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Eating kiss

 一路と暮らし始めの頃は家事の殆どを一路がやっていた。一路は、綺麗好きで几帳面で何もかもキチンとしている。その暮らし方は何でも適当なAidanとは正反対だった。掃除なんて気が向いた時にしかしない。脱いだ服も適当に放っていた。出したものを仕舞うのもいい加減で、よく物をなくす。そんな家だったはずが、一路が来てからあっという間に室内が整頓されていった。それが、一路が自分の命を少しでも永らえるためのさり気ない工夫なのだとAidanが気付くのには、少し時間が掛かった。  同居し始めて少し経った頃、風呂上がりにAidanが床に放り投げていた濡れたバスタオルに足を取られ、一路がひどく転倒した事があった。途端に一路の貧弱な心臓が軽い発作を起こす。些細な事で、一路の体は急に傾くのだ。幸いすぐに薬を飲んだ事で症状は早く治まったが、転倒した時に体に負った痣はしばらく消えなかった。もし、部屋が以前のまま散らかっていたなら、Aidanの手でこれ程迅速に大事な薬のありかを見つけ出す事ができただろうか…。整えられた室内を見回しながら、Aidanは背筋が凍る思いを味わったのだ。  それ以来、Aidanは一路よりもマメに家事をこなすようになった。一路の体の状態を甘く見て、家事の手伝いもせず疲れさせていた事も発作の原因だったのだと、今は理解している。これまで周りにチヤホヤされながら生きてきた己を、Aidanが深く恥じた瞬間でもあった。今は、一路にあれこれと尽くす事に幸せを感じている。  仕事で疲れて帰宅してくる一路のために、自分の出勤前には必ず部屋の掃除をしていく。一路が寛ぎやすいように、余計な家具やインテリアは随分処分してかなりフラットな部屋になった。陳腐なステータスのために嗜む程度だった料理にはすっかりハマってしまっていて、日々身体に良さそうなレシピを検索しては毎日キッチンに立っている。家事の中では洗濯が好きだ、という一路へついつい新しい洗濯機を買ってしまった。  Aidanが先立って家事をするようになり、やることが無くなったと休日には暇を持て余すようになった一路が、傍らでのんびりと昼寝をする様子を眺めるのがAidanにとって至福の一時となった。  今も、Aidanのすぐ側で一路は眠っている。  病院から自宅に戻ってきて、今日で十日目だ。窓が結露している。 朝を迎えた。室温が低下していて毛布から出た顔が冷えている。すっかり明るくなった部屋の天井を眠気が薄れるまで見つめていた。布団の中はとても暖かい。また寝入ってしまいそうになる。投げ出していた腕を手繰り寄せるとその温もりは少し身じろいだ。 「一路……」  名を呼んでみる。まだ眠りから覚める気配もなく、穏やかな呼吸を繰り返している。無残に腫れ上がっていた顔は一日で落ち着いた。折れていた手も足も三日目には箇所が分からなくなった。全身に滲んでいた内出血の痕もかなり薄くなってきている。初日は完全に死人そのものだった身体の器官も、ゆっくりと再起動し、無くしていた体温を取りもどした。深刻な身体のダメージの修復に残されたエネルギーを費やす為、一路はずっと昏睡状態にあり、これまでの期間を眠って過ごしている。何度一路の呼吸の有無を確かめたか分からない。あの日、息を吹き返してから、何とか今日まで順調に回復しているようだ。カーテン越しに日が差し込む室内で、一路の黒髪が映える。以前は白髪混じりだったはずなのに、今は艶々とした黒色がとても美しい。病で窶れて老けて見えていたが、年相応に若々しくなった。まだ患っていた心臓がどうなったのかは分からない。障害が取り除かれたのか、それともまだ引きずっているのか…。  本来、ヴァンパイアは死ににくい体を持っている。然し、先天異常や遺伝子障害が無いわけではない。一路の心臓は生まれた時から脆弱だった。もしかしたら、これまで以上の苦しみを一路に与えてしまったのかも知れない…。Aidanはその事を怖れていた。果てのない病との戦いは、限りのあったこれまでとは比べものにはならない程の絶望だろう。解放への希望が無い辛さに一路を陥れる事が、Aidanは怖くて仕方が無かった。こんな事は何の前例もない。後先など考えず、衝動のままにAidanは一路に血を分けてしまったのだ。  一路が目覚め、もし望まぬ状況に陥ってしまっていたとしたら、きっと強く恨まれる事だろう…。どうやっても、償いきれない程の事を、してしまったのかも知れない。あれから日が経つに連れて、Aidanは身を焦がすような後悔や不安に苛まれていた。何の覚悟も決められぬまま、ただ一路の側にいる。愛しい、という気持ちだけでは何も解決出来ない。一路の何もかもを踏み躙っている、そんな陰鬱な考えが、日々重さを増してのしかかる。何も知らず眠り続ける一路に対して、罪悪感ばかりが募っていった。  世の中が煌めくようなクリスマスはもう三日が過ぎ、年末年始に向けてカウントダウンが始まっている。家の外の世界は忙しない日々を送っていることだろう。Aidanは仕事にも行かず、何日も一路を見守り続けている。目覚めの日を恐れ、然し待ちわびながら。  夕暮れが過ぎて雪が降ってきた。羽毛布団を引き裂いたような大粒の雪がヒラヒラと落ちてくる。リビングの窓からブラインド越しにAidanはそれを眺めていた。途方もなく緩やかな時間に置き去りにされた様な孤独感と、膨らみきった気鬱に押し出されて涙が溢れ出す。堪えられずに嗚咽が漏れて情けない。何かをごっそりと失くした事は間違いないのだろう。それが何なのか、まだ分からない。  ベッドルームに戻ると、毛布に包まれているはずの一路の姿が無い。あれだけのひどい損傷から回復したばかりで、それ程動ける筈がない。家の中を探すとやはりあっさりと発見する。一路は、脱衣所の洗面台の鏡の前で立ち尽くしていた。鏡の中の自分を凝視しているようだ。 「起きてから、ずっと…喉が渇いて痛い…」  ガラガラに掠れて、言葉が聞き取りにくい。 「水を飲んでも、ダメだ…」  それでも、耳慣れた一路の声だった。 「お前の仕業、だな…」 「ああ、そうだ……そう、だ……」 「何とか、しろ…」  一路の意図は分からない。渇きや飢えによる本能なのかも知れない。Aidanの胸倉を掴んだ一路は、感極まって声を震わせていたAidanの唇に突然噛み付いた。微かに感じる甘味を必死で手繰り寄せようと、一路は舌に滲んでくる赤を夢中で貪る。産まれたばかりのヴァンパイアへの給餌は、拙な過ぎて強い痛みが生じた。Aidanはそのまま受け入れた。再び自らの唇で味わう一路の唇の柔らかさが、磨り減った心に染み入った。しがみついてくる一路を抱き寄せると体は熱く燃えていて、間近に見える一路の瞳が赤く揺らめいている。その色はAidanもよく見知った色だった。 Eating kiss END

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