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暗転

「素敵な娘さんだったわね。貧しい家の生まれだと聞いていたけれど、きちんと教育もされているわ」 「彼女の育ての親が、とてもしっかりした方なんです」  夕方のサンルーム。ロビンは母と共にお茶をしていた。もうすぐ夜が来て正餐の時間になる。それまでの時間つぶしというわけだ。 「ところで、風紀改善協会の方はどうなっているのかしら?」  じっと濃い紅茶の水色を眺めながら、母のナイチンゲールは微笑を口元に浮かべる。ロビンは大きく眼を見開いて、自分と同じ眼を持つ母を見た。 「ミス・レッドから聴いたわ。あのお嬢さん、コーヒーハウスを営んでいる女の養女というじゃない。たしかにコーヒーハウスはロンドン中の情報が集まるサロンともいえる場所だけれど、それだけであれほど優美な仕草を身につけられる環境にいるのかしら」 「情報屋を使って、僕の恋人のことを調べた訳か」  そっとカップをソーサーに置き、ロビンは母を睨みつける。老いてもなお美しい婦人は、憐憫の眼差しを息子に向けていた。 「あなたの恋路を邪魔したいわけではないのよ。ただ、あなたは女性が苦手でしょう? その、大丈夫か心配でね」 「ああ、そのせいで僕には婚約者の一人もいないものね」  母に苦笑を向けてみせる。すると、その母もまた困った様子でロビンを見つめ返した。  14歳のころだ。声変りが始まったロビンに、婚約の話が持ち上がったのは。その子の顔をロビンはよく覚えていない。でも、それなりに仲はよかった。その子が細身のロビンに冗談で自分のドレスを着てみてはと言うまでは。 「初めてのフィアンセの前で、盛大に吐いたのは今でもいい思い出だよ」 「それからあなた、女の子ともめっきり遊ばなくなっちゃって……。オックスフォードに行くために勉強に励んでくれるのはいいのだけれど、浮かない話の一つもないと親としても心配になるのよ。ただでさえあなたは、女の子が苦手なんだから」  それはあなたのせいですよ。そう言い返したいのをぐっとこらえ、ロビンは俯いていた。この女は、自分のせいで息子が女を愛せなくなったことに気がついていないのだ。 「僕はいつまで姉さんの代わりなの……?」  思ったことが言葉になる。ロビンが顔をあげると、母は気まずそうに眼を伏せそっと口を開いた。 「代わりなんかじゃないわ、ロビン。あなたも、私の大切な子供よ。いや、もう私にはあなたしか残されていない。あなたの姉さんもお父さんも、あの馬車の事故で亡くなってしまったもの……」  セダンチェアで家に帰ろうとしていた二人を、暴走した四輪馬車が轢いたのはいつだったろうか。もう、ずいぶん前な気がする。そんな昔のことを、眼の前にいる喪服の女は忘れらないのだ。 「あなたには、嫌な思いをさせてしまったことは分かっている。あの子とあなたは違うのに、あなたの眼があのこと同じ色だから私は……」  ロビンがじっとこちらを見つめる中、母は胸の内を語り始める。母は姉の遺髪が入ったブローチを握りしめ、言葉を続けた。 「でも、あなたは私を慰めてくれたわよね、ロビン。あなたはとても優しい子だから」  優しい微笑みを湛え、ブローチをもった母が微笑む。その瞬間、ロビンは強烈な嘔吐感を覚えていた。胃液が喉元までせりあがり、ロビンは口元を思わず押さえてしまう。 「ロビンっ! どうしたのっ?」  自分のもとへと駆け寄ってくる母の声がやけに耳に響き渡る。顔をあげると、自分の母である女が心配そうにこちらを見つめていた。 「ロビン、どうしたの?」  そっとその女がロビンに手を差し伸べてくる。ロビンは母であるはずのその人の手を、払いのけていた。  自分は男でも女でもなくモリーだ。  そう、自分に言い聞かせながら全裸になったエドワードは、鏡の前に立つ。長い金の髪が、男に成長することをやめた体を覆い、傷ついた性器を隠した。 「これが綺麗だなんて思えないよ……」  エドワードは思ったことを口にする。女の衣装を脱いでエドワルダであることをやめても、自分が男だということをエドワードは自覚することができなかった。  マダムに拾われてから、ずっと女物の洋服ばかりを着ていたせいかもしれない。自分が男であった頃の名残りはこの体にある。でも、エドワードは自分の薄い胸板を見ても、睾丸のない性器を鏡越しに凝視しても、自分が男であったことを朧げにしか覚えていない。  自分は12歳までたしかに男だったのに、そのことを思い出そうとすると記憶が霞みがかって何も分からなくなる。  思い出すのは、自分をひたすらに追いかける獰猛な猟犬たちの鳴き声と、下半身に走った強烈な痛みばかりだ。あとは、テムズ川でゴミ漁りをしていたこと。  自分は泥雲雀と呼ばれる、テムズ川に流れるゴミを漁る浮浪児だった。ゴミの中で金目のものがあればそれをパンに変え、飢えをしのいでいた毎日。それに比べると、今のこの境遇は天国のようだ。 「いや、ここは実際に天国だよ……」  自分は飢えることも、この醜い姿を追害されることもない。マダムやモリーたちが自分を守ってくれるからだ。  それに比べて、ロビンはどうだろう。彼は飢えることも追害されることも知らずに育った。けれど、彼の周囲に彼を守ってくれる人はいたのだろうか。  そんな歪んだ優しさの中で育った青年は、まるで得体のしれないもののようにエドワードには思えるのだ。 「怪物……」  そっと鏡に手をあてて、エドワードはロビンのことをそう呼んでいた。怪物。彼を形容するなら、その言葉が一番しっくりとくる。  普通の人間たちが求めてやまない優しさを拒絶する怪物。醜い自分を美しいとのたまわった怪物。  始めて会ったとき、彼がそんな怪物だと思いもしなかった。エドワードは、そんな彼が恐ろしい。ロビンという怪物が、自分の愛するこのモリーハウスを滅茶苦茶にしてしまわないのか不安になるのだ。 「あの小さい駒鳥に、そんなこと出来るわけがないか。君は、僕の駒鳥だものね」  鏡の中の自分に語りかける。微笑む鏡像を見つめていると、ロビンがこちらに微笑んでいるように見えるのは気のせいだろうか。そっとエドワードはしゃがみこみ、床に落ちたシャツを纏っていた。  そのときだ。誰もいないはずの部屋の扉が開いたのは。エドワードは慌てて背後にある部屋の扉を見つめていた。  翠色の眼をさまよわせるロビンが、扉から部屋へと入ってくる。ランプにかすかに照らされる彼の姿を見て、エドワードは大きく眼を見開いていた。  血に濡れたシャツをロビンが纏っていたからだ。ロビンの手には、拳銃が握られている。彼はその銃をあげ、大きく眼を見開くエドワードに向けて発砲した。

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