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第2話

午前中のうちに降りだした雨は夜の間に止み、翌朝には鋭利な光が空から射した。とはいえアスファルトは濡れたままで、陽が昇り始めて数時間経った今もあちこちから雨の匂いが漂ってくる。蝉の音が気温の上昇を加速させ、湿気と半端な熱を持った空気が隼人の不快指数を上げた。 じりじりと雨の残骸を蒸発させるアスファルトを歩きながら、隼人は時折隣を歩く依を見やり、内心で憂鬱さを大きくした。 依が玲子に気に入られて隼人の家にやってきたのが昨日のことで、納得しきれない気持ちをとにかく関わらないことで誤魔化そうとしていたのだけれど、隼人のその一方的な決意は玲子の一言によって呆気なく無碍にされた。梅雨の合間にせっかく晴れた休日だというのに朝早くから玲子に起こされ、依の荷物を運ぶのを手伝えと命令されたのだ。消火が終わり、立ち入りが許可されたらしい。渋る隼人に、依は一人で大丈夫だと言ったけれど、玲子が譲らなかった。お陰で隼人は予定していたフットサルサークルの試合への参加をキャンセルせざるを得なくなり、こうして朝から気まずい雰囲気に圧されながら依と二人で歩く羽目になってしまった。マンションから依のアパートまで、聞いた限りではせいぜい二十分ほどの距離なのだけれど、隼人はそれを随分と長く感じている。 「いい、天気だね」 マンションを出てから長らく続いていた沈黙を、不意に依が破った。突然のことで反応が遅れた隼人が言葉をつまらせると、ああ、と依が声を漏らした。 「そういえば、洗濯物溜まってたんだった……燃えたかな」 ぼんやりとした声で言って、苦笑する。会話を成り立たせにくそうな、独特のテンポだ。隼人はこのおかしなテンポには呑まれまいと固く心に誓い、セットもままならなかった頭を掻いた。 「あのさ」 「うん?」 「玲子があんたに何て言ったか知らないけど、何でうちなわけ?」 意識をしたわけではなかったけれど、自然と隼人の声は低くなった。横目で依を見やると、思いがけず、依が笑う。隼人は意味がわからず、眉根を寄せた。 「笑うとこあった? 今」 「あ、ごめん。玲子って、名前で呼ぶのかと思って。いいな、レイコって、響きが」 「は?」 「俺なんか、依って。変な名前だよね」 「はぁ……っつーか、はぐらかすなよ」 「うん。何だっけ?」 「だから、何でうちなんだよ」 「何でって、他に行くところがない」 決まってる、と依は言った。実家が長野で、東京には親戚も頼れる大人もいないという話だけれど、事は一時的なものだ。親の援助を受けるなり、親しい友人を頼るなり、見ず知らずの家に飛び込むより優先順位の高い選択肢はあるはずだ。隼人は理解できず、再び頭を掻いた。 「実家、長野とか言ったっけ」 「うん。でも、両親は亡くなって、祖父母だけなんだ。祖母が脚、悪くて。お金借りるとかは多分無理だから……」 言い辛そうに言葉を濁す依に、隼人は実家についてのそれ以上の追及ができなくなり俯いた。けれど、これだけで引き下がるつもりもない。 「実家は、だめでも。何かあるだろ。友達とか、彼女とかさ」 「彼女……か。でも、俺、ゲイだし」 「げ!?」 「イ」 思わず目を丸くした隼人に、依はあっさりと頷いた。三十度近い気温の中で、一瞬で体の表面温度が零下に落ちるような、そんな気分になる。ゲイなんて、その言葉自体滅多に聞かないほど、ごく一般的な大学生の隼人にとっては現実味のない人種だ。驚き過ぎて言葉を失った隼人を見て、依はそっと笑った。 「だから彼女どころか、女の人は対象外なんだよ。あ、彼氏って意味なら、それもいないけど」 「だって、玲子は……?」 「対象じゃなくても、デートはできる」 「な……」 「あ、そこ、曲がったらすぐアパート」 元アパートか、と言い直して、依が角を折れる。両親との死別に、ゲイであることのカミングアウト。依があまりにさらりと言い放ったので、隼人は処理が追いつかなかったけれど、朝から聞くには随分と衝撃的な話だ。 「っ待てよ、おい」 足を止めて呆けていた隼人は慌てて依の元に駆け寄った。気温がぐんぐん上がってきているせいか、焦っているせいか、肌が汗ばんでいた。 「うん?」 「玲子は? 知ってんの?」 「もちろん、言ったよ、ちゃんと。家賃の代わりにデートでって言われた時。もし、そういう意味なら、俺、何もできないし」 「玲子、何て?」 「遺伝子がもったいない」 「は?」 「って、カフェのテーブル叩いて絶叫してた。びっくりしたよ」 依の苦笑に、隼人の胸の中にあった驚きと怒りの何割かが萎んだのがわかった。玲子の無神経さに呆れたのかもしれない。 「それは……」 「うん?」 「それはなんていうか……悪かったな」 呆れつつも、人目も憚らずに叫ぶ玲子の姿が容易に想像できてしまい、隼人は思わず謝ってしまった。依はきょとんとして、それから首を小さく横に振った。 「平気だよ」 「……そうかよ」 「うん。世間の目から見てどう思われるかくらいは知ってる。嫌な顔されなかっただけで十分だよ。嬉しかった」 「はぁ。そういう、もん?」 「そういうもん。でも、玲子さんの言ったとおりだったな」 「何が?」 「隼人は人に言い触らすようなことしないし、蔑んだりもしない。親の私が保証するから、すっきりしておきたければ言っても大丈夫よって。だから、言ってみたんだけど、謝られるとは思わなかった。意外と真面目なの?」 依の口から紡がれる自分の名前の響きに、隼人は少しどきりとした。男のわりに随分と高い、ガラスのような綺麗な声だ。朝の清廉な空気の中で聞くとそれが際立つ。それに、座っていた時にはただ小柄で貧相という印象を受けたけれど、並んで歩くと意外と背があり、顔が小さくスタイルがいいこともわかる。目線は身長が一八〇センチメートルある隼人よりもわずかに下という程度だった。長めの前髪の隙間から、緩くカーブを描いた切れ長の目が覗く。顔は、相変わらず地味。変わらない感想を持ちつつも、隼人は依から目を逸らした。 「……うるせぇな」 「うん。ごめん。あ、あれ、アパート」 依は笑みを浮かべ、声のトーンを少し明るくし、前方を指差した。視線を向けて、隼人は思わず息を呑む。隼人の眼前に現れた二階建ての木造アパートは、火元らしき一階の部屋のドアを中心に広い範囲が黒く焦げついている。依と玲子の呑気な様子から、ただの小火程度なのだろうと隼人は勝手に推測していたけれど、これは間違いなく火事だ。雨の中でここまで燃え広がったのだから、その規模が窺える。隼人はますます何も言えなくなって、黙ったまま依の後ろに続いた。 「俺の部屋はあそこ」 火元の部屋の二つ隣の入口を指差し、依は中へと入っていく。ドアはほとんど取れかかって、ゆらゆらと頼りなく揺れていた。依を追って部屋に入った隼人は、一瞬で飽和する異臭に思わず鼻を押さえ、むせ込んだ。鼻から脳まで全てを麻痺させるような焦げ臭さだ。燃え方もひどい。荷物といっても、持ち出せるものはほとんどないだろう。 「あーあ、丸焦げ」 ほぼ燃えかすと化した木製の靴箱を依が軽く叩くと、ごと、と取っ手が転がり落ちた。 「通帳持って逃げてよかったな。危なかった」 依が独り言を漏らしながら入ってすぐのキッチンを抜けて、メインルームへと入っていく。間取りはワンルームのようだ。中に入ると、玄関とキッチン周辺よりはいくらかましなものの、それでも壁はすすで真っ黒になり、家具や家電は水浸しの状態だった。今の部屋から見ると、元々物の少ない簡素な部屋であったことが予想される。ますます、持っていけるものは少なそうだ。 「どうしよう。持っていけるもの、あるかな」 「……ないんじゃないの?」 「そうかも。無駄足だったかな」 そう言いつつ、依は一番ましなパソコンデスクに近寄った。勝手にあちこち掘り起こすのも気が引けて、隼人もそのすぐそばに立つ。デスクにはノートパソコンの他に燃えたのちに水浸しになった文具類や本など、あまり運ぶ意味のなさそうなものばかりが散在している。 「っと……」 デスクのすぐ横の本棚に収められていたスチール製の箱を依が引っ張ると、棚が揺れ、その衝撃に箱の中身がデスクの上に散った。外側は変形し、かなり危うい状態ではあるものの、中身はどうやら無事だったらしい。USBメモリなどの小物が入っていたようだ。熱に晒されたので使いものにはならないかもしれない。 順に小物のひとつずつに視線を移して、隼人はふと、意外なものを見つけて動きを止めた。シルバーのドッグタグペンダントだ。一部変色があるけれど、それはおそらく火事ではなく、経年によるものだろう。依のイメージにそぐわないそのアクセサリーに、隼人は何気なく手を伸ばした。 「っ……!」 ペンダントに触れようとした隼人の指先は、ほとんど同時に伸ばされた依の薄い手のひらとぶつかった。言い様のない衝撃が走り、隼人は咄嗟に手を振り払う。振動でペンダントが床に落ちた。 「あ……」 依は驚いた様子で瞬きをして、それから、困ったように眉を下げた。 依がゲイだと聞いても、隼人はさほど嫌悪感を覚えたわけではなかった。自分には関係のない人種だと思ったからだ。あまりにも遠く、映画や漫画の登場人物と同じくらい、リアルでない人間だと、無意識に判断した。けれど触れた瞬間、依が生きた人間であることを実感し、思わず体が拒絶した。 「……悪い」 依を傷つけたであろうことを予想し、ばつが悪くなって隼人は俯いた。玲子が隼人をどう評価して依に何を言おうと、隼人はごく普通のストレートだ。自覚している以上に、本当は戸惑っているのかもしれない。ぎくしゃくと動く心臓を気にしながら、隼人は思った。 「いいよ、大丈夫。ごめん」 首を振り、依は床に落ちたペンダントを拾い上げた。平静が真意なのか、作られたものなのか、隼人には判断できなかった。わずかな安堵と、複数の針で刺されるような罪悪感を覚えながら、気を落ち着けるようにゆっくりと息を吸う。依が平静でいるのだから、自分が取り乱したところを見せるわけにもいかない。 「それ、誰かからの貰いもん?」 「え?」 「何か、イメージ違う」 ペンダントトップであるドッグタグを手のひらに載せ、依はああ、と頷いた。 「親のなんだ」 「え、ああ……」 両親を亡くしたという話を思い出し、隼人は納得した。形見というやつなのだろう。それにしては随分ぞんざいに箱に押し込まれていたようだけれど、そこまで追求するのも不躾だ。 「俺がまだ三歳の頃に父親が事故で死んで、母は、十歳の時に病気で死んだんだ。これは元々父が着けてたやつで、それが母のになって、俺のになった。母が死んでから渡されたんだけど、でも、俺アクセサリーとか似合わないし、困ってたんだ」 形見のペンダントが似合う、似合わないの問題なのかどうか、隼人は少し考えた。普通、死んだ身内が持っていたものならば、何だって大事されるものではないか。それがペンダントでも指輪でも何でも。隼人には依の言うことが理解できず顔を顰めた。 「持ってくんだろ、それは」 「いや……どうしようかな」 「え?」 「これがいい機会かも。こんなの持ってたって、二人が帰ってくるわけでもないし、色々思い出して辛いだけじゃない?」 「いや……それは」 おかしいと思う、と、隼人は言えなかった。言葉とは裏腹に依の表情がひどく悲しげで、寂しげだったからだ。隼人に父親はいないけれど、そもそも顔も知らないし、いつまでいたのかも知らない。それについて感慨のようなものはまるでない。本当の母親についてもほとんど同様だ。それを知った時の記憶はあっても、玲子と血の繋がりがないということを教えられたショックについてのことだけで、実の母親に対して会いたいとか、話をしたいとか、そんな感情はなかった。だから、依がこんな顔をする理由が隼人にはわからないし、理解できない。 「パソコンもだめになってるだろうし……本当、何もないな。買い物行かないと」 依はペンダントをデスクの上に放り、何事もなかったかのように明るい声で言った。それまでのスムーズな話し方ではなく、錆びた歯車を回すようなぎこちなさに、隼人は彼が無理をしているのだということを確信した。心なしか顔色も悪い。 隼人は聖人君子ではないし、正義感に溢れているわけでもない。ただ、よく知らないとはいえ、依が形見を放ったままでいるのを見過ごすのは何とも後味が悪く、すっきりしなかった。もやもやを不快に思っていた隼人は、依が部屋を出ようしていることに気付くと、慌ててペンダントを掴み彼を呼びとめた。 「おい」 「……何」 「取っておけよ、一応」 「何のために?」 依は隼人の目もペンダントも見ずに、俯き加減で言った。存在に気付いてしまったことを呪うしかない。ペンダントは隼人の手の中でみるみる重みを増し、けれどそうなるほどにそれを手放してしまうことができない。 「どうしてもって言うなら、俺が預かっておく」 隼人の提案に、依はかなり驚いた様子で目を瞠った。当然だろう。誰だって他人の形見などという背景のある重いものを持ちたいとは思わない。隼人だって、思わない。けれど一度手にしてしまったそれを、自分の手で捨ててしまうのはどうしても気が引けた。 「後悔するだろ」 「十年ほとんど触りもしなかった。しないよ」 「でも明日はするかもしれないじゃん」 「どうして。俺のため?」 「ふざけんな。ちげぇよ。俺のせいで捨てられたって、恨まれたくないんだよ」 依は瞬きをし、それから緊張を解くように小さく笑った。安心したような溜息混じりでごめん、と言う。やっぱり、無理をしていたのだ。 逃げるような早足で依は部屋を出て、隼人は気重になりながらペンダントをジーンズのポケットに仕舞い込んだ。本当は、依の自分で持っている、という一言があればすっきりしたのだけれど、こうなってしまってはもう後に引けない。ずしりと質量以上の重みが隼人の動きを鈍らせる。遠くで鳴く蝉と、焦げくさい匂い、合間に覗く、かすかな雨の匂い。いびつな球体が胸の辺りを圧迫し、隼人はそれを息苦しく思った。

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