に涙まで浮かんできた。 〈冷てぇなぁ、玲司は。父親の声を忘れちまったのかよ〉  奥田正一。俺の、「新しい父親」だった男――。 「……お、お父さん、じゃないです、その……あなたは、母さんと離婚した、訳だし」  どもりながらも拒絶を込めて言うと、一気に過去の記憶が蘇ってきた。殴られるのが怖くて、「新しい父親」の言うことを何でもしていた少年時代。臆病で内気で病的だった、あの頃の「玲司」の記憶が――。 〈それでもお前の面倒は見てやってただろ。色々とな〉 「な、なんの用ですか。どうして今更……。あ、俺の番号、どうして……」  俺はベッドの中に潜り込み、震えて仕方ない体を少しでも温めようとした。あまりの恐怖と動揺で、歯の根が合わなくなる。その音を聞いて、奥田正一が更に笑う――。 〈久々に玲司に会いたくなってよう、お前の母ちゃんに携帯の番号聞いたのさ。ちょっと嘘泣きして『今まで悪かった、玲司にも直接謝りたい』なんて言ったらすぐに教えてくれたぜ? 相変わらず甘いな、お前の母ちゃんは〉  何も言えないでいると、奥田が続けた。 〈インターネットで見たぜ、玲司。お前、今あんな仕事してんのか……。桃陽、って良い名前じゃねえか〉 「あ……」 〈それでお前のことを思い出したって訳だ。昔は俺にもよくしてくれたよなぁ……?〉 「……、う……」  怖くて体の震えが止まらない。なのに、身体中からどっと汗が噴き出てくる。  電話を切れ。そして二度と出なければ大丈夫。家の場所までは母さんも言ってないだろうし、これからも絶対に教えないようにしてもらえれば、この男が俺と連絡を取るのは不可能になる。だから一刻も早く、切れ。――切れってば! 〈玲司?〉 「………」 〈お前の母ちゃん、また再婚したんだな。しかも相手の男の子どもが三人も付いてきた。一気に大家族だな……。上の娘は今、女子高生だってなぁ……?〉  俺は唇を噛みしめて、片手で涙を拭った。 〈下の子は中三と中一だ。写真見せてもらったけど、三人ともお前みたいに可愛い顔してんなぁ……。どう思うよ、お兄ちゃんとしては〉 「……な、何が言いたいんですか。あんたまさか……」 〈お兄ちゃんが可愛い妹達を守りたいって言うなら、守らせてやってもいいんだけどな〉 「………」  義理の妹達の顔が頭に浮かんだ。一緒に暮らしていた頃、俺によく懐いてくれていた、明るくて元気な三姉妹。恋愛相談に乗ったり一緒に買い物に出かけたり、母さんの誕生日には美味しいケーキを作ってくれた、優しい妹達――。  彼女達が、こんな男に。  想像しただけで嘔吐しそうになり、俺はベッドの中でうずくまった。

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