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1-槙野透の「非」日常(1)

俺の朝は遅い。 ああ、別に遅刻癖があるわけじゃない。 会社として、出社時間を個人で調整することを許しているからだ。 よって、俺は電車が空いてから出社することにしている。 朝食は食べない。食べるとどうも胃がもたれる。 身支度をして、適当に髪を整えたら準備完了だ。 愛猫の鈴に挨拶をして、ドアに鍵をかける。 なぜかいつも曲がっている表札をなおして、出かけた。 表札に書いた名は「槙野(まきの)透」。 ◇ ◇ ◇ 職場につくと、半分くらいの人間が働いている。 ほとんどがやる気に満ちた若手か、管理職だ。 といって俺にやる気がないわけじゃない。俺は俺なりに職務を全うしているつもりだ。 「おはよう」 周囲に軽く挨拶をして席につく。 「おはようございます」 斜め前の早野がPCの画面を見つめたままぼそっと応える。 ボサボサの頭部は微動だにせず、手だけが猛スピードでタイピングしている。 いつもの光景だ。 「あの、槙野さん……今お時間少しよろしいでしょうか」 やけに畏まった部下が横に立った。 「なんだ」 「資料のレビューをお願いしたく、スケジュールさせていただいたので、ご確認お願いします!」 「ああ」 俺が応えるか応えないかぐらいのタイミングで、部下は逃げるように去っていった。 俺は部下から怖がられる傾向がある。 おそらく無愛想だからだろう。 かといって、どう直していいかわからないし、今のところ問題は生じていないと認識しているので、直す気もないが。 PCを立ち上げ、スケジュールを確認する。 今日もうんざりするほど打ち合わせで一杯だ。 どうしてみんな打ち合わせたがるのか。 俺としては、決まったことだけ知らせてくれればいいような打ち合わせばかりなのだが。 断るわけにいかないので参加するが……。 「槙野くん」 ふと背後から声がかかった。 部長だ。 「はい」 立ち上がって部長席に行くと、苦虫を噛み潰したような顔をしている。 元が元だけにひどい顔だ。 「君のところの開発リーダーの西嶋くんがな、病気で入院だそうだ」 「は」 「しばらく出社できないとさっき連絡があった」 「そうですか」 なんだ?俺のせいだとでも言わんばかりの顔で見上げてくる。 濡れ衣だろう。 「代わりを急ぎで他部署から連れてくる手はずになってる。西嶋くんがいなくても、引き継ぎはできるか?」 「進捗は把握してるので問題ありません」 「ならいい。今日の夕方には代わりが決まると思うからそれまでよろしく頼む」 「はい」 もう次は潰すなよ、そうでも言いたげな顔で部長の話は終わった。 だから濡れ衣だってのに。 ◇ ◇ ◇ 代わりの男は夕方をすぎ、定時ぎりぎりに嵐のようにやってきた。 「やー、すんません、挨拶回りしてたら遅くなっちゃって!」 ノートPCと小さめの段ボールを抱えた彼は、俺の横にやって来ると、すちゃっと敬礼した。 「神崎零、ただいま参上つかまつりました。誠心誠意やらせていただきますのでどうかよろしくお願いいたします!」 なんだ、こいつ? 黄色味がかった明るい茶の髪の毛先を遊ばせた、卵形の小さな顔。 くりっとした大きな目と左目もとの涙ぼくろが印象的だ。 若いセンスのスーツと髪色に似合う明るく端正な顔立ちで印象はいいが、軽い。 言動が軽い。あとちょっと見た目もチャラい。 「えーと、プロマネの槇野さん、ですよね」 「ああ、よろしく」 神崎は無理やり俺の手をとると握手をした。 「今回は急な話ですが、俺なりに頑張るつもりです!よろしくお願いします」 「あ、うん」 この男、なんだかペースを乱される。 「あー、ええと、メンバーに紹介しようか。……みんな、今日から西嶋くんの代わりに開発リーダーになる神崎くんだ。よろしく頼む」 「よろしくです!」 神崎は大仰に頭を下げる。 「席は……好きなところを使ってくれ」 「じゃあここいいですか!」 俺の斜め左前、早野の向かいに早速ノートPCを置いた。 ずっと空だった席だ。俺のすぐ前なんで、気まずくて誰も座らないのだろう。 早野は周りを気にしないので俺の前でも座っているが。 この神崎も、気にしないのか、それともまだ俺に対して悪印象を持っていないのか。 良く分からないが、開発リーダーが近くに座ってくれると仕事がやりやすくて良い。 そうか、歓迎会、やらないとな……。 俺は新人の高橋のところに行くと声をかけた。 「高橋くん、歓迎会の幹事、頼まれてくれるか」 「は、はい」 怯えたように固くなって高橋が頭を下げる。 誰も取って食いやしないっての。 「あー!俺、行きたい店あるの!希望言っても良い?」 聞きつけた神崎が離れた席から声を上げた。 そのままとことこと気軽にやってくる。 「ちょっとPC貸してね。……ここ!美味そうでしょ!安いし!」 神崎は俺を振り返ると、にっと笑った。 本当、なんなんだ、こいつ? ◇ ◇ ◇ 「神崎くん」 「はいっ」 返事はやたらといい。 席に戻った俺は、神崎に声をかけた。 「早速だが、状況の引継ぎをやっておきたい。時間は大丈夫か?」 「OKです!」 「では、打ち合わせスペースまでPC持って来てもらえるか」 「あ、すんません。まだ無線LANがうまく拾えないのでPC使えないです」 「なら、俺ので説明する。資料のありかは後でメールしておくから」 簡単に現況が分かる資料を取りまとめると、俺は神崎をつれて打ち合わせスペースへ向かった。 打ち合わせスペースと言っても、立ち会議用の脚の高いテーブルが置いてあるだけの場所だ。 俺はそこにノートPCを置くと、神崎にも見えるよう体をずらした。 「うちのプロジェクトでは管理システムを構築していて――」 プロジェクトの概要から、簡単な業務知識、メンバー構成、スケジュール、進捗等々……最低限必要と思われる情報を提供した。 神崎は、突然リーダーに抜擢されるだけあって仕事はできるようだ。時折挟んでくる質問が的を射ている。 呑み込みも早い。 ただ、一つのPCを共有しているのだから仕方ないとも言えるが、距離が近くないか? 腕が触れるくらいの位置に身を寄せてきていて、うかつに神崎の方を見ることもできない。 香水か?時折ほのかに甘すぎない爽やかな香りがする。 「新人さん達がいるんですよね?スキルはどんなもんですか?」 神崎がテーブルに手をついて、俺の顔を下から覗き込むようにして聞いてくる。 「ああ、まだサポートは必要だな。前任は時折進捗確認をしていたようだが」 「なるほど、了解です」 目を細めて、にっと笑う。 人懐こいような、それでいて心の底まで見通しているような笑顔だ。 しかし、不快感はなく、むしろ親しみやすい。 「予定との解離は?」 「-2%だな」 「今日の遅延も含めてですか?」 「先週までだ。今日はまだ出してないがたいして変わらないだろう」 「槙野さん彼女か彼氏は?」 「いないが」 「今回の顧客は仕様に後で変更入れてきそうですか?」 「可能性は高い。リスクは見込んである」 ん? なんか今思いきりプライベートに踏み込まれた気がするが、気のせいか? 「俺の方はだいたい把握しました」 例の笑顔で引き継ぎは終了した。 ◇ ◇ ◇ 席に戻ると、神崎が持ってきた段ボール箱をガサガサと漁りだした。 「槙野さん」 「なんだ」 「饅頭好きですか?」 なんだ、唐突に。この男は。 俺は少々呆気にとられながら、 「いや、餡は苦手なんだ」 と答えた。 「じゃあカヌレ」 「ちょっと重いな」 「うーん、レーズンサンド」 「クリームが重い」 「シンプルにクッキーなんてどうですか」 「物による」 「バターたっぷりと、ジャムのってるのと、ビスケットがあります」 「ビスケットなら食えるかな」 ようやく神崎はほっと笑顔を浮かべて、ビスケットを差し出してきた。 「これからよろしくお願いします」 そんな気を使わなくていいのに。 「あ、ああ。ありがとう。よろしく」 あの段ボールの中身は菓子か? ずいぶん色々入ってそうだったが。 神崎は菓子を抱えて、プロジェクトメンバーに一人ずつ挨拶を始めた。 案外マメな奴なんだな。 菓子を配ってまわっている神崎を横目に、その日は会社を出た。

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