1 / 8

ピアスと罪

 隙間が怖かった。  たとえば、閉じ切っていないドアの隙間。カーテンの間。タンスや(ふすま)のぽかりと開く闇。  そこの向こうになにが潜んでいるのかがわからずに、ただ闇雲に恐怖を掻き立てられる。  だからユキは隙間ができぬよう、どこもぴっちりと閉じている。  陽の光を通さぬ遮光カーテンは、ここ数年開いたことはない。だから、昼夜の区別もスマホで時間を確認しない限りは、ほとんどつかないのだった。  ユキは一日の大半を、この部屋で過ごす。  というのも、この部屋にはすべてがあるからだ。  トイレ、ミニキッチン、ミニ冷蔵庫、シャワーブース。ユキが外へ出なくていいように、十一歳のときに父親が改装した。あれから六年。ユキは一度も家の外へ出ていない。  ガチャリ。玄関の鍵の開く音がした。  ユキはワンピースの裾を揺らしてベッドから立ち上がると、数日ぶりに部屋の外へと足を踏み出した。  裸足の指に、廊下のひやりとした感触。足音を立てぬ動きで、階段を下りる。  玄関では、兄の利樹(としき)が屈みこんでごついブーツを脱いでいた。  金色の髪に、耳にはたくさんのピアス。もう二十歳を超えたのに、定職にも就かず大学にも行っていない兄は、毎晩夜遅くまで出歩き、深夜にようやく帰ってくる。  ユキに会いたくないからだ。  それを知っているから、ユキはこうして定期的に、不意打ちめくように唐突に、利樹へと顔を見せるのだった。  ユキの存在を。  ユキが、この家に居るということを、利樹には思い知ってもらわなければならない。  利樹だけを、解放したりはしない。……絶対に。 「お兄ちゃん」  ユキは、兄へと呼び掛けた。  喉から漏れるのは、ほんの少し掠れた、甘ったるい高い声だ。  ぞわり、と利樹が背を震わせるのがわかった。  恐る恐る、というように、利樹が屈んだままの姿勢でこちらを見上げてきた。 「…………起きてたのか……」  怖れを孕んだ眼差しが、ユキを捉える。そして、その目が驚愕に見開かれるのを、愉快な思いでユキは眺めた。 「そ、その髪っ。お、おまえ、外に出たのかっ?」  ユキの期待した通り、利樹は狼狽した口調でそう言った。  兄と最後に顔を合わせたのはいつだったろうか。三週間前? ひと月前?  そのときには肩を超す長さだったユキの髪が、ショートカットになっているので、外で切ったと思ったのだろう。  よく見れば毛先はざんばらで、プロの仕事ではないと、すぐにわかりそうなものなのに。  くすくすと可笑しさに笑みを零しながら、ユキはスカートを太ももに巻き付けて、しゃがみ込んだ。  ユキが座っても、一段低くなっている玄関で屈んでいる利樹よりは、目線が高い。  膝に肘を置いて頬杖をついたユキは、兄を見下ろして「あのね」と声をかけた。 「あのね、お兄ちゃん」  利樹が全身を強張らせる。  もう、なにを言われるのかわかっている顔だ。 「ユキ、新しいが欲しいんだけど」  ユキの言葉に、利樹の眉間にしわが寄せられた。 「……こないだ、連れてきたばっかりだろ」  低く掠れた声で、兄が吐き捨てる。 「でも、飽きちゃったんだもん。新しいの、欲しいな」 「……無理だ」  利樹が首を横に振った。ぎくしゃくとした、硬い動きだった。  なんだかロボットのようだな、と思うと可笑しくて、ユキはまた、ふふっと笑ってしまう。 「でも、お兄ちゃんは、ユキのお願い、聞いてくれるよね?」  ユキは確信的にそう告げた。  苦渋に歪んだ利樹の唇が、なにかを言いたげに動いた。しかし、声にはならない。  了承を得た、と判断し、ユキは立ち上がった。ワンピースの裾が、ふわりと揺れる。そのやわらかな布の動きを目で追って。 「勇樹(ゆうき)……」  利樹がユキの名を呼んだ。  ユキは不快なその音に眉を顰め、 「ユキって呼んで」  と、甘い声で不機嫌に吐き捨てた。  勇樹なんて存在は、十一歳のときに死んだ。  殺したのは、父と……。  利樹だ。  ユキは項垂れた兄の、耳に嵌められたピアスを、見るともなく眺めた。  もうこれ以上は開けられないだろう、というぐらい、彼の耳には穴が開いている。  彼が最初にピアスを開け出したのはいつだっただろうか。  父が死んだときか。……もっと前からか。  記憶を辿ろうとしたけれど、思い出せる宛もなく、ユキは思考することをやめた。 「じゃあ、お兄ちゃん、よろしくね」  ユキは兄にそう声をかけ、階段を上り自室へと帰った。  勇樹、と背中に投げられた声は聞こえなかったふりをする。  ユキの顔を見る度に、利樹はユキの存在を、思い知らされることだろう。  己の罪とともに……。

ともだちにシェアしよう!