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1.アーロン

 館の正面に立つ者の頭には枝分かれした角が生えていた。水妖を思わせるドレスを着た女性が三人、笑いさざめきながらその横をするりと抜けていく。石段を登りながらアーロンは右手の招待状を高く掲げた。背に負った長剣の影が段の上におちる。 「テッド」  声を聞いたとたん鹿の角が揺れ、淡い黄色の毛皮のあいだで、木の実のような艶をもつ眸がぱちりとまばたいた。 「アーロンか! 一瞬、本物の神話の英雄がいるかと思ったよ。似合うなあ」 「やめてくれ」アーロンは反射的に首を振った。 「頼まれたからこの服装にしたが、なんとも……」 「いや、今年の卒業生でそのスタイルができるのはきみだけだ。間違いない。それに今日は最後の『無礼講』だぜ。いつものアーロンも悪くないが、今夜ばかりは忘れろ」  自分の頭より数倍は大きい鹿の角をつけたまま、テッドは軽く腰をかがめ、館の奥を指し示した。実際に彼の頭にのる『角』の大きさは見た目の半分以下なのだろう、とアーロンは推測した。獣を思わせる皮膚もこの角も作り物の扮装だが、その後〈法〉による演出をほどこしている。一見、本物の森の精霊があらわれたかのように。  暗い廊下の先できらめく明かりが揺れた。誘惑するような楽曲の響きが石の床を伝わってくる。音楽が途切れた一瞬をとらえて、テッドは芝居がかった口調で告げた。 「ようこそ、狩りの夜、かりそめの舞踏会へ。竜の英雄殿」  広間は文字通り神々と妖精、人外の者たちの饗宴の場と化していた。受付にいたテッドと同様に、集まった者はみな、いにしえの伝説や物語の登場人物の装いを工夫しているからだ。扮装を〈法〉で彩ることが許されているのは、アーロンの同輩、つまり今夜の主賓である士官学校の今期卒業生とOBだけだが、手のこんだ衣装なら在校生も負けてはいない。  ほとんどの卒業生は現在、名目は準軍属として、正式な配備を待機している状態だ。アーロンをはじめとした一部は秋から軍大学へ進学するが、他の者たちは下士官としていずれかの部隊へ配属される。帝国軍人はあらゆる人にとって模範となる規律や倫理を保持しなければならず、士官候補生も例外とはみなされない。  しかし規律と序列でがんじがらめになった帝国士官養成課程において、唯一今夜の集いだけは、多少はめをはずしても学校は黙認するというのが長年の伝統となっていた。その結果が豪奢な館をまるごと借り切っての舞踏会で、日没から日の出まで続くのである。 「竜の剣士殿!」  テッドと同じように芝居がかった口調が飛んでくる。ふりむくと星屑のようにきらめくターバンを巻き、怪しげなベールで顔を隠した者が立っている。顔の覆いが取り除かれると、あらわれたのは在校生のカリクだった。アーロンより一学年下の統率役だ。 「凝った衣装だな」とアーロンはいった。 「館も大変な飾りつけじゃないか。準備にどのくらいかかった?」 「招かれた側が野暮なことを聞かないでください」  カリクは澄まし顔で答えた。 「全員待っていますよ。先輩とはめをはずせる一回きりの機会だってことで」 「何をいってる」アーロンは苦笑する。「俺も去年はそっち側だったのに」 「こっち側もそっち側もありませんよ。何しろ今宵は『かりそめの舞踏会』ですから」  アーロンは足元に垂れるマントの裾をちらりと見やる。去年の方がよほど気楽だったかもしれない。この集まりは伝統的に、在校生卒業生OB問わず、館に入る者に仮装を強いるが、アーロンの性格は扮装だの演技だのにそぐわないのだ。  館の手配や招待といった企画は在校生が行うので、昨年はアーロンも運営側で参加し、卒業生をもてなそうと必死だった。軍属の父に借りた服を着て、一応仮装めいたことはやったが、エシュは着替えたアーロンを見て、ふだんの制服姿とあまり変わらないぞと笑ったのだった。  そうだ。エシュはここにいるのだろうか。  アーロンはたずねようと口を開きかけてためらった。カリクをはじめ、学生会に所属する者――士官学校の中でもエリートとみなされている者――たちは、学内の異端児だったエシュをよく思っていない。最終試験前に発覚したスキャンダルのあとはなおさらだ。しかし彼に招待状を出さなかったはずはない。アーロンとエシュが親しいのはみな知っている。  アーロンがルー将軍の随行員として地方視察に同行したのは卒業式のあとすぐのことだ。親友のエシュはルー将軍の養子で、おなじ随行員の扱いで視察の旅をともにした。士官学校を出たばかりのアーロンにとって、旅は新鮮で刺激的で、さらにひとつの強烈な自覚をもたらすものだった。帝都に戻って半月はたつのに、アーロンはまだ旅のこと――旅のあいだに気づいたことに動揺していた。それはなにかというと、次の数語に尽きる。  俺はエシュが好きだ。ただの友情を越えて。  ところが旅から戻ったあと、アーロンはエシュに一度も会えていないのだった。電撃のような気づきの直後、アーロンはエシュに告白めいた言葉を口走ったのだが、エシュの返事は曖昧だったし、旅のそのあとはふたりきりでじっくり話をする余裕がほとんどなかった。わずかな機会もアーロンが口にする言葉を選びすぎ、考えすぎたおかげで無駄にして、結局何も話せていないままである。  一方でエシュが何を考えているのか、アーロンにはわからなかった。たずねるのが怖いような気もしていた。彼はアーロンを友人以上の存在としては求めておらず、このままうやむやにしたいのかもしれなかった。旅の途中、あの雨の中でエシュが発した言葉はまさにその意思の表明だったのか。いや――しかし……  帝都に戻ったあと会えなかったのは不可抗力でもある。軍大学への進学は目前で、アーロン自身も慌ただしい時期なのだ。ともに進学するエシュだって同じだろう。しかし直接会わなくても、ちょっと様子をたずねるとか、適当な連絡を送ればいいようなものだ。エシュとは数年のつきあいで、本来遠慮などする間柄ではない。  そう思って何度か通信装置に手をかけたのに、アーロンの指は動かなかった。学年主席だの総代だのという士官学校で手に入れた成果も、今回は何の役にも立っていない。 「その衣装、素晴らしいです」  ごった返す広間を並んで歩きながらカリクがいう。誰かの〈法〉の演出だろう、空気中にただようきらめく塵の雲がアーロンの前でぱっと弾けた。飛び散ったひとつひとつの光の粒は星のようにゆっくりと回転をはじめる。 「俺じゃない、タイレンとハクビが作ってくれたんだ。俺としては辞退したかったんだが」 「辞退なんてとんでもない。半年がかりで企画を練っていたんですよ」 「それは聞いた。だから着た」  隣の部屋にはビュッフェが用意されているらしく、食物の匂いが漂ってくるし、片手に皿、片手にグラスを持った者――人間の恰好とはかぎらない――も見える。アーロンをみると人々は自然に道をあけたが、一方で指さしながらの囁きや視線もまとわりついてくる。  もっともアーロンにとって、囁きや視線はどうということもなかった。いつのまにか人を率いる立場におかれ、周囲の視線をあびるのは予備学校のころからよくあることだし、そんな自分に浴びせられる視線を重圧と感じたことは一度もない。 「背中の剣は?」とカリクがいう。広間の中央あたりへたどりついたときだった。 「俺の杖さ」とアーロンは答える。「〈法〉でみせかけた張りぼてだ」 「抜いてみてくださいよ」 「カリク」 「先輩とこうして歩けるなんて光栄ですが、俺だけが独占するとそれこそ誰かの杖で刺されそうなので」  カリクは人の悪い笑顔をつくる。 「演武を頼んだということにしたいんです」  アーロンは足をとめ、肩をすくめた。 「やれやれ、仕込んでるだろう」 「総代に出し物を頼むのも、伝統ですから。危険もありませんし」 「たしかにそうだが――」  仕込みなら事前に打ち合わせくらいしてもいいものを、と内心で舌打ちしつつ、アーロンは周囲を見回した。何かの合図でもあったかのようにさっと人が下がり、自分のまわりを残して広間の明かりが落ちていく。しかたない。  アーロンは腕をふり、腰を低くした。背に負った大剣に手をかけるが、実際に指に触れるのは馴染んだ杖の感触である。薄く眼を閉じ、杖に格納された〈地図〉を呼び出す。カリクは「演武」といった。この格好で期待されているのは、当然――  アーロンの足元に法陣が浮かび上がる。仮想の竜の鼻面がアーロンのすぐ前にそそりたつ。『竜の英雄』の戦いを知らぬ者は帝国にはいないし、士官学校に在籍した者は、最初にこの伝説の精髄(エッセンス)、つまり〈地図〉の複製を与えられる。  アーロンは大剣を抜き、腰を低くしながら振った。わっと周囲で歓声があがる。竜を打ち倒し、世界から悪と無秩序を排除するのは、この世界に〈地図と法〉が与えられて以来の帝国軍人の任務だ。短い演武でアーロンはその精髄を披露する。 〈地図と法〉以前のこの世界は、人間の無自覚、無思慮で身勝手な行いによって荒廃し、もうすこしで破滅するところだった。無益な戦争、生物環境の破壊、資源の乱獲……だがあるとき神がその身をこの世界にあらわした。神からじきじきに〈地図と法〉を授けられたとき、ようやく人類は目覚めたのだ。  今夜のアーロンの扮装は、神の助力をもって悪と無秩序の象徴である竜クルールを打倒した英雄。神から直接支配の〈法〉と〈地図〉を作る能力を授けられた伝説の男、ルゴスである。  もっともアーロンがいま振っているルゴスの大剣は、ありふれた〈法〉道具だ。アーロンの杖に一時的な幻影(イリュージョン)をかぶせているだけのしろものだった。しかし衣装は在校生が用意したもので、一夜かぎりの仮装としては贅沢すぎた。  いくら自分が総代だからといっても、アーロンには行き過ぎに思えたが、用意したタイレンとハクビ、それにセランの三人はアーロンの生真面目な性格も飲みこんでいて、この準備は学業に何の影響も及ぼさないし、自分たちの努力の成果として受け取ってほしい、等々と説得したのだった。  アーロンは剣をふりおろし、竜の幻影が崩れ去る。右手に剣、左手にこの世に生まれた最初の地図を掲げたとたん、爆発的な拍手がわきおこった。 『ありがとうございました。今年の卒業生総代による演武でした。アーロン殿へもう一度拍手を! それでは――』  カリクはいつのまにか上方の席にいて、館全体にアナウンスを発している。 『はじめましょうか、帝国の紳士淑女の皆さま――今宵の無礼講を!』  とたんに音楽とダンスがはじまった。  アーロンは大剣の幻影を解き、杖を衣装の内側にしまった。たちまち自分を取り囲む人の渦に囲まれ、中央の踊りの輪に流されてしまう。次から次にダンスを申し込む者はひとりのこらず仮装で着飾っているから、顔を知っているはずの在校生や同輩でもすぐには気づかないこともある。  ダンスの申し込みの列はなかなか終わらない。士官学校や騎乗竜の制御で培った体力がこういうときに役に立つのも奇妙なことだ。しかしこれも義務のひとつだとアーロンは自分を納得させた。軍人である父ヴォルフもアーロンに似て生真面目な性格だが、社交が面倒だなどという素振りをみせたことはない。それに父がアーロンの母に出会ったきっかけも、軍大学へ進学する直前に開かれた仮装舞踏会だという。  それにしてもこれで何人目だろう。楽曲はすでに何度も変わっている。アーロンは踊りの相手にろくに注意を払えなくなってきた。歴代の著名人や伝説の生き物に扮した人々は、結局のところ仮の姿にすぎない。本質が見えない以上はどれも同じだし、舞踏会の眼目は「この場だけは本質を見るな」ということでもある。帝国軍人の任務はさまざまだが、中心をなすのは精髄(エッセンス)を凝縮した〈地図〉と何らかの形で向き合うことに他ならない。  しかしさすがのアーロンも、今夜だけはそんな真面目さを捨てるべきなのか。  その時ふと、アーロンの横をかすめるように通り抜けた人物に視線が吸い寄せられた。襟の詰まった長い薄物、肩の下からのびあがり、頭の上方で垂れる優美な翼。伝説の竜人――人化できる竜――の仮装だ。この世界へ〈法〉がもたらされたあと、英雄ルゴスが殺した七匹の竜の一匹。  いったい誰だろう。一度会った人間を忘れないアーロンは、学内の人物の顔ならほぼすべて把握している。男とも女ともつかない中性的な風貌に見覚えはなかった。翼のために背が高くみえたが、実際はそうでもない。  まだ順番を待っている者がいるにもかかわらず、アーロンは「失礼」とその場を抜け出した。竜人の翼が誘うようにはためく。気づくとアーロンはその男――女だろうか?――の前に回りこみ、みずから踊りを申し込んでいた。相手は無言のまま微笑み、アーロンの差し伸べた手をとった。  音楽が途切れ、またはじまった。  ついに自分もこの舞踏会の奇妙な力に感染してしまったのだろうか。  相手の肩を抱いて踊りながら、アーロンは不思議な夢見心地に襲われていた。踊っている相手は扮装に加え〈法〉で演出をしているにちがいない。在校生ではなく同輩ならいったい誰だろう。胸が触れそうなくらい近くにいるのに、誰なのかわからないとは。  父が母に出会ったときも、もしかしたらこんな風だったのか――ふとそんな考えがアーロンの脳裏にうかぶ。楽曲はあっという間に終わってしまった。相手は優雅にステップを踏んだが、踊っているあいだもずっと無言だった。アーロンは竜人特有の三重まぶたに囲まれた眸をみつめ、ついでそらした。もう一曲申し込んでもかまわないだろうか。そう思ったときだ。 「先輩!」 「セラン」 「ありがとうございます。僕らの――僕の願いを叶えてくれて」  学生会所属のセランは見知らぬ踊りの相手とアーロンのあいだに割りこむように声を投げ、アーロンの姿勢を変えさせた。アーロンの衣装を用意した在校生のひとり、それもいいだしっぺだ。セランの扮装は竜の英雄ルゴスの側仕え、ヴァーユの身なりだった。薄物の短いチュニックからはすらりと長い足が伸びる。髪も薄物もサンダルも極彩色の鳥の羽根で飾られている。  伝説でも美少年として名高いヴァーユだが、セランの容貌もまさにその通りだ。それていた人々の視線がふたたび集まるのをアーロンは感じる。誰かがひゅうっと口笛を吹いた。 「ルゴスとヴァーユ、ぴったりだな」 「これは残しておかないと……」 「先輩、一緒に(イメージ)を残してほしいんです。あの――剣もぜひ」  セランと交代するように竜人がそっと離れていく。アーロンは落胆しながらも、今夜はまだ長いと自分にいいきかせた。かならずあとでみつけてみせる。昨年は夜明けまで続くこの会の長さにうんざりしたものだが、今はむしろありがたかった。  在校生と共に記念の像を撮るのは、これまた卒業生の義務のようなものだ。セランに頼まれるまま杖を振ってアーロンは大剣を出現させる。こんなに無造作に〈法〉が使える学生などめったにおらず、人々はどよめいた。またも衆目のなかで剣を背負い、セランに頼まれるまま、ルゴスの有名な立ち姿を再現する。 「撮るぞ!」  イメージ機械を構えているのはハクビだ。レンズから一度視線をそらしたとき、セランの腕がアーロンの首に回された。次の瞬間、柔らかな唇が重なってくる。  歓声と盛大な拍手がアーロンの耳を打った。セランの腕はしっかりアーロンの首から背中に絡みついている。ルゴスとヴァーユの恋の伝説もまた皆の知るところだし、こうして注目されている前でセランをふりほどくのも可哀想だと、アーロンはあきらめて口づけを続けた。こんなおふざけもまた『かりそめの舞踏会』の名物なのだから。もっとも自分としては――  やっと顔をあげたとき、さっきまで踊っていた竜人の姿は視界のどこにもみえなかった。

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