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第1話
東京は十日ほど前に梅雨入りし、空は連日ぐずついた雲に覆われていた。今朝も膨れ上がった雲の体積でかなり低い位置まで空は押し下げられ、すぐにでも雨が降り出しそうだ。まだ始発列車が動き始めたばかりの早朝だけれど、湿気を含んだ空気のせいで爽やかさは感じられない。世界中の憂鬱が全てどんよりとした雲に詰まっているようだった。
麻生隼人は、だらだらとした足取りで家路を辿りながら、時折空を眺め、気を重くした。六月も半ばを過ぎた頃だけれど、今月の朝帰りの回数は今回で二桁にのぼる。中学生で迎えた反抗期を中途半端に引き摺り、大学二年生に上がった今もあまり家には帰らない。自分の家で眠るのはせいぜい週の半分くらいで、あとは一人暮らしをしている彼女の部屋か、誰か適当な友達の家、居酒屋やクラブなどで過ごす。それが大学生の平均よりも多いのか少ないのか知らないけれど、自分の育った環境が一般的でないことを隼人は頻繁な朝帰りの言い訳としていた。
隼人には父親がいない。母親はいるけれど、それも養母である。中学二年生の冬に隼人はその事実を、突然他人を通じて知った。
母の玲子は都内で輸入雑貨の会社を経営しているキャリアウーマンだ。質実剛健を体現したような女性で、どんなに多忙でも家事の手を抜くことも、学校行事を欠席することもほとんどなく、女手一つで隼人をここまで育ててきた。幼い頃、母は純粋な尊敬の対象であり、隼人は彼女のことをとても好いていた。
真実を知った隼人がまず持ったのは畏怖だった。ある日突然玲子から養母であることを知らされ、赤の他人になることへの恐怖。中学生だった隼人にとって、それは一人では抱えきれない大きな問題だった。玲子に聞くことはできないし、相談できる大人もいない。不安から逃げるように、隼人は遊び回り家にあまり帰らないようになった。
いずれは話す時が必ず来ると思いながらも、結局玲子に何も言えないまま、隼人はこの春に十九歳になった。
マンションに着くと、隼人は一旦立ち止まり、建物を見上げて息を吐いた。周囲に緑の多い低層マンションは、都心の一等地にありながらも家族向けの間取りが多く、隼人の住む最上階の部屋も三LDKだ。二人暮らしにも関わらず隼人の将来を心配し、値段の高いその部屋を買ったのは玲子だった。
かすかに湿った匂いを発する滑らかな石造りのエントランスを抜け、エレベーターを四階で降りる。部屋が近付くほどに、胸の中の澱が蠢いた。まだ蝉の声も遠いほどの早朝だ。廊下はとても静かで、それが余計に隼人の異物感を強くした。鍵を開けて家に入ると、真っ直ぐにリビングに向かう。隼人の部屋はリビングから繋がっているし、喉も渇いていた。
「――隼人! 遅いわよ!」
リビングのドアを開けた隼人は、まだ部屋に入らない内に響いた怒鳴り声に、ぎくりと肩を震わせた。静謐な朝を切り裂くような玲子の苛立った声に、まずい、と目を閉じる。
今はもう、朝帰りくらいで玲子が隼人に小言を言うこともないし、待っていることもない。こんな明け方まで彼女が隼人を待っていたということは、何か重要な用事があったのに違いなかった。携帯電話の電源は昨日の夜から切ってしまっている。玲子の父、つまり戸籍上隼人の祖父に当たる人が亡くなった時にも隼人は同じミスを犯し、弔問に行くことができなかった。あの時のことを思い出し、隼人は寝惚けた頭を必死で回転させ、言い訳を探した。反抗期を引き摺って家にほとんど帰らないとはいえ、玲子を無視したり、罵声を浴びせるようなことはしない。ただ、玲子と顔を合わせるのが隼人は怖い。年々、感情は頑なになっていく。
「あー、悪い……」
弁明しようとした隼人は頭を上げ、視界に映った光景にすぐ顔を歪めた。リビングの中央に設置されたソファに、玲子と知らない男が座って隼人を見ている。隼人は思わず体を強張らせ、窺うようにして玲子を見た。玲子は脚を組み、苛々とした様子でいつも身に着けているプラチナのペンダントを弄っている。
「何、固まってんのよ」
「何って。何、彼氏?
思いついたままに、隼人は言った。男は隼人とそう変わらない年だ。戸惑って玲子の方を再び見ると、玲子が大きな溜息をついた。どこからともなく煙草のような匂いが近づいてくる。隼人のものとも、玲子の軽い煙草とも違う、妙な匂いだ。
「誰?」
「依くん」
「ヨリ?」
親戚にそんな名前の若い男がいただろうか。隼人は思い出そうとしたけれど、記憶の中に彼の風貌と合致する人物はいなかった。
「そう、依くん。えぇと、苗字は何だったかしら?」
「朝永です。朝に、永遠の永で、朝永」
「だそうよ?」
玲子は満足した様子で頷き、それから隼人の方を見た。何か問題でも、とでも言いたげな目だ。リビングのドアノブを掴んだまま瞠目していた隼人は、状況を把握できないまま、とりあえず部屋に入りノブを手放した。空間が閉じられ、空気の質が変わる。
「それで、何なわけ?」
「彼ね、今日からしばらくうちに住んでもらうことにしたから」
「は?」
「アパートがね、火事になっちゃったのよ。ほら、三丁目の辺り。あんた、気付かなかった?」
どうせ、その辺りのホテルでしょう、と玲子は胡散臭そうにつけ加え、小さく息を吐いた。今日はホテルじゃなくて彼女の部屋、といらない反論をしかけ、隼人はぐ、と堪えた。
中学二年を皮切りに隼人の行動が派手になっても、玲子はそれを咎めるようなことはせず、それまでと同様に隼人に接した。それについて玲子の中で何か理由や考えがあるのかどうか、隼人は知らない。ちょうど全ての同年代が反抗期を迎えている頃で、隼人だけが特別な理由を抱えているなんて考えもしなかっただけかもしれない。ただ、玲子が自分に対して腫れものを触るような態度であったり、逆に厳しく束縛しようとする態度を取らなかったことは、隼人にとってありがたかった。
「会社の子たちと飲みに行った帰りにちょうど前通ったのよ。そしたら依くんが飛び出して来るところで、ね?」
「はい」
男は頷き、苦く笑って見せた。
「それはわかったけど、何でうちなんだよ」
「ご実家が長野で、東京に親戚も頼れる人もいないんですって」
「だからって、何で」
「いいじゃない。彼、かわいいでしょう?」
あっけらかんとした玲子の口調に、隼人は気が遠のくのを覚えた。もう五十を越えたおばさんが、息子と同年代の男を相手に、何を言っているのか。
「私、このタイプ弱いのよね。だから家賃の代わりに月一回のデートで手を打ったの」
隼人は頭痛を覚え、思わず眉間を押さえた。
「デートって、何。何だよそれ」
「まだ説明が必要なの?」
いい加減にしてよ、と玲子が隼人を睨みつけた。いい加減にして欲しいのはこちらの方だ、と心の中で答えつつ、隼人は男を見る。明け方の非現実的な空気の中ですら際立つほど、地味な男だ。切れ長の一重の目に、青白い肌、ぼさぼさの黒い髪、細すぎるくらいの、猫背で頼りない体。一言で言えば、幸の薄そうな。
対して、隼人は大きな瞳に、薄く形のいい唇と、高い鼻を持っている。髪は明るく染めたミディアムのパーマヘアで、背も高く、よく芸能人のように派手だと評される。彼とはまるで正反対のタイプだった。
「お世話になります」
頬に薄くすすまでつけた男は、火事に遭ったという悲壮感もなく、地味な顔でへらりと笑った。隼人はひどくなる頭痛に息をつく。
「依くん、あんたと同じ大学の三年生なんだって。ちょうどいいでしょう? 仲良くしてよ」
「何で俺が。ちょうどいいって何が」
「仲良く、できるでしょう?」
この時間まで隼人をひたすら待っていたせいもあるのか、玲子はかなり苛立ちを募らせている様子だ。隼人はう、と言葉を詰まらせながらも、負けまいと弱気な心を払拭した。
「あのー、朝永、さん?」
「あ、はい」
「ちょっと、母と話してもいいですか?」
「あ、じゃあ、俺は外に……」
玲子が再び隼人を睨む。お客様を外に追い出そうなんて、か、逃げられたらどうするの、か。おそらく前者だろうと隼人は当たりをつけた。逃げ出そうとしているようには見えない。
「あー、いや、あ、シャワー浴びてくれば。すすとか、ついてるし」
視線で同意を求めると、玲子は急に慌てた様子で立ち上がった。
「ごめんなさい。そうよね、お風呂、入りたいわよね」
返事もろくに聞かず、玲子は彼を引っ張ってリビングから出て行く。その光景に隼人は改めて溜息を漏らし、ダイニングの椅子に腰を下ろした。有り得ない。一体、何を考えているのだろう。人の気も知らないで。隼人は段々と苛立ってくる感情をどうにか押し込めながら、テーブルの上に肘をつき、唇を尖らせた。
依をバスルームに案内し終えたらしい玲子は、すぐにリビングに戻ってきた。キッチンで二人分のグラスに水を注ぎ、片方を隼人に差し出す。隼人は喉が渇いていたことを思い出し、一気にそれを半分ほど飲んだ。
「何よ、あの態度」
「何よじゃないだろ」
隼人は玲子の低い声にむっとして、グラスを乱暴にテーブルに置いた。水滴が跳ね、テーブルの上に付着する。玲子が不機嫌そうに、それを布巾で拭きとった。
「何が」
わからない、といった様子で、玲子は隼人の向かい側の席についた。煙草を取り出し、慣れた手つきでそれに火を点ける。
「別にいいじゃない。部屋も余ってるんだし」
「そういう問題じゃない。あんな誰だかわかんない奴と同居なんかできるかよ。子供ならともかく、もういい大人だろ」
「朝永依くん。理工学部の三年生。知ってるじゃない」
十分よ、と言いながら玲子が煙を隼人の顔に向かって吐き出す。湿気のせいか、煙は重そうに隼人の顔の周辺に霧散した。
「全然、十分じゃない」
「じゃあ聞くけど。あんた寝る度にいちいち女の子の住所やら家族構成やら聞いてるの?」
「はぁ?」
「そんなことしないでしょ、面倒臭い。感じのいい悪いで決めたっていいじゃないの。別に殺人犯匿うわけでもあるまいし。礼儀正しいいい子だわ」
「それとこれとは別の問題だろ!」
「同じね、私には。何が不満なのよ。どうせほとんど帰って来ないじゃない」
言い返せず口ごもった隼人に、それとも、と玲子は続けた。まだメイクの残っている唇が歪められる。
「妬いてるの? 隼人が依くんの代わりに毎月デートする?」
口にしてすぐに、玲子は愉しそうにけらけらと笑った。隼人は脱力して項垂れる。
「言っておくけど、私を説き伏せようなんて、二十年早いわよ。この時間が無駄だって、わかんないの? 諦めなさい」
滅茶苦茶な言い分ではあるけれど、彼女の言うとおりだった。説得しようと思ったこと自体がそもそもの間違いだ。隼人の説得に応じる程度のことならば、最初から連れて来たりしなかったに違いない。エネルギーの無駄である。
隼人は腕を組み、しかめ面で唸り声を上げた。どうシミュレーションをしても、勝ち目がない。
私の勝ちね、と玲子は言って、隼人の頭を軽く叩いた。
「……まさかと思うけど、惚れたとか言うなよ」
「さぁ、どうかしら。でもかわいいじゃない、実際。色気があって」
「どこがだよ」
「まぁ、あんたにはまだわからないかもね」
「わかってたまるか」
「あら、そう?」
玲子は愉しそうで、嬉しそうだった。ふざけている。そう思いながらも、隼人はそれは言葉にしなかった。
「俺、知らないからな」
「大丈夫よ。あんたもすぐに気に入るわ」
「気に入らない」
べち、とさっきよりも強く隼人の頭を叩き、玲子は笑みを浮かべた。
「うまくやってよ。それと」
「……何だよ」
「それと、避妊だけはちゃんとしなさい。彼女孕ませたりしたらちょん切るわよ」
「……」
どこを、と聞くことができず、隼人は体を引いた。玲子は笑って、コーヒーを淹れると言ってキッチンに戻っていった。
ぐれるぐれないとは全く無関係に、玲子は隼人が物心ついた頃からこの調子である。奔放で、滅茶苦茶で、母親らしからぬことばかり言う。だから彼女の突拍子もない行動に隼人は慣れているつもりでいたけれど、さすがに息子と同年代の男を連れてくることは予想できなかった。
隼人は水の残りを飲み干し、納得のいかない気持ちを膨らませたけれど、キッチンから玲子のご機嫌な鼻歌が聞こえてくると、もう諦めざるを得なくなり、仕方がない、と溜息をついた。
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